2013年10月の記事一覧

ちょっと前、プライムニュースを見ているときに聞いた話で「確かにそうだ」と思ったことがある。

イデオロギーの話。

まずテレビで言っていたことから書こう。だれが言っていたかというと、たまにプライムニュースで見かける評論家の人。名前を忘れてしまったが「西なんとかさん」だったような気がするし、そうでない気もする。結構お歳を召した方である。

で、その人が言っていたこと。「右翼、左翼っていうのは、今と昔で意味が変わっちゃった。昔は、右翼が保守で左翼が革新。ところが今は右翼が革新で左翼が保守だ。」と。そういう趣旨の発言である。

これはちょうど大阪市長と元東京都知事がタッグを組んだ頃の話だったと思う。違うかもしれないが、違ったとしても、そういう「左右がどうのこうの」という話だ。

で、前述の発言はどういうことかというと、まず一般的に左翼と言われている「共産党」や「社会民主党」は「国民生活を守れ」とか「憲法改悪反対」とか主張するので、これは日本の現状を維持しようとするものであるから[保守的]である。一方、一般的に右翼と言われている「日本維新の会」や、過去に存在した「たちあがれ日本」といった政党は、「憲法改正」だとか、現状の日本を変えていく方向の主張をしているので[革新的]である。

ここからは私の考えである。言われてみればその通りだ。本来、左翼と呼ばれていた人たちは、革命によって権力を妥当し、新しい社会に変革するのが主たるイデオロギーだったはず。対して右翼は、日本の伝統や制度(もっと直接的には天皇制)を守っていこうというイデオロギー。ものすごく簡素化するとそういうことであると私は理解しているのだが、現在の日本を見ると、確かに逆だ。根本的な思想は変わっていなくても、やはり過去の右左とはまた違ったイデオロギーがそこにはあるような気がする。

まぁ、イデオロギーとか政治の話は人それぞれ考え方があるので、別にこれに関して私は善悪を語るつもりはない。

ただ、一つだけ面白いことがあった。このイデオロギーの左右逆転現象は、何も政治家だけのことではなくて、割と一般市民にも当てはまるようだ。というのも、知り合いの考え方が、そっくりそのまま上記のように、左なのに保守的だったもので・・・。ただそれだけ。それ以上何も意味はありませぬ。

思い出したら腹が立ってきたので、怒りをぶつけます。

とある施設でのこと。障害者でも使えるように設備が配慮された施設である。そこに障害者用トイレというか多機能トイレというか、とにかくそんな感じのトイレがある。それはいい。良いことだ。

そのトイレには、ペーパーホルダーの上に、横に並んだ四つのボタンがあった。点字は書いてない。どれが何のボタンなのか・・・。点字が書いてないので、押してみないと分からない。

それで、分からないけれども、とりあえず今すぐ解放してやらないと俺の腎臓がいろいろ問題を起こす可能性があったので、いろいろ解放したわけである。一通りの解放ルーチンを終え(いや、ルーチンのチンはそういうことではなくroutineであって・・・)、「さて流すか」ということになったわけだ。

しかし前述の通り。おそらくこの四つのボタンのうちどれかが「流すボタン」であるとは思うが、はて、どれであろうか。

考え込んでいてもどうにもならないので、とりあえずトイレ内の洗面台で手を洗った。手は洗ったがトイレは流れてない。なんか、手を洗っておいてボタンを押すのも、今考えてみると順番が違う気もするが、流さねばならない。ので、とりあえず一番左のボタンを押してみた。

すると、どうだろう、便器がなんか反応した。でも、反応しただけで水が流れない。

その瞬間、便器から勢いよくシャワーが天井高く吹き出したのである。だがそのシャワーは、立ちはだかる「俺」に阻まれ、一部を除いて、壁や床にまき散らされた。そして、大半の水は「俺」のジーパンとポロシャツに吸収されたのである。

はい、そういうことなのでありました。マジ、便器をぶっ壊して野郎かと思った。多機能トイレを設置することは良し、ウォシュレットを設置することも良し、分かり安く大きなボタンを付けるのも良し。あと、点字付けて下さい。いや、付けろ!このインポ野郎!

そういうわけで、それが今日の一〇時半ごろの話。とんでもない1日の始まりだった。外は雨だし。もう、今日は寝る。明日朝早いし。

ツイートもしたけど、最近次の記事がヒットだったので、私なりの見解も残しておくことにする。ちなみにこの記事を評価しているわけではなく、この記事が考えるきっかけになったので、とりとめもなく考えたことを残しておく、という感じである。

「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人について | 熊代亨

私なりの結論は、「自分が決めたことは、少なくともその時点で、自分にとって正しいことと信じるべきだ」。

取り上げた記事にもあるように、時代によって正しさや価値観は変化する。これは揺るがない真実だと思う。問題は、時代にそぐわない価値観を「正しいこと」と信じたまま行動してしまうことだ。

私は子供のころ、親から「公務員になれ、給料も高くて安定してるから」と言われ続け、小学生ぐらいまでは本気でその路に進む気でいた。

ところが、親の価値観は、親が若かったころは正しかったかもしれないが、2013年の今はそうでもない。「無駄を削る」という理由で給料も定員も減らされる一方だ。「安定している」というのも然り、ロボットのように働けば確かに首にはならないだろうが、それで人生楽しいのだろうか?だから、「公務員になる」というのは、今の世の中正しいことかどうか分からない。

別の例として、「障害者は、障害を克服するために努力するものだ」という価値観も、少なからずあるのではないだろうか。これは、障害当事者にも、周囲の健常者にもだ。

昔、障害者は邪魔な存在だった。それが施しを受ける存在になり、今は「共生」するものという価値観に、大きな流れとしては変化している。もちろんそう思ってない人もいるだろうが。その中で、「頑張る障害者」が生まれ、頑張ることを美化するのが大好きな日本人は、それを正しい価値観として受け入れた、ということと、私は思っている。外国でもそうかもしれないが・・・。

ただ、障害者だって「怠けたいとき」もあるし、「小さな親切、大きなお世話」と思うこともある。もちろん、24時間頑張り続けたいと思っている人もいる。けれど、頑張っている人の中には、世の中が押しつけた価値観に縛られている人が少なくないような気がする。自分が頑張りたくなければ、頑張らなくてもいいのに・・・。

ちなみに予断だが、「障害者は施しを受ける存在」というのを痛感したのは、点字図書館で『方法序説』の点字本を借りたときである。その本のはじめに、「不幸にも盲人になってしまったお前らに、国がこの本を恵んでやる」みたいなことが、もっと丁寧な言葉で書いてあった。

さて。

冒頭でリンクを貼った記事では、最後の方でこう書かれている。

案外たくさんの人が、自分自身にインストールされた「正しさ」にそぐわない自分自身に葛藤を抱えている。東京のような、自由度の高い街、思い通りに自己決定できそうな外観を呈した空間では尚更だろう。
少なからぬ個人が「こんなに頑張った私に、正しかったって声をかけてよ」と思っているんじゃないだろうか。なぐさめの言葉を待っているのではないだろうか。ワンルームマンションのベッドの上で。人気の無くなったリビングルームで。
かくあるべし、かくあるべし、かくあるべし、という内なる声に疲れた人達が求めているのは「あなたの正しさは間違っています」ではないようにみえる。「あなたの認知は理不尽です」でもないようにみえる。「あなたはよく頑張った、だからもういいんだよ」ではないか。自分自身の正しさに対する赦しの言葉ではないか。
(※スクリーンリーダーでの読みやすさを考慮して、改行を挿入しています)

これに私は付け加えたい。「自分に形成されている正しさが間違っているかもしれない」と気づいても、周囲を気にして価値観を修正できず苦しんでいる人もいるに違いない。そんな人たちは「思いが変わってもぶれないもの」を探し続けていることだろう。「よく頑張った」と同時に「もう、止めていいんだよ」と言って欲しいのではないか?

だが、社会はそんなに甘くない。なんだかんだ言って人は利己的だ。すべてを他人のためにささげられる人など皆無だろう。当然、周囲の人間が、本人にとって悪いことでなければ、そうした言葉を掛けてくれる可能性はあるが、直接的に利害がなければ掛けないかもしれないし、反対によく考えているからこそ声を掛けないことだってありうる。

ただ、これは別の言い方をすると、周囲の関心はその程度ということ。逆にそう割り切ってしまえば、案外、苦しみの半分ぐらいは捨て去ることができるかもしれない。

まぁ、そう考えられたら理想的なのだが、そうはならないのが世の常。残念だ。

しかし、「無理だ」とあきらめて、ただ流されて生きたり、理不尽を我慢して生きたり、疑問を抱えたまま生きるのも、あまり気分が良くない。

そこで私は冒頭の結論に達したわけである。この結論の前提は、「正しさを自分で獲得したものと自覚する」ことであるが、これを自覚するプロセスは結構楽しい。そして、前へ踏み出すきっかけぐらいにはなると思う。

もし、今の自分に活路を見いだせない人がいたら、「自分の価値観の変更履歴」を列挙してみると良いかもしれない。それらがポジティブに捕らえられれば、まだ勝機はある。

葛藤

  • 日常

踏切に人、助けようと... JR横浜線、一時運転見合わせ

なんとも、いたたまれない事故である。女性が死亡してしまったことは悲しいことだが、おじいさんの命が助かったことは救いかもしれない。死亡した女性は、線路にうずくまっていたおじいさんを助けようと、車から降りて線路の中に入ったそうである。そして、おじいさんは助かり、助けようとした女性は死んだ。

全く関係のない他人からすると、「電車を止めてなんやねん」と思う人もいれば、「勇気ある女性の行動をたたえるべきだ」という人もいるだろうし、あるいは特に何も考えない人もいるだろう。だが、当事者にとっては、どっちにしろ、とんでもないことだ。心中お察し致します。

どういうことかというと、まず、死亡した女性の遺族。これこそ突然の別れ。家族からしたら、なんというか、どう表現したら良いか分からない気持ちになると思う。はっきり言ってたまらない。たまらなく悲しく、たまらなく涙は出るだろうが、たまらなく実感が伴わない、ということになりはしないか?

そして、助かったおじいさんやその家族。命あっての物種、とはいうものの、これもまた、なんと表現して良いか分からない気持ちになるのではないか?他人の命を犠牲にして得た命。たまたま亡くなった人の臓器をもらった、というようなものではなく、明確に特定の個人を助けようという意志の下で助かった命なので、余計、死亡してしまった人への思いというのは、筆舌に尽くしがたいことだろう。私だったら、「そんなにまでして助けてもらって申し訳ない」と思い自殺をしようとするも、それでは女性が報われないと思って、お墓の前で毎日のように手を合わせながら生きていくことだろう。

でも・・・。だれも言わないと思うけど、あえていうけど・・・。女性の遺族にしてみれば、(女性との仲が特段悪くないという前提で)「そこまでして助けることはなかったのに」と思ってしまうんじゃなかろうか。なんというか、たぶんこれは失礼な発言だけど・・・。失礼というか、侮辱なのかもしれないけど・・・。でも、俺が遺族だったら、そういう思いはぜったいに抱く。限りなく罵倒に近い思いを抱く。「なんで助けになんか行ったの?」ってぜったい思う。

あぁ。つらいのう。

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プロフィール

結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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