日常 一覧

ほんと、ごめんなさい。今からすごく無責任なこと書きます。

人間、何かを失ったときに「喪失感」を味わうのはごく普通のことらしい。「家族の死」みたいな、自分ではどうにもならん事象に対しては確かにそうだと思うんだけど、まさか自分で決めたことについて、しかも俺自身にそういう状態が起こるとは思ってなかった。

なんというか、喪失感というと少し違う気がするんだけど、今まで当たり前にしてきたことをしなくていいとなってみて、なんか微妙・・・。もちろん身体的にも精神的にも、とても楽なんだけど・・・。ほんとごめんなさいね、今更「これで良かったんだよね?」と、つい自問してしまったりする。

自分で決めた路なので、「良かったよ、だからつべこべ言わずに前へ進め」というのがおそらく答えなんだけどね。まぁ、それを否定も肯定もする気はないが、少なくとも否定はしません。わけわかりません。

で、そこは端っこにやったとして、じゃぁ、虚無感にも似たこの感情は何なのかと考えてみると、一つの答えにたどり着いた。「承認欲求」とか「存在証明」とか、そういった類のものだ。

会社では、どちらかといえば、俺は一人でもくもくと作業することが多かったので、仕事してるときは、直接的にリレーションシップを感じることはなかったんだけど、それは単に無意識なだけで、本当はいろいろな人と関わり、自分の存在を認識できていた。もちろん、「たぶん俺はそう必要とされてないな」と思わなかったかといえばうそだけど、結果的には、(必要か否かということは抜きにして)いろいろな人とつながってて、無意識のうちに俺はそれを自分の価値に結び付けていたことに、ほんと今更気づいた。

ここ数日、SNSへの俺の投稿頻度が上がっているのは、たぶんそれが関係している。ゆるい形に変容したとはいえ、これまでのリレーションシップが多少なりとも維持できる状態をSNS上で、これまでに作った。そして、それを本格的に維持するために、ここのところ、SNSへの投稿がアクティブになっている。そういうことだろう。

っていうか、こんなこと書いて、俺は何がしたいんかね?さっぱり分からんこともないけど、なんか、こういうことを書いてしまい、ちょっとためらいながらも、ポストしてしまう自分が、なんか微妙・・・。

まぁ、「自分はここにいるんだ!」ということを、自分で認識できる手段が、たまたまSNSだったので、そうしているだけなんだろう。そして、今はどうか知らないが、少なくとも、そういう感情を抱いたことを後で思い返して懐かしめるように、こうして文章を残しているんだろう。

ま、会社でのリレーションシップを保持しておきたい理由は他にもあるかもしれんけど、まぁ、分からん。まあ、いいや。個人n的なこととかもあるけど、まぁ、それなりに大きな会社から、だれも知らないような職場へ転職するんで、親戚に言うときもなんか・・・みたいなのは無いこともないけど。怒られちゃうね、そういうことで判断しちゃね。自分の仕事にプライドを持てることが、一人前の要素だと思うから、頑張ることにします。

言っておくけど、割と葛藤してんだよ、俺は(笑)。

そういや、「俺の思い出って、どういう形で残ってるんだろう?」とふと気になったので、思い出してみることにした。

たいてい、普通の人は思い出に写真を残すことだろう。旅行や観光、何かの記念、いろいろな場面で写真を撮る。そして、アルバムを作る。昔みたいに、1冊の本に現像した写真を張っていく人もいれば、電子端末にデジタルデータとして写真を管理している人もいるだろうけど、とにかく、写真で思い出を残すことが多いはず。それは、多くの人、そして多くの場面において、目に映った出来事が思い出になりうるものであり、かつ、最も鮮明な思い出たりうるからだ。

けれど、全盲の私としては、写真とかあっても、「何の写真だっけ、これ?」という、思い出とはかけ離れた感想を持ってしまう。いや・・・。今は携帯とかデジカメで写真撮って、タグを付けたりファイル名を工夫したりすれば、どんな写真かをテキストでも確認できるように保存できるけれども、正直、俺はそんな面倒なことはしたくない。してもいいんだけど、めんどい。

そういうわけなので、盲人が思い出を残すとなると、記憶するか、または音声を録音するかのどちらかということになる。盲学校にいたころは、先生が気を使って、保護者用に写真を撮るのと同時に、例えば修学旅行の様子を録音したりして思い出を残す工夫をしてくれていたものだ。ただ、当時、音声を録音するのにカセットテープが主流だったけれど、今、私の手元にカセットテープを再生できる機械がないので、実家をあさってそのカセットが出てきても、思い出を再生することはできないんだけど・・・。そういう風に考えると、昔の写真でも、端末に左右されず閲覧できていいなあ。

でだ。学校にいたときは、そうやって周りが気を使ってくれてたり、記録として録音するという文化が当たり前だったんだけど、健常者の世界に出てくると、当然そうではなくて、さっきも書いたように、思い出としての記録は主に写真である。で、俺的に写真撮っても、あとあと思い出を懐かしむ材料にはならないので、そういうものは自分で撮ろうと思わなかったし、他の人が撮ったものを焼き増しするというようなことも考えてなかった。

そういう感じで今まできたから、最近不安になることがある。俺は事実上、自分の記憶にほとんどの思い出を残している状態だけど、この記憶はいつまで持続するんだろうか?

まぁ、私の目が、将来仮に見えるようになったときのために、少しぐらい写真を残しておいてもよかったかもしれない。一般常識は外れるけど、事情を説明して、何かの様子を録音させてもらえばよかったかもしれない。そういう風に、自分の身体と切り離した形で、思い出を残しておいた方が、よかったかなあと、ちょっと、ここ2,3日思っているわけである。

特に、最近のソーシャルメディアの普及が、よけい俺にそう思わせるのかもしれない。写真をアップロードするのが目的のSNSもかなり普及しているし、Facebookなんかは、テキストも書けるけど、どちらかといえば [picture-based SNS] という感じ。これらは、自分の写真を他者と共有できるのが良い点であり、これまでは同じ「時」を共有している人たちが思い出を共有していた状態を、サービスベースで思い出を共有できる形へ変化させた。

ここで注目すべきは、普通の人のFacebookの利用方法と、盲人のFacebookの利用方法は、割と異なるということだ。普通の人は前述したように [picture-based] なんだけど、盲人同士の友人が多い人は、Facebookであっても、テキスト中心のコンテンツをアップする傾向が強い。また、盲人だけど周囲に健常者が多い人は、テキストを中心にしつつも、ときどき写真をアップすることがある。

で、いろいろ長く書いてきたけれども、Facebookの友達だって、比較的強いリレーションシップの人もいれば、弱いというかゆるいリレーションシップの人もいるわけで・・・。盲人コミュニティとは比較的強いものの、健常者コミュニティとは割とゆるい繋がりであると、自分自身のことを考えている俺としては、「うーん・・・。」という感じなわけである。

その、思い出を共有する形態がね、プラットフォームは同じでもコンテンツが違う故に、事実上共有できてないし、だからといってこっちから共有できるようなものもないし・・・。

できることなら、音声も共有できるようなSNSだったらいいんだろうけど、でも個人的にはそれだけじゃだめだと思う。それだけ、というか、写真も音声も共有できたって、そもそも普通の人と盲人は、視覚情報が有るか無いかの違いによる「感性の違い」が割と著しいから、技術的に音声コンテンツの共有が簡単にできても、コンテンツとしてアップする人たちは、前述のテキストベースの人たちが移転してくるだけになるんじゃないかな、と思う。

なんか、だんだん話が逸れてきたので元に戻しますけど・・・。俺の不安としてはですね、一義的には「形に残らない思い出を持続できるか怪しいことが不安」であって、他には、さっきみたいに他人と自分の思い出を共有できるプラットフォームがあるのにうまく共有できないことについて微妙な気持ちになったりするし、あとは、もしも結婚式とかを自分がやるときに、「スライドで流すような写真なんかねえなあ」ということも思ったりするのである。

まあ、一番最後の問題は、当分私は結婚しない予感がするので、対して心配することではないかもしれない。

結婚といえば「結婚するためにはいろいろな処へ出かけなければなりません。積極的になってください」と、つい先日アドバイスを頂きましたが・・・。まぁ、努力はしてみようと思うけど、結婚は、たぶんそう単純にできるもんじゃないと、俺は思うなあ。相手が盲人だったらそう壁はないかもしれんけど、運よく健常者の彼女ができても、ご両親が偏見の塊で破断になること、多いみたいだし・・・。いや、まあ、好きになったら、相手がどんな人だろうと関係ないかもしれんけど、好きになるまでのプロセスが、俺にとっては一番問題なんだよ。

まぁ、いいや。結婚については、もっと酔っぱらったときに気が向いたら書こう。自分の結婚感とか書いたら、だれとも結婚できなくなるかもしれんけど、まぁ、しかたないね。長期的な視点を持たず、こうやって酔っぱらったノリで文章書いちゃう時点で、もうだめだ。さようなら。あぁ、心が苦しいよ。

題名のとおり、「私事」という単語を、自分が自由きままに書いているブログで書くのは、ちょっと「どうかと思う」けれども、それはそれで、なんとなく奥深いというか、あほみたいなので、やっぱり書きます。、

私事ですが、本日、会社を辞めました。自分が他人の「退職告知」を読む度に「そんなもん書く人の気持ちは5割ぐらいしか分からん!」と常々思っていたけれど、今日、8割ぐらいは分かる気になったので、したためているということである。

さて、今の会社と言ってよいものか・・・。とりあえず、今日まで出社していた会社。相対的には、長く世話になったとは言えないかもしれない。が、初めて勤めた会社ということもあり、どっぷりその会社の文化にひたったのではないかと、我ながら思う。

文化とか、方針とか、個人的にどうかと思う部分はあったにせよ、こう言っちゃなんだが、俺はこの会社に拾われたと言ってもいい。大学院に進んだものの、なんだかんだで中退して、リーマンショックの影響が波及する前に運よく入社できた会社。全盲という、正直、俺自身も「どういう存在なん、それ?」と思うような人でも、雇う決断をした会社。

関係者が読んでいることを承知であえて書くが、この会社を私が「好きだったかどうか」と尋ねられれば、「Yes」とは即答できない。もちろん、それなりに大きな企業だったので、体裁は整っていたけれど、それなりに大きい故に、矛盾した側面もあったように思うし、それでも、きちんとした側面はあった。

様々な要素を内包していた会社。組織として見た場合の感じ方はそういうことなんだが、同僚、上司、仕事上で関係のあった人々、それぞれを個々に考えると、皆良い人であった。技術者としてのプライドを持ちつつ、もちろん技術職でない人も、自分の役割をきちんと果たすという意識を感じたし、相対的には優秀な人材がいた会社だったのかなと、今になって思う。

けれど、私は、会社を辞めることにした。それは、次の、全く違うステップへ進むためである。めんどくさいし、最近は物騒な世の中なので、詳細は書かないけれども、私は私の決断を正しいものと信じている。

新しいステップに対し、希望はある。自分の実現したい夢もある。同時に、現実を見れば、そのような綺麗事ではなく、もっとドロドロした財源とか政治的リレーションシップのような、ビジネスではあまり想像のつかない領域に、ひょっとしたら足をつっこまないといけないかもしれない。まぁでも、それはそれでありじゃないか。別に、それで失敗したなら、また、別のことを探せば良いだけ。

正直に書きますが、今朝までは、「今日で会社を辞めるんだな」という意識はほとんど持たなかったし、関係者へ挨拶しているときも、そんなに意識することはなかった。でも、飲んで帰って着て、割と酔っぱらっているけれどもうちょっと飲みたい気分でちょっと飲んだ今、今になっていろいろ思っている。

人間、自分は大してウェイトが高くないと思っていることでも、他人からすると、結構ウェイトが高いように言われることもあるし、逆のこともある。お世辞にも私は会社に利益を与えたと言えないが、・・・いや、そうではないと言ってくれる人もいるかもしれないが・・・。終わってみれば過去のこと、でも、感じている今は今なので今なんだ!

そういうことなので、最後の「ギュー!」は忘れません。

ところで、入社した当初にお世話になってた人のところへ挨拶に行ったときのこと。「メール送っておいたから」と言われて、席に戻ってメールを開いたら「真剣に結婚を考えろ」と書いてありました。まぁ、そういう年齢ですがね・・・。どういう意味ですか?「凪のあすから」を見て、「片思いが一番美しい」とかいう感想を述べる俺に、どうやったら結婚を現実的な人生のライフプランとして認識できるんだろうか?っていうか、「ギュー!」が忘れられなくて割と困っています。

そういうわけなんで、もう、何を書きたいんだか、さっぱり分からんね、これは。

では最後に。

なんだかんだ、この会社で良かったよ。人間、ないものねだりするのが常だから、在職中に思ったことは、真実であり願望であり希望であったが、今となっては、悪くない思い出です。

今後は、別に自分を高めるわけでもなく、とりあえず、いつ死んでもいいように、毎日を必死に生きて、余力があったら将来の自分と、それから、将来の子供たちへ、希望を繋ぐ仕事をしていきたいと思います。というのも、隣の部屋で、あかちゃんが「夜泣き」しとるもんだいね~。

それでは、また。とりあえず、仕事じゃなく遊びに、今度横浜行こう!確か、去年の終わり、シベリア鉄道だと思っていたら、ただの東横線だったとかっていう意味不明な出来事がおきたけど(笑)。

会社帰りに、傘を忘れることがしばしばある。雨の日、朝出勤したら傘立てに傘を置いておくのだが、退勤するときに99%の確率で傘を忘れるのだ。

普通、窓から外の様子を見たり、帰り際に傘立てが目に入って傘のことを思い出すのだろうけど、全盲だとどっちも無理なので、石木しておかないと忘れてしまう。傘は雨の日にしか持たないのでなおさらである。(ただ、ググると普通の人でもよく傘を忘れるらしいことは分かった)

傘を忘れないで帰るために、何か良い方法はないだろうか?そう、いつも考えているのだが、どうもしっくりくる方法がない。

まず思いついたのは、傘と自分との距離が一定以上離れたら、音や振動で知らせてくれるツールだ。実際、次のような商品がある。

もう売っているのか分からないが、その商品は、発信機と受信機がセットになっているもので、傘に発信機を取り付け、受信機を自分のポケットかどこかに入れておく。すると、10メートル程度傘と自分の距離が離れると、受信機が振動して、傘から離れたことを通知してくれるのだ。

この商品により、傘を置いたまま帰ろうとしても、途中で気がつくので、傘を置いたまま会社を出ることはなくなった。そういう意味では、要求を満たす商品だったのだが、当然問題点もある。

第1に電池の持ちが悪い。一応電源はあるけど、電源を入れっぱなしで2,3日しか持たない。これに「電源切り忘れ」という合わせ技が入ると、「いざ出陣!」というときに電池がなくなっていることに気づく、という悲しい事態となる。

第2の問題は、10メートル以上傘から離れると、受信機がブーブーうるさいことである。いや、だから忘れないのだけど、そもそも傘立てと自席が10メートル以上離れている場合、うっとおしいこと極まりない。この商品を買ったころは、傘立てが席に近かったのでよかったが、席替えした後だいぶ傘立てから離れてしまったので、もうブーブー・ラッシュって感じであった。このケースでは、受信機の電源を切ることでブーブー・ラッシュを回避できるけど、「それじゃ意味ないじゃん!」ということに読者の方はもう気付いたに違いない。

こんな感じで、そう悪いアイデアではなかったが、この方式で傘忘れを防止することは、結果的に無理であった。

さて、それから「傘忘れ防止方」の検討をすっかりさぼってしまったのだが、昨日傘を忘れたおかげで、会社ビルの中を2往復もしてしまったので、ちょっと真面目に考えることにした。

スマフォを常に持ち歩いているのだから、これを利用してしまうのが、傘忘れには効果的と考えられる。

そこでiPhoneの「リマインダー」に「傘を持って帰ること」と登録しておけば良いのではないかと思い付いた。だがすぐに問題点に気づいた。

リマインダーに登録するのを忘れると、傘を忘れてしまうのだ。

これを防止するためには、リマインダーに登録することを忘れないよう、リマインダーに登録しておくことが有効と考えられる。が、リマインダーに忘れないようリマインダーに登録することを忘れてしまっては意味がないので、「「リマインダーに登録するのを忘れないようにリマインダーに登録する」ことを忘れないようにリマインダーに登録する」ことが必要だ。でもやっぱりリマインダー登録を忘れると意味がないので、「「「「「リマインダに登録するのを忘れないようリマインダーに登録する」のを忘れないよう」・・・」・・・」・・・」。

このように、リマインダーを使うと、無限ループが発生する。無限ループっていうか、LISPの括弧地獄をちょっと思い出した。

従ってリマインダー利用は却下なのだが、今思い出した。昔、携帯メールに「傘忘れるな」と朝メールしておく方法を考案したことがあるが、朝メールを送るのを忘れると、傘も忘れてしまうので、結局使えなかったのだった。どうやら「車輪の再発名」的なことをしていたようだ。

そうなると、あと思いつくのは、アプリを作ることぐらいである。Google先生でも Weather News でもなんでもいいけど、天気情報を取得できるAPIを提供してるWebサービスをマッシュアップして、「朝雨が降ってた日の夕方にプッシュ通知する」機能を実装すれば良い。っていうか、Google Nowとかでやって欲しい。インストールして数日しただけで人の職場を勝手に判定してたんだから、Google先生ならこれぐらいやってても良さそうだが・・・。

と思ったら、冒頭で少し触れたが、同じようなことを考える人はいるらしく、もうアプリが存在していた。でも、やっぱり自分でアプリを起動しないといけないので、忘れそう。

傘もった? - Google Play の Android アプリ

なお、「今日は傘が必要か?」を教えてくれるアプリは何種類かあるけど、「傘を忘れないように」との趣旨のアプリはこれぐらいなのかね。

ちなみに、傘忘れを防止するために、みんながどんなことをしているか、以下のサイトに掲載されている。なんだか、これを読んだら力が抜けた。さようなら。

地味に役立つライフハック! うっかり傘忘れをなくす方法 - トレンドニュース

渋谷駅の戦い

  • 日常
【戦闘】 渋谷駅の戦い
交戦勢力
俺、 うんこ
地  点
渋谷駅
日  時
2013年12月5日 0818時~0849時
激戦 地
渋谷駅トイレ
結  果
俺の勝利

本日朝、通勤中に「渋谷駅の戦い」が勃発。大量の戦死者を出しつつ、我方が肛門付近でうんこ新劇を阻止した。その後休戦協定の後、速やかにうんこは便器へリリースされた。

以下に背景を含めた戦闘報告をまとめる。

■開戦前

0716時。大腸付近でうんこ軍の一部による反乱が発生。反乱軍は鎮圧されたものの、うんこ軍側が「反乱の原因はお前らにある」との主張を始めたため、我方も即座に外交ルートを通じてうんこ軍と接触した。

0723時。自宅トイレにて代表同士が会談。我方はうんこ軍に対し、毎朝の習慣である「排便」を速やかに実施するよう強く要請したものの、うんこ軍側はそれを聞き入れず、大腸に駐留し続けると通告してきた。

0740時。自宅トイレでの交渉妥結を見ぬまま、我方は出勤を余儀なくされた。この時点で、我方は戦略を「排便」から「一定期間のうんこ軍駐留容認」に切り替えねばならなかった。

0815時。それまでにもうんこ軍の小規模な反乱は断続的に続いていた。そのため、通勤電車の中でも、外交ルートを通じて「自制ある対応」をうんこ軍に求めていたが、うんこ軍側は一方的に国交断絶を通告してきた。

■開戦後

0818時。我方に対してうんこ軍が正式に宣戦布告。それと共に我方もうんこ軍に対して宣戦布告した。この時点で、我方は通勤電車の中にいたため、形勢は断然うんこ軍側が有利であった。

0819時。うんこ軍特殊作戦コマンド(略称:USOC)の1個小隊が肛門に強襲空挺高架。肛門の防衛に当たっていた肛門括約筋の1個歩兵師団がこれを撃滅した。

0822時。USOCの別働隊が後方に空挺高架すると共に、大腸から新劇してきたうんこ軍主力の2個機甲師団が合流。圧倒的な兵力に肛門括約筋はなすすべなく、撤退を余儀なくされた。このときの肛門括約筋の損耗率は3割である。

0824時。短時間で肛門を制圧されたため、我方は再度戦略を「排便」に転換し、戦術として渋谷駅でいったん下車することを決めた。

0827時。本作戦地域の地形を全く把握できていなかったため、駅員にトイレの位置を尋問したところ、「場所が分かりにくいですからご案内致します」と言われた。神風が吹いたと我方の司令部は安堵したことだ。そのため、肛門括約筋にはアナル付近での遅滞作戦を実行しつつ敵を足止めするように命令した。

0830時。「今人出が少なくて応援を呼んでますからもう少しお待ちください」という駅員の言葉に、向こうの事情はあるにしても、憤怒の感情を覚えつつ、我方はその場で停滞するしかない状況であった。しかし敵の構成は激しく、三つある防衛ラインのうち2ヶ所が撃破された。

0834時。ようやく駅員さんという増援が来た。すでに三つ目の防衛ラインもいつ撃破されてもおかしくない戦況であったが、我方は敵をキルゾーン(トイレ)におびき出して撃滅すべく行軍を開始した。

0837時。作戦ポイント(トイレ)に移動完了。しかし、「個室が空いてない」という、割と簡単に想定できる状況に陥り、ここでも足止めを食らうことになってしまった。そのとき、とうとう三つ目の防衛ラインが突破され、突出した敵の機械化歩兵1個中隊がアナルを越えた。突破された肛門括約筋のうち、一部の部隊が敵を追撃し、アナル付近で足止めしていたものの、状況は最悪であった。

0842時。水を流したのにぜんぜん出てこない糞親父とか、ブリブリ音を立てながらトイレットペーパーを巻いたと思ったら鼻をかんだだけだった糞親父とか、ゆるりと個室の掃除をしているおばちゃんなどに激怒しつつ、敵の侵攻をなんとか食い止めていたところ、やっと一つ個室が空いた。ようやく我方が反撃できるときがきた。

0845時。温存しておいた戦闘機の4個飛行隊によってうんこ軍の機甲師団に空対地攻撃を加え、さらに撤退中に敷設した遠隔起爆式の対戦車地雷を一斉に起爆。キルゾーンで敵を撃滅した。

0847時。うんこ軍総司令官のインドール将軍からうんこ軍側から停戦の申し入れがあり我方もこれを受諾。平和裏にうんこ軍は便器へ撤収した。

0849時。うんこ軍の撤収が完了し、戦闘は終結した。うんこ軍は、その後排水管を通じて下水道へ脱出したとみられる。

■教訓

元来、朝ご飯を食べたときはうんこ軍の反乱が発生しやすかったが、そのような場合はトイレでの交渉に費やす時間が多かったので、大規模な戦闘は回避できていた。

しかし今日は朝ご飯を食べていないにも関わらず反乱が発生。朝ご飯を食べないときは交渉する時間もないため、和平協定の締結に至らず、戦闘が勃発してしまった。

従って、朝ご飯も食べるにしても食べないにしても、朝早起きは必要である。

また、肛門括約筋の損耗率が高い状態での行軍は、我方に多大な負担になることも判明した。正直、歩くことで肛門括約筋の活動が制限され、結果的にうんこ軍のアナル突破を許してしまった。

以上で戦闘報告を終了する。

全盲が一般企業で働く際、困ることはいろいろあるけれど、今日はIT以外のことで・・・。

1. 人の在籍状況がよく分からない

だれかに用事があって話しかけたりしたいとき、その人が席にいるかどうかよく分からないときがある。キーボードを打ってたり、話をしていれば分かるけれども、じ~っと書類や画面を見つめている人までは認識できない。
外資系オフィスのようにパーティションで区切られて手、座ったままだと周囲の様子を見られないようになってれば、ためらわず内線をかけたりできる。けれども、「著しく生産性を低下させる」とどこかの新聞で揶揄された、オープンな、日本企業のオフィスだと、同じ島の席の人に内線を掛けるのはちょっと・・・。だからといって、同じ島でも、机二つ文ぐらい離れると、音だけでは在籍状況はよく分からないし、ましてや隣の島とか、普通だったら見える距離だけれども音でいろいろ判別するには微妙な距離となるとどうしていいのやら・・・。
まぁ、恥ずかしがらずに声を挙げて名前を呼べばいいのだが・・・。静まり返ったオフィスでは、私はあんまりやりたくない。
こういうときに、社内用のインスタント・メッセンジャーは便利そうだなと思う。うちの会社みたいに、メッセンジャーというだけで毛嫌いされてしまう敏感な会社じゃ、導入は無理だと思うけど。

2.電話の保留がわけわかめ

先進的というか、多くの会社では、部署単位または会社単位で、電話の保留バンクというのを持っていて、かかってきた電話を保留したときに自動的に空きバンクに保留するようになっている。保留された電話を取るときは、自分宛ての電話が保留されているバンクを選んで替わるわけだ。
この場合、他人が取った自分宛ての電話を取るのはそんなに難しくない。保留バンクの番号を教えてもらって、ボタンを押せばいいだけだ。
でも困るのが、自分が他人宛ての電話を取ったとき、どの保留バンクに保留されたか分からないのである。普通はランプでどの保留バンクか見るので・・・。そうすると、替わりたい相手に「保留何番にお電話です」と伝えなければならないところ、伝えられないということになる。みんな、どうしてるんだろう?
ちなみに、うちの会社の電話はそんな高機能ではなくて助かっている。保留バンクなど無くて、人に電話を替わりたいときは、単に替わりたい相手の内線電話に転送すればよいだけである。それか、受話器を渡すのだ(笑)。

3.席替えのときはほぼ役立たず

配置転換や担当業務変更などでチームが替わると、それに合わせて席替えすることがあるが、そのとき全盲はほとんど役に立たない。非常に居づらい。いっそ、席替えの日は遊休消化したいぐらいである。
手伝おうにも、だいたいそういうときはフロアがゴチャゴチャになるので、こちらとしても同僚としても「ちょっと動かないで!」ということになるのが通例だ。
フロアのレイアウト変更を伴うような比較的規模の大きい席替えならば、業者を入れたりするのであれだけど、仮にそうだとしても、移動した荷物の仕分けとかをみんながやっている間、自分の仕事をするというのもなんか・・・。あまり良い気分ではない。

4.自販機で飲み物を買うと、思っていたのと違うものが出てくることがある

最初に、自販機に点字ラベルを張ってもらうとか、どこに何があるか教えてもらったとしても、自販機というのは季節によってメニューが変わる。
冬はホットコーヒーだった場所が夏にアイスコーヒーになるぐらいの変更ならいいが、お茶のペットボトルだったところが、ある日炭酸飲料に換わっていたりすると悲しい気持ちになる。炭酸が飲めない人はもっと悲しいことだろう。
まぁ、これは別に会社にいなくても同じである。

5.会議中に何の話をしているか分からない

紙でもプロジェクタでもいいけど、資料を見ながら会議するとき、いったいどこの部分について議論しているのか追えなくなることがある。
同じ部署の場合だったら、なんとなく話の流れとかで分かったり、ちゃんと項目番号とかで話している場所を教えてもらったりすることもあるのだけれど・・・。話がはずむとだんだん普通のペースに戻ってきて、通常のように視線でのやり取りが始まる。
ましてや、他部署の、初めて打合せするような人とか、他社の人とかだと、一応配慮して欲しい旨伝えても、だいたい忘れられる。まぁ、これも、うまいこと逐次確認していくしか解決策はないのだけれど、なんとかならんもんか。

6.エレベータに遊ばれる

それなりのビルなら、エレベータホールに6機とか8機のエレベータがあるのが普通だろう。
そういう場合、どこかのボタンを押せばエレベータを呼べるけれども、どのエレベータを呼んだのか分かりにくい。ランプが点灯したエレベータが「ポーン」と音を出すタイプの機械もあるけれど、エレベータホールはそんなに狭くないため、方位を特定できないこともある。
で、そういうときに限って、手前側のボタンを押したのに一番奥のエレベータが来たりする。それを認知できた場合、すたすた奥に歩いていくのだけど、実際のところ一番奥なのか、それより一つ手前ぐらいなのかといった厳密な位置はまさぐらないとよく分からないので、恐る恐るいろいろやっているうちにドアが閉まって別の階へ行ってしまうことがよくある。加えて、こういうエレベータはホールの左右にエレベータがあるので、「これは右のエレベータが来たのだろうか、左のエレベータが来たのだろうか」ということも考慮せねばならず、まぁ、だいたい乗り遅れる。
しかも、これはうちのビルだけかもしれないが、しょうがないので乗り損ねたエレベータのところにあるボタンを押すと、今度はまたまた真逆のエレベータが来るのだ。そうして、エレベータホールを3,4回往復しちゃうこともしばしば・・・。最近、見かねた警備員さんが教えてくれるようにはなったけれど・・・。ボタンを押したときにどのエレベータを呼ぶか決定するアルゴリズムを、もう少し見直した方がいいと思う、なんちゃらビルシステムのエレベータは。

7.社員食堂はあるけど使いにくい

おいしいかどうかは別として、安い価格でご飯を食べられる社員食堂はぜひとも利用したいところであるが、そういうところはセルフサービスである。それをどうやって利用するかは重大な課題だ。
まず、「同僚と一緒に行く」という選択肢が思い浮かぶが、毎日というわけにもいかないだろう。同じ人ではなく、代わる代わる食堂へ行く同僚をみつければいいのかもしれんが、同僚がみんなコンビニのおにぎりや愛妻弁当を持参してくる人たちばかりだったらどうするのか?
とりあえずそれは置いておいて、独りでセルフサービスの食堂に行ったら何が困るかというと、まぁいろいろある。

  • メニューが分からない。普通の店みたいに、席やレジのところで聞くわけにはいかないからだ。意味が分からない人は、カフェテリアがどんな形式か調べてみるとよい。まぁ、だれかと行ったときに教えてもらって覚えればいいっちゃいいけど、メニューは変わりますので・・・。
  • 空いている席が分からない。セルフサービスであることから容易に想像できる通り、社員食堂にはほとんど人出がない。店員というか、(たいていは)おばちゃんにいろいろ手伝ってもらうのは、はばかられるほどの込み具合だし。お盆を持って白杖を使って、どうやって席を探せと?だいたい、お盆を持ってなくても、空いている席を探すというのは盲人にとって「働くのと同じぐらい神経を使う」ことなのだが・・・。

ちなみに予断だけど、全盲の人で、だれにも指図されずにお盆を水平に持てる人ってどれぐらいいるんでしょうかね?あるいは、晴眼者は、目をつむったらお盆を水平に持てるんでしょうかね?

あと、通勤中にも困ったことはある。

8.朝、うんこをしたくなっても「トイレはどこ?」状態である

平時にちゃんと通勤ルート上のトイレを確認しておけば、戦時にあわてることはないのだが、普通、通勤途中の駅を、トイレを探すためだけに利用することはあまりしないだろう。だから、いざというとき、必死に便意をこらえながら、漏れるか漏れないかのギリギリのラインで、駅員さんにいろいろお願いしなければならなくなるのだ。そのとき、たぶんすごい顔なんだろうと思う。
しかも、駅員さんに頼んでトイレまでたどり着けても、朝の駅のトイレにはだいたい先陣が個室を占拠しているため、すぐにリリースできないこともある。そういうときが、最も困る状況だ。

9. ババアがつっこんでくる

ババアでなくとも、最近はスマフォを使いながら歩く「たわけ」がたくさんいる。

10. ジジイにどなられる

てめえが死ね!馬鹿野郎!!点字ブロックの上につったってるお前が邪魔なんだよ、このハゲ野郎!

以 上。

昨日ごにょごにょとエントリーを書いたので、ついでに、具体的に仕事をしていて困ることについて書いてみようと思う。全盲限定で。

一般に、IT技術の進歩により、情報弱者だった視覚障害者は、以前に比べ多くの情報を取得できるようになったし、発信できるようになった。そして、仕事でITが活用され始めると、その領域で活躍できるチャンスが、視覚障害者、とりわけ全盲にもめぐってきた。

きちんと掘り下げると、今より2,30年以上前、全盲の仕事として「プログラマ」が注目され、当時プログラマとして活躍していた全盲もそれなりにいたようだ。

だが、それも過去の話。細かいことは省略するけど、いつのまにか「プログラマ」はおじゃんになって、今度はエンドユーザとしてITを活用した就労を考える時代となった。仕事でPCを使うのが当たり前の昨今、PCを活用できる全盲なら専門知識がなくても就労できる可能性が広がった、ということである。

けれど、実際のところ、それなりにPCを使いこなしている全盲でも、健常者と肩を並べて仕事してみると、驚きや落胆を経験することが多いはず。何より、困り果てることも多いのではなかろうか。

例えば、大多数の会社では、資料作成にWordとかExcelを使うと思うが、まず、健常者が作ったこれらのファイルを読むにはだいぶ慣れが必要だ。読み上げソフトが正確に読み上げないという問題もあるし、書式がバラバラで読み解くのに苦労することもある。そして、全盲にはほとんど理解できないであろう「色」を用いて、文書の直感的理解を促すようなケースが多い。

また、別の例として、会社のメールソフトとかグループウェアがぜんぜん操作できなくて、情報共有に支障が出る、というようなことも、全盲だったら有り得る。読み上げソフトでどう頑張っても読めないし操作できないシステムというのは、業務システムには割と多い。ただ、本当は、高機能な読み上げソフトを高レベルで使いこなせれば、実は使えるシステムだった、というケースも少なくないけれど。

余談だが、どこぞのなんとかという読み上げソフトは、「スクリプトを書けば読めないアプリケーションも読めるようになる」的なことがカタログに書いてあるけれども、あれは間違いだ。「読みにくい、あるいは操作しにくいアプリケーションが、読みやすく・あるいは操作しやすくなる」ということであって、そもそも潜在的に読めない/操作できないアプリケーションはスクリプトを書いたってなんともならん。反論したい方がいましたら、AccessBridgeを使っていないJavaのGUIアプリケーションを読み上げさせてみて下さい。 (FXとかは大丈夫なのかもしれんが、よく知りません)

この辺は、もうなんというか、慣れるか、あきらめるかのどちらかしか選択肢がない。まぁ、「慣れる」という選択肢の場合だと、いろいろ細かなテクニックはあるけど、まぁ面倒だからいいや。

これら以外にも、PCをそこそこ使いこなせていても、働いてみると落ち込むことはたくさんある。まぁ、2,3年我慢してればたぶんその辺の解決策は経験的に修得できると思うのだが...。もちろん、ただその場をしのいでいたってどうにもならない。変な話、仕事の経験を積むのと同じように、健常者の感覚や文化を理解していく手順が必要だ。

一方、本人の努力だけではどうにもならないことというのもある。IT技術がさらに進歩したり、会社の制度が変わったりしないとだめ、という意味においてだ。

私はIT関連の仕事をしているけれど、特にIT業界は様々な「技術的制約」の中で、システム開発を行ったり運用したりしなければならないことが多い。そして、そうした「技術的制約」は、ほとんどの場合、支援テクノロジと相性が悪い。

あまり具体的なことは書けないけれど、例えば、「システム開発」という仕事については、IDEを使いこなすのが全盲には厳しいので、健常者と同じ生産性でコーディングすることは、割と難しい。もちろんIDEなんか使わなきゃいいだけの話だが、どう考えても、構文エラーの箇所に色が着くあのIDEのエディタには勝てない気がする。

もう一つ。「システム運用」の場合、最近は仮想化とかクラウドとか流行だが、そうでなくとも、データセンタにサーバをハウジングするのは当たり前。するとオペレーションはリモートでやるわけだが、会社によっては、自社開発の、全くスタンダードでないプロトコルを使うため読み上げソフトが対応できないこともある。Windows標準のリモートデスクトップのRDPなら、読み上げソフトでも対応しているのに、そういう「謎のプロトコル」をリモートアクセスに使うことによって、なんか読み上げがおかしくてぜんぜん使い物にならない、というケースを聞いたことがある。Unix系サーバにするか、WindowsもSSHでなんでもできればいいのにね。でも、パワーシェルとか、その辺で最近はあれなんかね?

でだ。そもそも、リモートアクセスがうまく使えるとしても、技術的な理由でどうあがいてもサーバ側には読み上げソフトをインストールしなければならない。なので、有償の読み上げソフトならその分のライセンスが必要だ。10台も20台もサーバがあるのに、そんな本数、読み上げソフトのライセンスなんか買ってられない。

特に、名前は言わないけど、その「スクリプトが書ける読み上げソフト」は、高い金をふんだくるくせにローカライズのときになんかバグが混入するのか、著しく品質が悪いためブルスクとか発生するので、業務用のAPサーバになんかインストールしたくない、ということを思ったりもする。そういう意味では、行儀が良くてオープンソースなNVDAをもっと業務で活用できたらいいなあとは思うのだが・・・。

そうそう。もうほとんど愚痴だけど、このように便利そうなツールがあっても、ITの現場は「ツール使うな」という風潮がある。開発部隊のことは知らないが、運用部隊はどっちかっていうと「余計なツールは使わずに、今ある道具で最適の手順を考えろ」的なことをよく言われる。そういうわけなので、新しいツールを使うのが割と大変な手続きになっていたりする。まぁ、最近はマルウェアとかあるので、ゆるすぎるのもいけないとは思うけど・・・。そのくせ「スクラッチならOK」って意味が分からない。

あと、コンプライアンスは重要だが、あまりにコンプライアンス、コンプライアンス言うために、本当に必要かどうか疑問な審査/承認プロセスが介在して、結果的に業務が遅延したり損失が発生したりすることも少なくない。まったく、エンロンが余計なことしなけりゃ・・・。

だいぶ話が反れてしまったけれども、要するに、IT技術が進歩しても、職場によってはそのIT技術の恩恵を受けることができないので、全盲は苦汁をなめることが多い、ということが言いたかったのである。

今日はITにからめて話を進めてきたので、次はIT以外のことで困る話を書こう。

ところで、VDIでシンクライアントを使うのが当たり前に、たぶんもうすぐなるけど、支援テクノロジは対応できるのだろうか・・・。プロトコルがRDPとICAの二つぐらいならまだいいけど、それ以上増えると、対応しきれないんじゃないか?いや、そもそも、リモートアクセスのために追加ライセンスを買わせようとするどこかの読み上げソフトの思想を直すべきかもしれんが・・・。

会社の健康診断があるのだが、それのために検尿用機を渡された。渡されたのはいいが、なんだか先進的な検尿用機で、どうやって使ったらいいのかよく分からない。

一応、採取方法についての紙ももらったのだが・・・、以下のように書いてある。

(5)採尿の手順(ピー・ポールⅡの使用方法)
  1. ・キャップをねじらず真っ直ぐ抜き取り、採尿容器とカバーに分けます。
  2. 採尿しやすいように、キャップの上部にカバーの口部分をあわせて持ち手を長くします。
  3. 放尿中の尿に、キャップ側の中央にある採取口(かけた部分)を当てて尿を採ります。
  4. 尿を採取後、持ち手として差し込んだカバーを抜き取り、元の位置に戻します。戻すときは、カチッと音がするまでしっかり奥まで差し込んでください。

問題は三つ目の手順、つまり「放尿中の尿に採取口を当てる」方法である。

変な話、私の「ネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲」と同じ太さの容器であれば、弾着計算などせず、標的に砲身をぶち込んでファイアすればいいのだが、容器の太さはネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲よりも細い。従って、AAAでターゲットを捕捉する必要がありそうだ。

ここで問題が二つある。

第1に、「放尿中の尿」をどうコントロールするかということである。タンSAMミサイルならレーザーやGPSで終末誘導できるところだが、あいにくそのような技術は使えない。放たれた尿は有線というか、流体なので、ネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲の砲身を直接手動操作して発射方向をコントロールするしかないが、だからといって完全にコントロールできるわけではない。

第2の問題はまさに「under control」の問題。砲身を手動操作することで、ある程度のコントロールは可能だが、ネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング方から放たれる尿は、その日の体調によって、勢いが良い日もあれば、いまいち切れが悪い日もある。そして、地球上に存在する重力(gravity)により、一定の距離で地面へ落下していく。この一連の尿の動きをどのように捕捉するかを考えなければならない。目視できれば軌跡が分かるのだが・・・。

いろいろ小難しく書いているが、というか、実は上記二つの問題は本質的に同じ問題なのだが、とにかく「放尿中の尿にうまく採取口を当てるにはどうしたらええのん?」ということなのである。

で、健康診断担当の人(女性)は「採尿のことで分からないことがあったらなんでも聞いてくださいね」と笑顔で言っていたけれども、では尋ねていいですか?「どうやって採取口を尿に当てたらいいですか?」と。

でも、「教えて君」ではあるまいし、多少なりとも手段を検討した上で「そういう採取方法は問題ありませんか?」と尋ねる方がいいと思ったので、考えてみよう。

【手段A】 ネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲の砲身を採尿容器に密着させ発射する。安全そうに思えるが、ネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲の口径の方が容器の口径より小さい場合、溢れる。というか、それができる形状じゃないんですけど、この容器。

【手段B】 紙コップやペットボトルなど、より採取しやすい容器に尿を貯め、それをストローなどの細い管で移し替える。やれないこともなさそうだけど・・・。そこまでしてやるか?

【手段C】 っていうか受付で放尿する。それが一番簡単だ。

だいたい案も出揃ったところで、これを健康診断の担当者(女性)に確認した方が・・・いい・・・ですよね?いや・・・しなくていいですか?

いやまぁ、なんとかして採取できるっちゃできるけど。お風呂場とか、どうにでもなるところで放尿して、なるべくネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲を床に向けて角度がつかないようにすれば・・・いいのかも・・・しれないが・・・。

いや、とりあえず、尿の初速を計測して、地面に対してπ/4(ラジアン)の確度にネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲を向けて、いろいろガチャガチャ計算すればいいのかもしれないが・・・。

昔のように、紙コップに貯水したのを空気圧でボワーっと容器に吸い込むタイプの検尿用機に、戻って欲しいものだ。紙コップがゴミになるとか、採取方法が面倒だとかで、今の、なんだっけ、オナホールみたいな名前の採尿容器に変わってしまったんだと思うけれどね。

思い出したら腹が立ってきたので、怒りをぶつけます。

とある施設でのこと。障害者でも使えるように設備が配慮された施設である。そこに障害者用トイレというか多機能トイレというか、とにかくそんな感じのトイレがある。それはいい。良いことだ。

そのトイレには、ペーパーホルダーの上に、横に並んだ四つのボタンがあった。点字は書いてない。どれが何のボタンなのか・・・。点字が書いてないので、押してみないと分からない。

それで、分からないけれども、とりあえず今すぐ解放してやらないと俺の腎臓がいろいろ問題を起こす可能性があったので、いろいろ解放したわけである。一通りの解放ルーチンを終え(いや、ルーチンのチンはそういうことではなくroutineであって・・・)、「さて流すか」ということになったわけだ。

しかし前述の通り。おそらくこの四つのボタンのうちどれかが「流すボタン」であるとは思うが、はて、どれであろうか。

考え込んでいてもどうにもならないので、とりあえずトイレ内の洗面台で手を洗った。手は洗ったがトイレは流れてない。なんか、手を洗っておいてボタンを押すのも、今考えてみると順番が違う気もするが、流さねばならない。ので、とりあえず一番左のボタンを押してみた。

すると、どうだろう、便器がなんか反応した。でも、反応しただけで水が流れない。

その瞬間、便器から勢いよくシャワーが天井高く吹き出したのである。だがそのシャワーは、立ちはだかる「俺」に阻まれ、一部を除いて、壁や床にまき散らされた。そして、大半の水は「俺」のジーパンとポロシャツに吸収されたのである。

はい、そういうことなのでありました。マジ、便器をぶっ壊して野郎かと思った。多機能トイレを設置することは良し、ウォシュレットを設置することも良し、分かり安く大きなボタンを付けるのも良し。あと、点字付けて下さい。いや、付けろ!このインポ野郎!

そういうわけで、それが今日の一〇時半ごろの話。とんでもない1日の始まりだった。外は雨だし。もう、今日は寝る。明日朝早いし。

葛藤

  • 日常

踏切に人、助けようと... JR横浜線、一時運転見合わせ

なんとも、いたたまれない事故である。女性が死亡してしまったことは悲しいことだが、おじいさんの命が助かったことは救いかもしれない。死亡した女性は、線路にうずくまっていたおじいさんを助けようと、車から降りて線路の中に入ったそうである。そして、おじいさんは助かり、助けようとした女性は死んだ。

全く関係のない他人からすると、「電車を止めてなんやねん」と思う人もいれば、「勇気ある女性の行動をたたえるべきだ」という人もいるだろうし、あるいは特に何も考えない人もいるだろう。だが、当事者にとっては、どっちにしろ、とんでもないことだ。心中お察し致します。

どういうことかというと、まず、死亡した女性の遺族。これこそ突然の別れ。家族からしたら、なんというか、どう表現したら良いか分からない気持ちになると思う。はっきり言ってたまらない。たまらなく悲しく、たまらなく涙は出るだろうが、たまらなく実感が伴わない、ということになりはしないか?

そして、助かったおじいさんやその家族。命あっての物種、とはいうものの、これもまた、なんと表現して良いか分からない気持ちになるのではないか?他人の命を犠牲にして得た命。たまたま亡くなった人の臓器をもらった、というようなものではなく、明確に特定の個人を助けようという意志の下で助かった命なので、余計、死亡してしまった人への思いというのは、筆舌に尽くしがたいことだろう。私だったら、「そんなにまでして助けてもらって申し訳ない」と思い自殺をしようとするも、それでは女性が報われないと思って、お墓の前で毎日のように手を合わせながら生きていくことだろう。

でも・・・。だれも言わないと思うけど、あえていうけど・・・。女性の遺族にしてみれば、(女性との仲が特段悪くないという前提で)「そこまでして助けることはなかったのに」と思ってしまうんじゃなかろうか。なんというか、たぶんこれは失礼な発言だけど・・・。失礼というか、侮辱なのかもしれないけど・・・。でも、俺が遺族だったら、そういう思いはぜったいに抱く。限りなく罵倒に近い思いを抱く。「なんで助けになんか行ったの?」ってぜったい思う。

あぁ。つらいのう。

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プロフィール

結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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