障害関連 一覧

9月11日に、「地方に戻りたい」という趣旨のツイートを連騰したら、一部が切り取られる形でリツイートされて、ちゃんと伝わったかどうか心配なので、改めてここで書くことにしようと思う。まあ、飲んでいるので大した話ではないし、妄想がかなり入っているのだが・・・。

私は今東京に住んでいるが、4,5年後を目処に、ふるさとに戻りたいと考えている。何故4,5年後かというのは、会社の細かな事情も含むので割愛するが、とにかく東京を離れて地方に戻りたいと言うことだ。

中学生までふるさとで過ごし、高校生から東京に出てきた私にとって、東京というのは本当に便利な町だと思う。ガキのころは、渋谷を歩いていれば芸能人がいるなどという空想をしたものだが、実生活において、こんなに便利な町は日本には他にないと思う。

一方で、十数年住んでみて、東京に関してあまり良いとは思えないことも出てきた。とにかく人が多すぎるとか、ね。いや、まあ、人がたくさんいるから様々な経済活動やインフラが成り立つのであって、そのこと事態は全体的に悪くはないと思うけど、僕は最近人混みが嫌いなのだ。

さて、「じゃあ何故ふるさとに戻りたいのか」ということになると、主に以下のような理由である。

第1に、先にも書いたように人が多い。若いころはそんなに気にならなかったが、最近人混みがどうも苦手である。通勤電車の異常な混み具合も、どうにも最近我慢ならない。その点、私のふるさとは、そう大して人がいるわけでもないし、通勤電車が混むと言っても、首都圏のあほみたいな混み具合にはならないので・・・。

第2に、高齢化する両親と過ごす時間を、親孝行のために少しは作ってもいいかなと最近思い始めたからである。両親が、彼らの親に対して今介護などに直面していて、そう遠くない将来俺にも降りかかってくることだなと思っているので、今単純にホットなだけかもしれないが。ただ、高校生になってからずっと実家を離れているので(もちろん連休には帰省しているけれど)、まあ親が元気なうちに酒を酌み交わす日常を過ごすぐらいの親孝行は、してもいいかなと思うようになったのである。いささか上から目線な物言いなので、ちょっと鼻につくかもしれないけど。

これに関連してだが、私が戻るんじゃなくて、親が東京に移住するというパターンも有りだとは思う。実際にうちの親の友人が、娘たちが神奈川にとついじゃったので、家を売って移住してきたそうである。それはそれで有りだとは思うが、元の地域で過ごした時間が長ければ長いほど、人間関係はその地域で構築されるわけで、移住すればその人間関係は希薄になってしまう。だから、一概に親が移住するというのは良いとは言えない。地域にこだわりを持ってる人もいるし。

他にもいろいろ理由はあるけれど、本題はここからなので省略。

では、実際にふるさとに戻ることに決めたとして、どんな問題が生じるだろうか。ここからは議論の本筋である。

まず一番に考えなければならないのは、仕事をどうするかということである。経済基盤を整えるのが生活するためには大切なことだけれど、フリーランスでもない限り、移住に当たって経済基盤を再構築するのは容易ではないと思う。具体的には、「地方に戻っても仕事があるのか?」ということである。

一般的にも、首都圏の方が求人は多いと思うが、障害者にフォーカスするとかなり顕著にその傾向は現れる。去年私が就職活動していたときにも感じたことだが、特に東京・神奈川の求人は、丘の道府県に比べてかなり多かった。しかも、数字にはあまり出ないかもしれないが、視覚障害でかつ全盲の人は際だって就職が難しい。理由はいろいろあるけれど、一言で言えば、コストとリターンの割合が他の障害者に比べて悪いからだと思う。まあ、その議論はここでは本意ではないので避けるが、とにかく全盲はただでさえ修飾が難しい。

で、私の場合、今と同じようにIT関連の会社で働きたいなあと思うわけだが、地方の障害者向け、とりわけ視覚障害者を想定していると思われる求人には、そんな職種は皆無である。ほとんどが、マッサージとか、そういう関連の求人だ。ここ数年でヘルスキーパーという職種が一般的になってきたせいもあってか、「視覚障害者=マッサージ」という印象が企業には多いらしい。しかも、ヘルスキーパーですら募集しているところって、地方ではそんなに多くない。

結局のところ、就職を考えたときには、大企業が集中する首都圏で、とにかくへつらって体力のありそうな大企業になんとか雇ってもらうのが近道なところを、わざわざ逆の路をたどろうとすれば、当然それは困ったことになるわけである。

二番目に考えなければならないのは、東京に比べて「移動の自由」が制限されるということである。東京なら電車でだいたいのところへ行けるけれども、地方では基本的に車が必須である。GoogleでもAppleでも日産でもワーゲンでもどこでもいいから、さっさと自動運転車を実用化してほしいなあと思うわけだけれども、変な話、買い物一つ車が無いと困るような地方に戻るのは、あまり合理的な選択とは言えない。もちろん、駅の近くに住めばそれなりに生活には困らないだろうし、どうせネットスーパーとAmazonの世話にしかなってない俺にとっては、大した差はないかもしれないのだけれど・・・。

他にも、「親が介護を必要とするようになって、おまえが面倒を見られるのか?」という問題とか、人間関係の問題はある。あるけれど、ちょっとユーターンするための試作をまじめに考えてもいいんじゃないかなあとは思っている。

話は脱線するが、本当のところを言うと、国のあり方がどこかに定まってくれれば、こういった悩みも比較的小さくなるのではないかと思う。例えば、自民党の地方創世政策がうまく言って、地域が経済成長できて雇用を必要とする状況になれば、そこに視覚障害者が入る隙間も生まれてくるかもしれない。ぎゃくに、地域が衰退することによって、都市圏に人口が集中し、ある種のコンパクト・シティー化すれば、それらの都市へ移住することが自然な流れとなり、経済活動の集中と雇用の創出が実現するかもしれない。だいたい、メリットがあるのはこのどちらかの方向へ日本の経済構造がシフトすることである。でも、そんなの起こるかどうかも分からんし、待っててもしょうがないので、今何ができるかを考えるわけである。

さて、順番は前後するが、まず「移動の自由が制限されること」に関しては、正直そんなに問題ではないと思っている。すでに書いたように、たいていの商品はAmazonが持ってきてくれるし(正確には運送会社が運んでくるんだけれど)、ネットスーパーもあるし、それ以外にもネット通販で手に入るものが多いので、正直、引きこもりになったとしても生活には困らないだろう。まあ、吉牛を食べたりするのに車が必要だったりすると、そういう点は我慢しないといけないだろうが。でも、牛丼が食えなくてもそんなには困らないのでOKだろう。

真剣に考えなければならないのは仕事である。はっきり言って、地方に戻って再就職するというのは、全盲にとって論外ではなかろうか。鍼灸の免許を持ってれば、病院に就職するとか、開業するとかいう選択肢もあるだろうけれど、そんなの俺は持ってないし、取得するために3年学校に通い直すほどの余裕はない。そうなると、どうにかして今の会社に勤めたまま移住ができないか、ということになる。

会社を辞めずに地方に移住する場合、選択肢は二つしかない。新幹線か何かでがんばって通勤するか、在宅勤務を認めさせるかのどちらかである。前者は正直つらいと思うので、現実的には後者になるだろう。在宅勤務を許可してもらうことのメリットはいくらでもあって、例えば天候不順でも安定的に業務を行えるとか、通勤のストレスが無くなることで生産性を高められるとか、いくらでも理由はつけられる。ただ、全くの在宅勤務はたぶん会社側が良い顔をしないので、週に何日かは出社する方向で調整するのが良いかもしれないが。実際、営業主体の会社で、在宅というかリモートワークを全面的に導入している会社もあるわけなので、IT系の仕事は、技術的な制約をいろいろクリアできれば、リモートワークは可能だと思う。たぶん、視覚障害者が地方で働くのに効果的なのは、リモートワークをするということなんじゃなかろうか。

以上、私が移住するとなったら、何を考えなければならないのか、考えてきたけれど、さらに広げて、視覚障害者の地域間格差についても考えてみたいと思う。

私の印象から先に言うと、首都圏に在住の視覚障害者と地方在住の視覚障害者には、かなりの格差があると思う。本人たちがそれを格差として認識しているかどうかは別として、客観的な数値をいろいろ見ていくと、たぶんそういうことになると思う。就職率とか収入とか。

あとは、数値にはできない部分の格差もきっとあるはずだ。その最たる物は「職業選択の自由」がどの程度あるか、ということ。視覚障害者、とりわけ全盲であれば、その時点で職業選択の自由はだいぶ制限されているように感じるが、前述のように、首都圏と地方では求人の質に差がある。首都圏では、少ないとはいえ、がんばれば全盲でも事務職やSEになれる。が、地方では皆無だ。全くないとは言わないけれど、首都圏以外で事務職とか技術職に就いている人って、ほんの数名しかいないんじゃなかろうか。全盲といえば、大部分がマッサージや鍼灸の仕事で、そもそも何故そうかといえば、伝統的な国策でそれらの職業が保護されてきたことと、規制緩和されていろいろ働き口が無くなってるにもか関わらず鍼灸マッサージの路を盲学校が勧めるからではないかなあ。この辺はよく分からない。

仕事についてはこんな感じだけれど、生活面でも、いろいろと格差はあるだろう。近年はインターネットの普及で、多少改善はされているかもしれないが・・・。

やはり、地方創世で地方が元気になるか、機能集積型のコンパクト・シティーをモデルとした都市政策にシフトするかしないと、どうにもならんということだ。

で、そろそろ収束させようかなと思うわけだけれど・・・。

地域間格差は無い方が良いに決まっているわけなので、せっかく私が地方に帰ることになったら、その地域間格差をできるだけ縮める方向で何か取り組みをしたいなあと、ぼんやり考えている。

一つは、私がリモートワークを問題なくできるということが実証できれば、その動きを、まずはグループ会社から広めて言って、いずれは地方の視覚障害者がリモートで仕事できるような環境を整備していけたらと思っている。これには技術的な側面や、リモートワークできちんと会社に貢献できるかという成果を出して行く必要もあるけれど、それが格差を縮める一つの手段となるのなら、やる価値はあるだろう。

二つには、そうしたリモートワークを行う上で必要な基本的スキルを、義務教育の段階から習得させるプログラムを作ることだ。はっきりいうが、視覚障害者がスクリーンリーダーを使ってPCを操作できるようになるためには、訓練が必要である。今、一見PC操作できているように見える人も、基礎的な訓練を受けずに適当に使っている場合、あるところで必ずつまずく。何故ならば、オペレーションが全く異なるからだ。その辺は細かい話になるので割愛するけど、とにかく、最低限仕事で困らない程度のPC操作スキルと、IT関連の知識は、視覚障害者には求められるので、これを義務教育の段階からきちんと教えて行く必要があると思っている。

ちなみに補足すると、普通の人は画面を見てマウスをチョイチョイっと操作すれば、なんとなく直感的にアプリケーションを操作できるかもしれない。が、視覚障害者はそもそもスクリーンリーダーの読み上げ内容とか、OSが用意しているアクセシビリティー機能とかをある程度知っておかないと、ぜんぜん操作できないわけである。この話を書き始めると、また長くなるので、もういいや。

そういうわけで、一筋縄ではいかない古里移住計画だけれども、まあ、ぼちぼちやっていこうかと思っているところ。

ただ、ほんとに心配というか大丈夫かなあと思うのは、東京・大阪・名古屋辺りの視覚障害者はまだ恵まれてる方だと思っていて、もっと地方の視覚障害者はちゃんと生活できているのだろうか?先天的な方もいるだろうが、中途視覚障害者とか特に困るんでなかろうか?

余談だが、欧米って障害者の社会進出がだいぶ進んでいる印象があったのだけれど、オーストラリアはぜんぜん違うらしく、多くの視覚障害者はセイフティーネットに救われているらしいと、先日聞いた。オーストラリアといえばNV Accessがある国だし、英語圏だし、日本よりもそうした状況は良いのかと思っていたけど、どうも違うようだ。だからこそのNVDAの理念なのかもしれないが・・・。 そろそろ文章を書くのが面倒になってきたので、今日は終わりにします。さようなら。

本日はお酒をたあしなんだ故に、こういう面倒な議論が話題となったわけである。

僕たち視覚障害社を含め、障害社は「多様性を社会に求める」という点において共通していると思う。障害社の法廷雇用率も上がって、ダイバーシティーが企業でも真面目に議論される昨今であるが、この場合多様性の恩恵を受けるのは、基本的に助成とか介護してる人とか障害社なの0であって、視覚障害社だけではない。でも、今を生きる視覚障害社の中には、自分たちさえ良ければいいという考えを持っている人も少なからずおり、他の障害社のことを考慮していないという言動も散見される。

もちろん、視覚障害社が語れるのは視覚障害のことだけであるという主張も認めるけれど、それってその人たちがよく口にする「想像できない人」と類似しているのではないだろうか。

例えば、点字ブロックは視覚障害社にとって必要なインフラだけど、車いす利用者にとってはガタガタするウザったい存在であることだろう。けれども、そこは一つ寛大な気持ちで点字ブロックを認めて頂きたいというのが本音である。その代わり、会社の多機能トイレはなるべく使わないようにするから・・・。

まぁなんていうか、視覚障害のクソジジイとかクソババアが気にくわないだけの話です。お許しください。

あと、権利を主張するのはまあいいけどさ、あんた言い方ってもんがあるでしょ?!と個人的に不審に思う障害者の人もいます。そういう人たちがいなきゃ今の僕らの生活は成り立っていないのかもしれないけど、あんたたちは税金払ってものを言ってるのか?という話ですよ。

僕は所得税を払っているけれども、なんだか知らないがやたら安い。たぶん何科の理由で割引になっているんだろうけど、俺たちを馬鹿にしているのか?と思う。公平に働かせるなら税金もちゃんと全額取れよ!と思う。

だんだん話が逸れてきたけれども、僕は日本は軽空母を持ってVTOOL戦闘機も配備した方がいいと思うけれども、あれだ、今の政権には反対です。でも潜水艦はちゃんと売ってね!!

武器輸出大歓迎。平和を説きながらミサイルを売る糞ったれとは、今の首相のことだ。

さようなら。

先日「マタニティ・ハラスメント」が問題になっているとテレビの報道で知った。電車内で差別的な言動を受けるケースもあるようで、根深い問題と言うことだ。

詳しいことは以下の記事に書かれている。

マタニティハラスメントの恐い実態 電車内でヒジ鉄を受ける例も

私はこういった差別的な言動に対して批判的な立場であるが、事はそう単純な問題ではないのかもしれないと、ふと思ったので、以下にその詳細を書く。

そもそもマタニティマークとは、上記の記事に依ると「妊婦の安全性と快適さの確保を目指し、厚生労働省が2006年から始めた取り組み」とのこと。妊娠初期など、見た目では妊娠していることが分かりにくい場合に付けるようだ。

この取り組み事態の是非はともかくとして、マークを付けるという行為は「シンボライズ(記号化)」である。シンボライズすることで、前述のように安全性確保の必要性を他者に伝えることができたりする一方で、差別的な言動の引き金にもなり得る。これが問題だ。

こういうことに敏感なのは、私が全盲で、外出するときは白杖を持っていることにより、常にシンボライズされた状態にあるからだと思う。白杖というシンボルがあるからこそ、周囲に自分が全盲であることを理解してもらったり、サポートが必要な存在であることを認識してもらえるのである。だが、同時に、それは周囲の人々に「自分とは違う存在である」ということを印象づけていることにも他ならない。だからといってシンボルを除去すれば、サポートが必要なことを分かってもらえない。ジレンマだ。

ところで、私が学生だった10年ぐらい前、とある授業で「プロップステーション」という障害者就労支援施設のドキュメンタリービデオを見たことがある。私はあまり詳しくないけれど、有名だそうなのでプロップステーションをご存じの方も多いかと思う。ちなみにWebサイトもあった。

社会福祉法人プロップ・ステーション

そのビデオの中で代表の人が次のような趣旨の発言をしていた。「障害者はシンボライズされていることで追加のハンディを負っている。そのシンボルを取り払うことで、障害者とか健常者といった区別を無くし、ノーマライゼーションを実現したい。」

申し訳ないが10年ぐらい前のことなので、ひょっとしたらうそを書いているかもしれない。その場合は教えてほしい。

で、私はこの意見について、前半部分には賛同できるが後半部分は少し違った考えである。確かに、先ほど私がシンボライズについて述べたように、シンボルを取り払って区別を無くすことは、障害者と健常者の双方が「同じなんだ」と思う切っ掛けになるかもしれない。でも同時に、本当は必要なサポートがあるのにそれを理解してもらえない危うさもある。私は、障害者と健常者が互いの違いを理解し合い、必要な支援を自然に行えるような社会を作ることが、ノーマライゼーションだと考えている。

そして、その「違いを理解する」ための手段としてシンボライズをするかどうかは、物理的な安全性などを除き、本人が自由に選択できるべきだ。まあ、視覚障害社は安全性の面でシンボライズが必須なので、それは大変残念なのだが・・・。

ただ、ここが難しいところなのだが、先ほどから何度も繰り返しているように、シンボライズには理解を促進するというメリットと、区別を促進するというデメリットがあり、このバランスがとても難しい。そして、そのバランスによっては、シンボライズした方が良さそうな当事者がシンボライズを拒否することによって、本人がいろいろ困ったことになる可能性もある。また、大人は経験的にシンボライズするかどうか判断できるかもしれないが、子供はシンボライズするかどうか判断が難しいと思うので、親が適切な判断をしないといけないという問題もある。

だんだん面倒になってきたのでそろそろ終わりにしようと思うのだが、抽象論として考えただけでも「シンボライズ」と「ノーマライゼーション」を以下にバランスさせるかはすごく難しい問題で、それは障害者についてもマタニティにとっても同じことなのではなかろうか。

あと、最後に一つだけ。

障害者もマタニティもだけど、「シンボライズしなければならないことが問題」と主張するのは簡単なことだが、そんな社会を変えていくのは、正直すごく難しいこと。だからといって何もしないのも問題なんだけど、とりあえず、世の中の皆さんには、是非想像力を磨いて頂いて、差別的な言動を受けたり、「違うもの」として扱われる人の気持ちを考えてみてほしいです。はい。

※結局「ノーマライゼーション」という言葉を題名に入れたけど、あんまり意味なかったかもしれん。

はじめに。

【警告】このブログを読んでくれている人の中に盲導犬ユーザーもいるかと思うけれど、それでも、あえて不快になるような表現を使うかもしれません。なので、耐えられないと判断した場合は即刻このブログを読むことを辞めた方がいいと思います。【警告終わり】

今日(2015年3月17日)の「国際報道」(22:00からNHK BS1)で、マレーシアで唯一の盲導犬について特集をしていた。

マレーシアには現在盲導犬は1頭しかおらず、その盲導犬も去年から仕事を始めたばかりとのこと。人工の6割がイスラームであるマレーシアでは、宗教上の理由で犬があまり良く思われていないようで、ショッピングセンターでこばまれる映像も映っていた。いやまあ俺は全盲なので映像は見えませんがそういうアナウンスだったんで・・・。

で、ここからが本題なんだけど・・・。

正直な感想としては「この人苦労するだろうなあ」ということ。この人というのは、マレーシアで初めてガイドドッグのユーザーになった人だ。裏を返せばマレーシアの4割は他の宗教なので、人によってはガイドドッグの有用性を認めてくれる人もいると思う。でも、マジョリティの力は思った以上に強いもので、その中で、ガイドドッグを認めてもらおうとか、一緒に暮らすというのは・・・、簡単な話じゃないと思った。

そういう意味では、日本ではガイドドッッグって当たり前で、むしろ「眼が見えない=盲導犬」みたいな印象もあるようだけれど、そう見えるこの社会も、ガイドドッグに対する無理解、嫌悪、過剰な幻想など様々。法制度的にも社会的にも一定程度認知されている日本でも、まだまだ、そう、ほんとにまだまだ行き届いていない部分はたくさんあるのに・・・。

宗教という、なんというか、あまり合理的で無いレベルの話を持ってこられると、ガイドドッグは結構厳しいなあ・・・。

それが、テレビを見た率直な感想。

まあ、本題からは逸れるけど、今の日本社会は過剰に盲導犬を美化しているとも思うし、逆にある部分では全く理解されていないとも思う。この現状を変えるのはなかなか骨が折れそうだけど、これからガイドドッグを広めていくマレーシアには、「意識開拓」の意味でまだ可能性は残っているのかもしれない。

まあ、マレーシアのことはそんなもんなんだけど・・・。ただ、割と一筋縄じゃいかんだろうなあ。

日本では宗教的観念が薄い分、動物嫌いの人もいたりして、そういう観点でガイドドッグを良く思わない人もいるはず・・・。それとか、普通に外にいる分にはぜんぜん問題ないけど、家には入れたくないとか・・・。あるいは外ではOKだけど飲食店の中はいやだとか・・・。

そういう問題について、ユーザーの立場からすると、すごい剣幕で文句垂れ流して良いレベルだと思う。けれど、僕自身は、「飲食店に動物はちょっと・・・」という人の気持ちも理解はできるので、これがまた、自分の立場を表明するのは難しいのである。最近はそれも悩みの種だ。

そろそろ収束させようと思うのだけれど・・・。

マレーシアのガイドドッグくんには頑張ってほしいものです。日本の人も、なんというか、変に同情的に見ないで、ガイドドッグもユーザーも社会の一員として対等に見てくださいね。同情して金をくれるんだったら、まあ僕は受け取るけど、基本それいらない行為だから。

以上。

今日ぐらいから、以下の記事を拡散するツイートが結構多い。

障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される-難病を患うコメディアンが語った、"本当の障害"とは

記事内容は「まあそうだ」と思うわけだが、この記事を読んで、次の本のことを思い出した。

怒りの川田さん―全盲だから見えた日本のリアル (Amazon.co.jp)

久しぶりにこの本を読んでみた。まだ冒頭の数十ページしか読んでいないけれども、これもまた、「まあそうだ」ということが書かれている本である。

著者の川田氏は、一時期視覚障害者コミュニティでたたかれまくっていたことがあって、まあそのころの言動も「しょうがないかな」という感じではあったのだけれども、上記の本に書いてあることは「まぁそうだ」ということなのである。書き方が露骨で皮肉っぽいので、受け入れがたい人もいるかとは思うが、一部を除いて、具体的なエピソードはおおむね現実だと思う。

で、ここにも「感動という形で消費される障害者像」に関する記述があったので、冒頭の拡散記事とは何科関係があるのかなあ?と疑問に思ったのである。川田氏の本はまた続きを読むのだけれど・・・。

ところで、私も以前、「困る話」とか「視覚障碍者を「ひんづかんで」サポートしてくれる人について、もう少し優しくしてくれるように言う方法はないだろうか?」とか「助けてもらうことは有り難いけれど、すべてが万事うまくいくとは限らない」などのエントリーで個別の事象をあげつらってきた。で、ついでにもう一つ。

これは、まあどうでもいい話なのだが・・・。

かれこれ10年ぐらい前、大学進学して初めて一人暮らしを始めたころ、駅からの帰り道におじいさんが声をかけてくれて、途中まで一緒に行ってもらったことがある。歩いているときから「あなた、目が見えなくてよく歩けますねえ」とか「いつから見えないの?」とか、ごくごく一般的な会話をしていたわけであるが・・・。

信号待ちで止まったころから、だんだん話が微妙な方向へ行き始めて・・・。「あなたの親御さんは本当にかわいそうに・・・」とか、「そんなお若いのに目が見えないなんてあなたは不幸だ」とか、だいぶ反応に困る発言がおじいさんの口から解放されてきたとき・・・。

隣で同じく信号待ちしていたおばさんがぶち切れた。

>>おばさん:  (おじいさんに向かって) 「ちょっと、あなた。そういう言い方は失礼じゃないの?彼の気持ちも考えなさいよ!」

その言葉でおじいさんはどこかへ行ってしまったのか無言になったのか、私に話しかけることは無くなってしまったのだが、信号が青になって渡り始めたとき、おばさんが「あなたも大変ね。負けないでね。」と、これまた、どのように解釈したらよいのか微妙な言葉をかけてくださいました。一応「ああ、どうも。まあいつものことですから・・・」と苦笑いしておいたけれども・・・。

で、こういうエピソードも踏まえると、結局、冒頭にリンクを貼った記事にあるように、「障害者は感動ポルノとして消費される」ということは一面で正しいことだなあと感じるわけである。これを見越していろいろなアクションを取っている障害者もいると思いますが・・・。

ただ、一つだけこの記事に不足しているのは、すべての健常者が「感動ポルノ」として障害者を消費しているわけではないだろうということだ。ちょっと、ひょっとしたら記事内で触れられていて私が見落としているのかもしれないけど、世の中の健常者には、「存在否定」という形で障害者を見ている人も、たぶん少なからずいること。悲しいことだけど、受け入れたくはないけれど、改善してほしいとは思うけど、たぶん、それも含めて「社会が障害」なんだと思う。ちなみに、川田さんの本にも書いてあったと思うので、これから確かめてみる。

以上。

11月から無事働き始めた。ああ、ビールがうまい。

さて、働き始めて「ああ!」と思ったのだが、人間ドックって大変困るなあと思う。ただの健康診断とは訳が違うのである。

まあ、検査される内容についてはよく分からないのだが、最大の問題は「バリウム」である。バリウムそのものは最近おいしくなったらしいのだけれども、いやいや、その後ですよ。

「うんこ、どうするの?」

一般的に、バリウムを飲んだ後のうんこをどう処理するかはそれぞれだと思うけれども、気になる点は次のとおりである。

  • ケツから出てくるときはどんな感触なのか?普通とは違うだろう。なんか、こう、堅いものを産み落とすような、痔になりそうな、そんな感じなのだろうか?
  • 産み落としたうんこをどうやってすくい上げるのか。目が見えていれば、まあなんとかなりそうだけれども・・・。便器に排出されたバリウムうんこって、見なくても取り出せるもの??

間違ってもバリウムを飲んだあと、自宅ではトイレに行きたくないなあと思うのだが、だからといって、出るものは出ちゃうのだからどうにかしなきゃならん。一部には、「人間ドックの後はカフェで時間をつぶしてそこでしてくる」とか「百貨店へ行く」とかいろいろ解決策はあるようだが・・・。

まあ、人間ドックなら、会社のトイレでしてもいいかな、とは思う。けれど、いくら会社のトイレだからといって、流すわけにもいかない。となると、会社のトイレで産み落として、流さず放置するということになるのか?うちの会社のトイレは内側に扉が開くタイプなので、だれも入ってないときはオープンであり、流さないで放置しておくといろいろ不都合なのですが・・・。

何より、近年は個室でケータイを見る人が増加していることにりょり、常に会社トイレの個室は稼働率95%以上という、その辺の情報システムよりよっぽど利用率高いような昨今・・・。個室から人が出てくるのを、歯を食いしばって待っていた人が「ああ!やっと個室空いたわ!」と思って入ったとたん、目の前に広がるバリウムうんこを目にしたら、それはショックが大きすぎるだろう。そういう意味でも、あんまり、放置プレーはだめかなあという気もする。

結局もんもんとするだけで、バリウムうんこをどうやって解決したらいいのかはよく分からなかったけれども、みんなどうしてるんだろう?

こちらは久しぶりの更新となりますが・・・。

ひとまず、就職が決まったのでご報告します。ええ。11月から働きます。

思えば、2008年に大学院を辞めて、今年は2社も会社を辞めて・・・。振り返ると「自分には学習能力が欠如している」ということを身にしみて感じるのであるが、そうであっても、肝心なところでは運に恵まれている境遇だなあとしみじみ感じるわけである。こういうことは、この先ないだろうと思うので、まあ、正論はいろいろあると思うけれど、とりあえず、頑張っていきたいと、そう思います。

さて、Twitterでも一瞬言及したのだけれど、以下の記事を読んでいろいろ思うところがあったので、メモ程度に書いておこうと思う。

「同じ会社で定年まで勤め上げる」ことは、ただの自己満足です

これは、タイトルから想像できるように、「定年まで同じ会社で働く」ことについて批判的な論調を展開している記事えある。あまり正確で無い要約をすると、「同じところにいると価値観も固定されて何も変革できないし、新しい出会いもないから、いろいろな会社で働いた方がいい」ということのようだ。

私自身は、この意見に賛成である。同じ組織に所属して同じ空気ばかり吸っていると、考え方も保守的になるし、おそらく外界の動きにも疎くなってしまう。何より、記事の中でも触れられているように、リストラなど、意図せず会社を辞めなければならなくなったときに、食っていく手段を身につけられない。そうなったときに、「自分の何を売り込んで仕事を探せばいいのか」ということについて、考えすぎて眠れない日々を送ることになるだろう。

しかしながら、一般的には正しい意見だと思うのだが、障害者については、ちょっと当てはめるのはつらいかなあという印象である。

「障害者が働く」ということに関して、いつかこのブログでも書いた気がするけど、まずは「就職すること」がゴールになっているという現状がある。実はスタートラインに立つことなんだけど、すでにゴールなのだ。

その状況は、全体的にはここ数年で改善してきているようではあるが、障害別、及び、障害等級別で比べると、おそらく微妙だろう。端的に言えば、軽度障害者の就労は着実に進んでいるが、重度障害者の就労は水準を維持または悪化していると考えられる。これは統計的な資料に基づく意見ではなく、私がネット上の情報を読んだり、実際に就職活動してみて抱いた推測であることに注意して頂きたい。

事実はどうか知らないが、「私の推測は正しいだろう」という前提でこれからは書くことにする。また、本記事中、特に断らない限り、以降は「重度障害者」をさして「障害者」と呼ぶことにする。

さて、ここで検討したいのは、「障害者にとって次のどちらが良いのか」、ということである。

  1. 同じ会社で働き続ける
  2. 理由はなんでもいいが、転職や転社に積極的にチャレンジして自分を磨く

まあ、先に結論を言ってしまうと、どっちが良いのか分からないし、人それぞれ向き不向きがあるので、なんとも言えない。だけれども、考えるのである。無駄に考えることこそがこのブログの趣旨なので、考え得るすべてのことを(と言っても、酔っ払った私から引き出せることなど大したものでもないが)、無理矢理考えてみたいと思う。

まず1番目の「同じ会社で働き続ける」ということ。リンクした記事でこてんぱんにやられていたので、デメリットについての考察は控えるが、じゃあ「メリットって何?」という話である。

第1に、経済的には安定する、ということが考えられる。ただし、これは必ずしも正しくはないけれど、障害者を雇用することに取り組んでいる企業は、結構体力があるので、ほとんど正しいと思われる。というか、ある程度体力があって、コンプライアンスの締め付けがきついという事情がなければ、なかなか障害者雇用をやっている余裕は無いんじゃないだろうか。

第2に、障害者の社員は自分のペースで仕事がやりやすくなる可能性がある。人事担当者とか管理職の人には申し訳ありませんが、その会社で、ある障害種別の人を初めて受け入れたような場合、ほとんどのことはその「初めての障害者の人」が基準になるので、まあ、障害者からすると、いろいろごまかせる。すいません。ごめんなさい。

第3に、これはちょっとどうかな?と思うけれど・・・。順応してしまえば、いやな思いをすることが減るかもしれない。長いこと同じところにいれば、良い意味でも悪い意味でも周囲は障害者への理解が深まるはずだ(環境にもよるけど)。で、個人差はあれど、障害者自身も、生き抜く術を身につけてうまく立ち回ることができているはずだ。そういう前提が無いと、長く同じところで働くことは、たぶん難しいと思う。だから、これをメリットと言っていいのかどうか分からないけれども、そういうことである。ここらへんは、障害というよりは、単純に人として溶け込めるかという話なので、あまり障害の有無は関係ないかもしれないが・・・。

あと、なんというか、こういうことを書くと、私が怒られたり、あるいはショックで寝込んでしまう人がいるかもしれないので、この先を読むことについては慎重になって頂きたいのだが・・・。

企業が重度障害者を雇用する理由は、おそらく次の二つに大別されると思う。一つは「障害者の雇用数のカウントが大きい」ということ。もう一つは「結構マジで障害者を活用しようと思っている」ということ。もちろん、これは私個人の勝手な思い込みだし、こういう問題は白黒付けられるものではなく、むしろファジィであるから、このような二元論では片付かない。けれど、あえて書いている。

どちらの理由にしても、重度障害者を雇用することは、はっきり言ってリスクである。ぜったい怒られると思うけど、あえて書くけど、「動くかどうか分からない車を買わされる」のと、あんまり状況は変わらないんじゃないか?いろいろなところで障害者雇用について「障害の程度は千差万別なので、一人一人に合った配慮をうんぬんかんぬん・・・・」という説得がされるようだけれども、経営側からすれば、ROIが計算できないんだからそんなもんリスク以外の何物でも無い。

しかしながら、そこでリスクを取るということは、さっきのように、雇用率を引き上げるのに使えると思っているか、人事担当者が熱い思いを持っているかのどっちかなんだと思う(思い込み)。

で、これは実感であるけれども・・・。視覚障害者である私が就職活動していて、きちんと話を聞いてくれた企業というのは、ぶっちゃけ、ほとんどなかった。一応、それなりに名の知れた会社でそれなりの期間働いていたのに、である(まあ、そういった点は実力主義の世界ではどうでもいい話)。未だに「視覚障害者はお断り」という企業さえ有った(もちろん、文句はたれておいたが)。

私の場合、結果的には2社ほど良いお話を頂くことはできたものの、エントリーした会社は、合計すると30社以上。まあ、これでも少ない方だわね。余談だけれど、この数字、10年前の視覚障害者の就職事情を加味してもちょっと少ないと思うが、今では健常者の人たちも30社とか50社とか100社とか応募してもだめなことが多いというのは・・・。悲しい世の中だ。

そういうことも考慮すると、個人的な感情としては、今回拾ってくださった会社や職場の担当者の方々には、大変お世話になり、そして、感謝をしておりまして、もう、なんというか、個人的には、「骨を埋めるつもりで働かないといかんなあ」という気持ちであります。すいません、ごめんなさい。最初の就職のときは、こういうリスクとか、そういうのは、あんまり頭にありませんでした。これからは一生懸命頑張りますから、ごめんなさい、ああああああああああ!

おっと、なんか話が逸れてきた。まずい徴候だ。Next please.

話は元に戻って・・・。

今検討していることの二つ目、「理由はなんでもいいが、転職や転社に積極的にチャレンジして自分を磨く」ということはどうか。メリットについてはリンクした記事に書いてあるので省略。

で、デメリットなんだけれども、おおざっぱに言えば、「健常者に関する一般論を障害者に適用するのは危険」ではないかと思う。すべてがだめだということではなく、「前提条件とか現状に相違点があるから注意が必要」という意味である。

具体的には、まず、そもそも障害者が置かれている状況として、「実力や努力や意欲に適合する受け入れ先が少ない」ということが言えるのではないか。これはマッチングとは少し違って、歴史的なたとえで言えば「女性の普通教育」みたいなものだ。要するに、門戸が開かれていない。そういうと大げさかもしれないが、私なりの考察を付け加えて言い換えれば、「一般的な中途採用者に対する期待値に比べて、障害者を中途採用する場合の期待値は、どうしても下げざるをえず、結局受け入れる環境を整える方向に力が働かない」ということだ。

また、こういうことを書くと怒られるだろうし、ショックを受ける人もいるかもしれないので、読者の皆さんは慎重になって頂きたいのだが・・・。

一度でも障害者採用をやったことがあれば経験的に分かると思うけど、障害者の育成は大変難しい。育てる側に経験が無いというのもあるし、当事者にとっても、障害の内容によっては成長が難しい部分もある。例えば、全盲にUMLで設計書を書けと言っても無理だし、全盲に紙の伝票を仕分けしろと言っても無駄だ。それで、そういうことを経験的に学習した企業は、障害者採用に慎重になる。リスクを軽減させるために、より軽度の障害者を雇って、自分たちの管理がしやすい方向へ方針を切り替えることも想像に難くない。

これが、新卒だったら、会社で育てていく覚悟を、ある程度は持てるかもしれないが、中途採用の場合は即戦力として会社の利益向上に直接的に貢献することが求められるわけである。すると、中途での障害者採用を見送ったり、あるいは軽度の障害者をルーチンワークをやらせる目的で雇ったりする感じになるのは、まあ、会社の立場からは理解できる。

こんな感じで、障害者がキャリアチェンジする場合は、たぶん裾野が狭まっているんじゃないかと思っている。まあ、妄想かもしれません。

それから、障害者の立場から考えても、デメリットがあることに触れておきたい。

それは、環境に適応するためのコストが大きいということである。先に述べたことと重複するかもしれないが、何にしても、職場に配属されたときに、高い水準で周囲の理解が得られるケースは少ないと思う。簡単に言えば「慣れるのに時間がかかる」のだ。

それこそ「障害は千差万別」というのが、あながち嘘でもないような感じである。障害の有無以前に皆人間なんだから、障害に対する配慮についていろいろ意見が異なったりすると思うが、障害者はそういうことをいちいち職場の人に説明しなきゃならないし、説明したところで理解が得られる確証はない。さらに、建物の設備や支援機器の導入が新規に必要な場合、それをどの程度受け入れてくれるかは会社の考え次第。仕事の内容や待遇ばかりに目がいって、そういった環境面で失敗するリスクも、当事者は考慮すべきだ。

ああ。安酒を飲んでいたら、だんだん胃が痛くなってきた。

そういうわけで、ほら、言ったでしょ。どっちとも言えないのです。なんか、この文章の流れだと、「同じところで働くのが良い」という結論になりそうだけど、それは俺が今そういう考えだからであって、実際は人それぞれ、いろいろあるんだよ。きっとね。

だから、もう一度言います。ごめんなさい。ほんと、すいません。これからは真面目に働きます。疲れない程度に。作業の進め方については手を抜きますが、成果物の品質については妥協せず頑張ります。

なんか、「結局この文章はなんだったんだ?」と、小一時間問い詰めたくなるような感じではあるけれども・・・。もう酔っ払ってきて、どういう風に収束させたらいいんだか分からなくなってきましたから、もう終わりにするわ。すいません。真剣に読んでいた人ごめんなさい。僕はこういう無責任な人間なんだ。教育実習の担当だった先生に「今、私、夫と家庭内別居状態なの」とか言われても、今の俺ならもう動じない。昔の俺は腰が抜けました。ごめんなさい。

こんなの、載せていいのかしら。まぁいいか。一応匿名だし。現代では、そう思っていても、割と簡単に個人が特定されちゃうから怖いもんだ。まぁ別にいいけど。さらしたりしないでね♪

これは自問自答の記録である。

新しい職場の業務内容は、例えれば「毎日同じように豚骨スープを作って客にラーメンを出す」ような、ある種職人芸的な要素が強いと、入ってから知ったので、とにかく今はルーティンを覚えたり、基準を見直したり、基準と適合するか否かを精査するための材料を整理したり、そういうことに手一杯で、余計なことを考える暇がない。

とは言え、さすがに通勤電車の中とか、こうして家に帰ってきたときは、思う存分無駄なことを考えられる。まあ、そう考えることもないんだが、毎日通勤してれば、道中、「どうしたもんかね?」と思ってしまうことは、一つぐらいあるものだ。

で、本日の問題である。

【問】 駅で視覚障碍者を案内してくださる方には感謝すべきだと思うが、無言で、後ろから腕をひんづかむ(より一般的には「ひっつかむ」)のはやめて欲しいんだけど、それをどうやって丁寧に伝えればよいか?

ここで「ひんづかむ」と書いたのは、ただつかむだけでなく、強力な握力で二の腕をギューっと握りしめられたり、すごい手際の良さで腕を強力に絡みつかされたりすることを、総称している。「ひんづかむ」って下品に聞こえるけど、実際にそうされたら一番ピンとくるのが「ひんづかむ」だと思う。「ひっつかむ」は、まあ悪くはないが、俺的にまだ弱い。

さて。一応、私は男だから「もうちょっと優しくして!」とか思うだけなんだけど、女の子の視覚障碍者がこれやられると、たぶん心理的に微妙だと思う。「この人痴漢です!」という最終奥義はあるものの、いちいち奥義を発動していたら、週に数回警察署で事情聴取されるはめになるだろう。

で、まぁ、女の子に限定せずとも、ひんづかまれるのは、正直あまり気分がよろしくない。そこで、このサポート方法をやめて欲しいことを、どうやって伝えたら良いんだろう、ということになったのである。

ここで、世間話できるほど気さくな人で、かつ、手引きの方法についてさりげなくお願いできるぐらいに目的地まで距離があれば、さほど問題にならない。問題なのは、エスカレーターに乗る瞬間とか、電車に乗る瞬間とか、そういう一瞬の出来事についてである。

このような場合、サポートしてくれた人がどこにいるんだかよく分からないし、「有難うございます」以上の会話はなかなかできない。仮に、エスカレーターとか電車で近くにいることが判明しても、いちいち、手引きの作法について説明するのは、まぁ、するに越したことはないんだろうけど、面倒でもある。でも、説明しなきゃしないで、これからも彼らは僕たちをひんづかんでサポートすることだろう。

で、そこから本来はあと30行ぐらい話は続くのであるが、長いので省略。

最終的な結論としては、「せっかく盲人団体があれこれ啓蒙活動しているんだから、手引きの方法をもっとちゃんとやればいいのに」ということになった。なんか、本当なのかどうか俺は信じがたいのだけど、今、そっち系の団体が、白杖を上にしてグルグル回しているときはヘルプ要請のサインであると、キャンペーンしているらしい。そんな、周囲にとって危険で、かつ、恥ずかしいことはやめて、もっとシンプルにやることはできないんだろうか?いや、まあ、絵的なインパクトはあるかもしれんが・・・。

っていうかですね、白杖の振り回すのは、酔っぱらってたまらなく楽しい気分で帰路についているとき、あまり街灯の無い道に差し掛かって、だれも歩いていないことをしばらく耳をそばだてて確認した上で、「ちゃんばらごっこ」するときだけです。覚えておいてください。

このページの上部へ

プロフィール

結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

サイト内検索

最近のピクチャ

Powered by Movable Type 5.2.10