物事は相対的だと、俺は思うのだ。絶対的なものなんて、この世に存在しないのではないか。

直感的に分かるものとして、人間のあり方ってのは非常に相対的だ。例えば、「どんな人間になるかは環境の影響が大きい」と言われることが多い。これは分かり安い例だ。環境なんてものは両親の性格や居住地域、周辺住民との繋がりなど人によってばらばらだし、変化しうる。従って、他人の環境と自分の環境とか、過去の自分の環境と今の自分の環境、といった意味で相対的である。

で、突き詰めていくと、抽象的な概念っていうのも結局は相対的なのではないか。分かり安いのは「価値」だろう。商品の価値、お金の価値などいろいろな場面で「価値」という概念が用いられるが、何かと比べるから価値が決まるのであって、価値が絶対的に決まることがあるとすれば、むりやりな論理に過ぎるだろう。。例えば商品でいうならば発売されて時間が経つと市場価値は低いと見なされるし、、流通量が多いのに需要が少なくても価値は下がる。金だって一国の中では絶対的な価値概念だとしても、多国間ではその価値は相対的で、常に為替レートは変化しているのだ。金本位制が崩壊し、ドルと円だって教科書に載るほど昔に変動相場制となったのである。

他に「関係」という概念も相対的である。「関係」という概念自体が、二つ以上の物事を対象とする概念だから、定義からして相対的なのだ。

これらの概念を持つ人間という生き物は、価値や関係、その他の諸概念を以て社会を形成し生きている。シンプルに考えれば、相対的な物事で構成されているものも、また相対的であろう。

もう一つ。自然も実は相対的であると思う。ちょっとかじっただけなので間違っているかもしれないのだが、例えば物理現象。電車に乗っている人と、その電車を外から見ている人のことを考えて見ると、電車は動いているから、外の人からは中の人は動いているように見えるが、電車の中の人は自分が止まっているように思えるだろう。常識の範囲で、窓の景色を見て動いていることを自覚することはあるが、純粋な物理の世界としては、前述のようになる。これは慣性系という考え方に基づくものだと、確か思ったけれども、とにかく「電車に乗ってる人」と「電車を外から見ている人」の二つの系では、運動の様子が違った形で観察されるのである。これは日常生活に近い例だったが、アインシュタインの相対性理論で説明されるように、宇宙の世界もまた相対的なのだ。

ただ、自然に関していえば、数学的な論理や物理の諸法則は、今のところ絶対的かもしれない。良い例が各種の自然定数である。自然対数の底(e)、プランク定数、ハッブル定数、光速度など、世界を決めていると言っていい定数は普遍である(だから定数なんだけど・・・)。また、様々な物理現象は数式として表すことができ、それらは自然を説明するのに不可欠な要素である。表現の仕方という意味では人間の都合のいいようにされているけれども、その本質は変わらない。まぁ、仮にパラレルワールドで別の宇宙が存在しているとすれば、全部相対的っていうことになるんだろうけど。

そういうことをだらだらと考えていた結果、この世は次のようなモデルで考えることができるのではないかと思った。「この世は、絶対的な自然的諸法則を土台として、相対的な事物で構成される」。

ここ2,3日、そういうことばっかり考えていたのだが、俺が2,3日考えて思いつくことなんだから、とっくにそういう考え方があるんじゃないかと思って検索してみたら、「文化相対主義」という考え方があるそうな。そりゃそうだよな。というか、みんな、きっと「社会は相対的だ」ってことに気づいてるはず。だからこそ社会を構成する経済活動も相対的な概念を土台としているし、いろいろな制度も広くみれば相対的である。そんな社会で「社会は相対的だ」って俺が思っても、別にぜんぜん新鮮な発想じゃなかったのかもしれない。

それでだ、研究者でもないのにこんなこと考えて無駄だとは思ったのだが、つい考え込んでしまい自分的には結果も出たので、どうにかして実生活に応用できないものか。まぁ、大枠のモデルだけ考えたから、実生活に応用にはもっときちんとしたサブモデルを検討する必要があるとは思うけど。

ちなみに何故こんなことを考えたかというと、「屍鬼」という小説を読んだからなのだ。もともとアニメで見ていたのだが、面白くなってきて途中が気になり、結局途中から小説を読んだという次第。相対主義がテーマじゃないとは思うのだが、「いろいろな意味で人間は一人では生きていけない」という性質を表現していると思った。