酔っぱらいの戯れ言 一覧

子供の頃、親から「似た顔の人が世の中には3人いる」とよく聞かされた。僕は全盲なので顔は分からないし、子供ではそんなにピンときてたわけではなかったのだけれど。。。

二十歳を過ぎたころから、声に関して似たような印象を持つようになった。つまり、「声が似てる人もいる」ということだ。

例えば、落語家の『林家木久扇さん』と元NHKアナウンサーの『池上彰さん』である。木久扇さんは笑点で、池上さんは週間こどもニュースで、それぞれテレビで見たときに「あれま、声が似てる」と思った。画面を見ることができないので、朝に真面目な事を言っていたおじさんが、夜になったらお笑いをやっているなんて、大人はどうしたものかと考え込んだこともあるくらいだ。そのときは、どっちも日曜日に放送していたものだから・・・。

他にも声が似ている人たちはいる。系座評論家の『三橋貴明さん』と、月刊ムーの5代目編集長『三上 丈晴さん』。こちらの組み合わせも、顔を見なければよく分からないと思う(まあ、話の内容がぜんぜん違うので分かるとは思うけれど、でもロスチャイルドとかが絡む話になると区別できないかもしれない)。詳細はYouTubeをご覧あれ。

その他、有名人でない人を入れれば、個人的に「あぁ、似てるわ」という声の持ち主の組み合わせは結構あります。皆様、いかがでしょうか?

なんで「ファッキン・クライスト」かというと、16世紀から17世紀のことを思うからだ。いや、そりゃクリスチャンにとっては、「我がなる父」であるからして、ファッキン・クライストのいうことは正しいのだと思うけれども、ローマカトリック教会が権力を持っていたころには、そんなファッキン・クライストの純粋な教えは、たぶんスクランブルエッグ並にどこかへぶっ飛んでしまっていたんだろう。

で、問題にしたいのは、コペルニクスとかガリレオは異端審問に欠けられて殺されたというのに、ケプラーはなぜ殺されなかったのか?ということなのである。

だれもが知っているコペルニクスなので細かくは書かなくてもいいだろう。おおざっぱに言えば、あのころ地動説を称えて異端審問で殺された哀れな科学者だ。

ガリレオもいろんなことをやっていて、異端審問にかけられるが、なんとか命は救われた。おお、これがファッキン・クライストのお導きか?

しかしながら、惑星の公転軌道が「太陽を焦点とする楕円」であることを示したケプラーも、同じぐらい死にそうな目にあってもおかしくないのに、彼自身は異端審問にかかることは無かった。母親が晩年、魔女狩りの対象になったようだが。

この3人は、ニュートン力学に送る惑星の運動において重要な役割を果たした人物である。僕は科学誌は専門じゃないからよくしらんが、ガリレオは自由落下の実験もやっていた(ピサの斜塔)らしいから、もう少し貢献度は高いのだろう。

それにしても、あの時代の異端審問とか魔女狩りのことはよく分からん。科学は、神の摂理を解き明かすものとして教会が恐れたことは周知の事実だし、悪いことはとりあえず魔女のせいにしとけばいいというのも、あの時代の文化だったのだろうとは思う。

で、前者は別として、後者はとても悲惨なこと。なんでそうなったかというと、問題はバイブル(清書)だ。あそこには、占いも魔法も禁止だと書かれている。だから民衆も貴族も過剰に反応したんだろう。

ファッキン・クライストは別に悪くないのに、科学者であろうと民間人であろうと、虐殺の対象にしたあの宗教観は好きになれない。もちろん、良いことは言っているが、所詮キリスト教は中東でユダヤ人と戦って、なんか買っちゃったとか、 貼り付けになったジーザスを本気で嘆いて意志をつらぬいたやつらのことだ。だいたい、ローマ帝国がキリスト教を射止めたのが良くなかった・・・。

いやいや、それは、まあいいとして。

ケプラーだ。ケプラーは、世に知られる第3法則まで出版しているというのに、何故かれは異端審問にかけられなかったのか?しかも、ガリレオの異端審問はケプラーの出版よりあと。であるからして、教会が彼らの間違いを認めたとは、どうしても言えない。

これは私の単なる愚鈍な推測であるが。 ティコ・ブラーエがいたのかもしれない。ケプラーは彼に指示していた。そして、ティコ・ブラーエはひたすら星の動きを記録する人物だった。教会にとって、結論さえ分からなければ、いくら記録を取っても問題ではなかったのかもしれない。

とにかく、学校ではキリスト教的世界観が教えられる一方だが、こうした科学者のことも教えるべきである。

現実逃避的な個人的事情より、この2日は超常現象とかOパーツとか、その辺でもたもたしている次第。

子供の頃は、こういった話題を恐怖心として捕らえていた。中学生頃からは、TVタックルの「嵐の大げんか」の影響もあって、コメディーとして捕らえるようになった。そして、大学で計算機のことを学ぶうちに、「こういうのは馬鹿げているが、アカデミズムとは別の意味で面白い」と思うようになった。これが、私の、いわゆる「超常現象全般」に対する考えとなった。

で、私はアカデミズムを選ばなかったので、そういう「のほほん」とした気分で、UFOとか陰謀論なんかを読むのだけれど、そういえば学生時代から知識がアップデートされてないと思って、Webや書籍で最近の事情とか、個人の感想を読みふけっているのである。極めて不健全であることは承知しているのだけれど、アニメやドラマを見ているみたいで、繋がりのありそうな部分を繋ぎ合わせて、どういうことになってるのかを考えるのが、また面白い。

さて、そこで、前々から疑問に思っていた、というか、「どうなんだろう?」と曖昧に考えていたものの、文章にはしていなかったことがあるので、書きたい。

そう、タイトルの件である。

「媒体としての紙」は、デジタル故に仕事を進めてこられた自分にとって矛盾する要素をはらみつつも、時にその必要性、または重要性を考えさせられることがある。

それは、「伝える」という術後についてだ。

この発想は、古代文明の石版を解読するとか、壁画の絵から描写を試みると言った知見に基づいている。

例えば。仮定として人間の感覚が知覚できる範囲において、なんらかの絵または文章、あるいは文字列が書かれた何かがあったとする。それは石版でもいいし、朽ちかけた紙でもいい。そういう媒体に書かれたことは、人間が知覚できるのだから、目視なり手で触るなどして認識できるはず。で、形式と意味を関連付ける法則をどうにか見いだすことができるかもしれない。

でも、現代のように、ペーパーレス化が進み、個人の情報発信はWeb・・・という時代になると、近い将来(数百年とか)は良いとしても、数千年、数万年後に、私たちの知識が伝わるかどうかは、とても怪しい。

デジタル化を例にとれば、まず、入力・記録・保管の最低3つの要素が、媒体に要求される。これに対して、音楽でいうと昔はアナログ波形を焼き付けたレコードが使われ、今はデジタル化されたCD/DVD/BDが用いられる。これらの媒体は、ターンテーブル(レコードの)とか、CDプレイヤーとか、ディスク・ドライブなとどいった、デバイスが無いと読み取れない。しかも、記録された媒体を再生するには、企画に沿った形でデータが記録されていなければならない。デジタルでいうところの、「0と1でサンプリングする」といったり、逆のことだったり、のことだ。

ただ、一時的な記録媒体としては優秀でも、やはり物理的なものなので、劣化はする。それに、扱うデータが増えるごとに、企画も変わるしデバイスも変わる。レコードを再生できる人が、いまいったい、どれだけいることか?

ましてや、Webのような民主的なシステムにおいては、膨大かつ厳密(改ざんを防ぐという意味で)なアーカイブシステムを統合的に運用しでもしないかぎり、だれもその正確性や再現性を後世に保証できない。でも、そんな組織はたぶん無い。アーカイバは有っても、都合が良いように改ざんされるだけだ。

上記のような、わりと面倒なことを考えると、「伝えるにはダイレクトな媒体がいいんじゃねえの?」という思いになってくるのである。

個人的な意見としては。まず、デジタルを進めていくことに異論無し。だが、重要なものは紙のように、ダイレクトに人間が知覚可能な媒体に記録して保管すべきである、ということである。

結局、再生デバイスが無いような状況、もしくは使えない状況で、運用を行うなり、学問的分析を行うなりすることはできないのである。壊れたHDDからデータを吸い出すには費用がかかるし完全な保障はない。それに、そもそもHDDという媒体からデータを抽出、または再生できるデバイスがあればいいけれども。人類滅亡とか、電力のシャットダウンとかで取り出せなくなると、困ったことになる。そういうシチュエーション含め、紙で保管することも一部必要じゃないかな?という考察である。

まあ、そうはいえども。仮に体系化された言語で記述された文字列が有ったとして、その体系を知らない連中がどう解釈するかなんて分からないのだが・・・。少なくとも、0と1で符号化されたデータよりは、目で見て読める媒体の方が、あとあと伝わる確率が高いんじゃないだろうかという話。石版に書くとか、洞窟の壁に絵を描くとか、紙に文字列を書いて日の当たらないところに保存しておくとか。

地球から宇宙へメッセージを送るプロジェクトもあったようだけれど。電波で送るといっても、どうやって変調するかとか、そういうのは受信側か送信側の都合であることが多いし、受信した電波をちゃんと変調してくれることの方が、私は生命誕生より確率的に低い議論だと思うので。

だいたい、ハビタブル・ゾーンと言われているのが、ほんとに生命に必要な要素なのかっていうのも懐疑的なのだ、私は。だって、無機物を栄養源とする生物とか、放射線を栄養源とする生物(まあ、どっちも微生物だけど)もいるようなので、必ずしも水や酸素や有機物が必要とは限らないし・・・。

おお、話題が逸れかけたのでそろそろやめようか。

とにかく、言いたいことはさっきのとおり。

「今は今、後は後、ということで、紙も残そうよ!」

以上。

Black Lagoonからは、いろいろと学ぶものがあると思っている。原作は漫画なので残念ながら読めないけど、とりあえずアニメ化されているもので十分だ。

まあ、書き始めると終わらなくなるので、とりあえず、第15話の「Swan Song at Dawn」について。

初めに、この話は通算で大15話だけれど、セカンド・バレージとしては3話目に当たる。通算第13話と第14話、そしてこの第15話の3話で一つのエピソードとなっている。

さて、粗筋とかはWikipedia先生に譲るとして。私がこの話で気にいっている歌が一つある。以下のリンクはYouTubeにアップされているものだ。リーガルかどうかは、まあさておいて、ちょっと聴いてもらいたい。

Swan Song at Dawn, Ending

歌詞は英語っぽいのでよく分からないが、綺麗な歌声だ。そう、歌声は天使のそれだ。

しかし、この歌は、「ヘンゼルとグレーテル」とバラライカたちから呼ばれていた、殺しを辞められない屑餓鬼の妹の方が歌ったものだ。第13話と第14話では、なかなかのガンマンっぷりと残虐な殺害方法、死体で遊ぶシーンなどが描かれていたが、それらとは全く対照的でアル。

フィクション作品に対して考えることは無駄だと承知で書くが、なぜ彼女はこうも2面的な側面を見せたのだろうか?その背景にはいったい何があったのだろうか?

これを考える上で欠かせないのは、前述の歌が、ロックの前で歌われたということだ。ロックは、まあWikiにいろいろ乗ってると思うが、社会の暗部に入り込んで日が浅い人間だ。だとするならば、グレーテルは、闇を生きる人間たちの中にも、ロックに何か違うもの・・・、そう、それは、闇ではなく、光のようなものを直感的に感じたのではないか?

グレーテルは歌を歌い終わったあと、船のキャビンにいて、海が見られないことについて、このような言葉を発している。引用しよう。

あ~あ、海。せっかく海に来てるのに、ちっとも見ることができないわ。残念。

これに対して、ロックは「海は・・・見たことがないのかい?」と問いかける。するとグレーテルは次のように返答した。長くなるが、引用しよう。

シチリアに居たときも、その前の孤児院でも、見てたのは灰色の壁ばっかり。産まれたのはカルパチアの岩山の中。いつも曇ってばかり。 (中略) シチリアに引き取られてからはずーっと血と闇の中。死ぬほど蹴られて真っ赤なおしっこが止まらない日もあったわ。 兄様とは、よく話してたわ。どうして神様は・・・私たちに、こんなにも、つらく当たるのだろう。 でもね、私と兄様は気づいたの。他の子が私たちの前につれてこられて、泣いているその子をバットで繰り返し、たたいた時にね。・・・大人たち笑ってた。私も兄様も笑った。笑いながら思ったの。これは仕組みなんだって・・・。そう、だれかを殺すことで世界が回り続けているのなら、・・・私たちがここに居る理由も、また、それだけなの。殺し、殺され、また殺して。そうやって世界はリングをつぐむのよ。 (以下略)

なんか、ただ見てるだけだと、すーっと耳を通り抜けていくだけだった台詞が、このように文字にしてみると、ひどく残酷なものに感じる。もう書くのを辞めたいけれど、私は向き合わなければならない。なぜかと問われれば、ただの趣味なのだが。

そして、以下のロックの台詞にも共感を禁じ得ない。再び引用する。

違う!違うんだよ!世界は、ほんとは、君を幸せにするために、あるんだよ!いいかい、血と闇なんか、世界のほんの欠片でしかないんだ。すべてなんかじゃ、ないんだ・・・。

正直なところ、これらの台詞を聞いたところで、今までの私ならば、大した感情も覚えなかっただろう。だが、なんというか・・・。この作品以外の部分で感じるようになったことも含めてなのだが・・・。何かによってだれかが救われ、人間が人間らしく振る舞える環境もあれば、救いを求めること自体がリアルではない環境もある。日本流の言葉を使うならば、「臭い物に蓋をする」のではなく、直視し、考え、感じ、そして再び考え、行動する。そうした一連の活動がシビアに必要なことも、あるのだと・・・。最近はそう思うようになった。頭では「差別はNG」と分かっていても、インプリンティングされた情報を書き換えるのは容易な作業ではなく、偽善的にそれを行っている人々も目にしてきた私にとって、偽善ではない、真の善とは何か?という、非常に難解な問題を突きつけられた思いもある。

そもそも、グレーテルの出所は、とある独裁者(たぶんルーマニアのやつだ)が、労働力不足を補うために妊娠中絶を禁止したが、貧しい国に子供を育てられる訳もなく、孤児になった子供たちが秘密警察の要員供給源になった・・・、というロックの説明に求めることができる。人間的な要素を残しつつも、必要ならば無慈悲に残虐に敵を殺す能力は、そうした秘密機関や軍の特殊部隊に必要とされる技能だ。

だからこそ、「また、いつか・・・、また、いつか会いましょうね。今度は二人で・・・ランチバスケットを持って・・・」と言い残して殺されたグレーテルを、表面的には、憂うでもなく、極めて冷静に葬り、弔ったロックの姿は、見習わなければならないと思う。

ただ、そうできるまでには、ロックの葛藤があったのだろう。「Damn it!」とどうしようもない怒りを口にしながら、「皆が、よって、たかって、あの子を虎(monster)に仕立てたんだ!人食い虎(fuckin' monster)にしちまったんだ!」とわめきながら、ベニーに諭され、そして、きっとロックは理解したのだ。ベニーの助けもあっただろう。

ああいうものを真っ直ぐ見るな。(中略)だれかが、ほんの少し優しければ、あの子たちは学校に通い、友達を作って幸せに暮らしただろう。でも、そうならなかったんだよ、ロック・・・。だから・・・、この話はここで終わりなんだよ、ロック。

そして、結局、ロックは、やっとオープンになり、空を仰ぐことができたグレーテルを受け入れた、ように思う。それが、死体だったとしても。

改めて書くが、あくまで、Black Lagoonはフィクション。実際の出来事ではない。ただ・・・。神に祈ることも許されなかった人たち(子たち)がいて、たぶん、それは今でも、世界のどこかで、同じようにいる。私たちが祈ることは容易いが、現実的に救うのは極めて困難だし、とても勇気がいることだ。だとするならば、せめて、彼らが、彼らの信じる神に祈ることができる世界になるよう、私たちが祈るぐらいしか、私たちにはできることがないのかもしれない。

まあ、そういう、つまらない話です。

ちなみに私は「Pessimistic realist」を自称している。けれど、どうも最近EQが上がってきてるような気がしてならない。まあ、EQの高低は人格的な優劣をつけるものではないと分かっているけど、EQ高い人になっちゃったんだなあ、俺・・・みたいな、不思議な感慨はありますね。だいたい、Black Lagoon見て、こんな無駄な文章を書くようになっちまったってのが、「俺、変わったわ」と思う瞬間なのであった。

以上。

「せっかく金を払っているんだから・・・」と、とある映像配信サービスを除いていたら、「紺碧の艦隊」と「旭日の艦隊」が配信されてることに今更気づき、ついつい、寝る間も惜しんで、紺碧の艦隊を前部見てしまった。

紺碧の艦隊は、昔流行った、歴史改変の軍事小説。太平洋戦争で戦死した人間が、その記憶を持ったまま、別の新しい世界(作中では後世と呼ばれている)に転成し、悲劇を繰り返さないように日本をうまく負けさせる戦略を持って、歴史を変えていくというもの。

見てて、「なんと都合が良いことばかりなんだろう」と思いつつも、史実として日本が無謀な戦争を続けず、早急に和平を模索していれば、今の日本はどうなっていただろうか・・・と、想像を巡らすのも、もう一つの楽しみ方である。降伏せずに和睦という形でアメリカと戦争を終わらせていたら・・・。

まあ、個人的に、作品としての完成度は良いと思うのだが、不満もある。紺碧の艦隊では、天皇陛下について、全く存在感がない。「統帥権干犯」といった下らないやりとりも参謀本部の間では全くない。ナチとソ連は全体主義の危険な国として描かれているものの、そもそも日本だって、エンペラーを主体とした全体主義者の群れだと、連合国からは見られていたのが史実的にはオーソドックスな解釈だと思うけど、そのような話は出てこない。ああ、なんてご都合主義な作品なんだろう。

まあ、そんなことはどうでも良くて・・・。

紺碧の艦隊を見た後、昔よく読んでいたフルメタルパニックというライトノベル、日本朝鮮戦争という作品、その他、戦争に関する小説やエッセイなど、懐かしくなっていろいろ読んでみたのだが・・・。なんか、こういうのを読んでいると、自分らしい考えが今まで失われていて、作品を読み返すことによって、若いころに形成された価値観が戻ってきたようで、なんだか良い気分でアル。

兵士として俺は戦場にはいけないが、兵士の視点で語られる話に、学ぶべきことは多い、と思う。兵器類のことも好きではあるが、戦士の教訓としてキャラクターが語る言葉には、なかなか良い言葉も多いように思う。

もちろん、作品全体の質が低い場合は、キャラクターの台詞も結構雑で、わざわざ書くなよ!と思う場面もあったりして、前部の作品を生き方の見本にはできないが・・・。

で、戦争の話になると、切手も切れないのは、宗教に関する話だ。それが主題ではないものの、例えばソ連のアフガン侵攻を題材とした話になると、無神論の共産主義者と、神を信じるイスラーム・ゲリラ、といった構図で語られることがある。現実世界でも、本質的には権力争いだったり経済的利害の対立だったりしたとしても、表層的には「宗教Aと宗教Bの対立」という構図にすり替わっていることも、しばしば起きる。

で、実際のところ、小説で戦争と宗教が絡む話になると、宗教にうとい俺にとっては、その辺の辛み具合がどうにも理解できない。なので、同時に、最近は宗教がらみの本も読んで、小説への理解を一層深めようとしているところである。

まあ、キリスト教にせよイスラームにせよ仏教にせよ、実はほとんど知らないことばかりだというのが、俺にとっての本当のところだ。まあ、イスラームについては、率直に言ってなじみがないので、以前からいくつか本を読んで知識を持っていた。でも、よく考えてみると、キリスト教についても知らないことだらけだということに最近気づいて、キリスト教についても知識を増やそうと、現在いろんな本を読んでいるところ。まあ、イスラームに比べて、いくらか知った話はキリスト教の方が多かったが。

宗教のことが分かれば、そうした要素をふんだんに盛り込んでいる戦争小説も、また新たな視点で楽しめるというものである。まあ、素直な気持ちとして、普遍的な神を信仰できれば、少しは気持ちが楽になるのかなあと、宗教のことを学びながら思ったりもするわけだけど、とりあえず信仰を持つことがさしあたっての目的ではないので、知識を快楽のために得ているということは厳然たる事実であり、主張である。

そういうわけで。気がついたらF35が沖縄に配備されてるし、ちょっと前にF22がやっと実戦やったし、日本もヘリ空母増えてきたし・・・。これで、武器輸出できるようになれば、なかなかいい案配ではないのか?そう、確か今の日本の首相は「積極的平和主義」を理念としていたはず(最近言わなくなったな)。その行動の一つが「武器輸出」だとすれば、お笑い物だ。平和を説きながらミサイルを売る糞野郎ってことじゃないか。

まあ、オーストラリアの潜水艦も取り損なったし、ほんとに武器・兵器を外に売れるようになるには、まず信頼性と互換性、そして、性能の高い兵器を作れる環境を整えなければならない。戦闘機を自国で作れないようじゃ、武器輸出とか机上の空論。日本の潜水艦は優秀だと思うんだけどなあ・・・。まあでも、外国に兵器を売るのは、単純に商売だけの話じゃなくて、政治的な絡みとか、経済的なこと(雇用問題)なんかも絡んでくるので、一筋縄ではいかないのは承知しているけれどもね。

あああ。何を書いているのか全く分からなくなってきた。もういいや、面倒だ。さようなら。

9月11日に、「地方に戻りたい」という趣旨のツイートを連騰したら、一部が切り取られる形でリツイートされて、ちゃんと伝わったかどうか心配なので、改めてここで書くことにしようと思う。まあ、飲んでいるので大した話ではないし、妄想がかなり入っているのだが・・・。

私は今東京に住んでいるが、4,5年後を目処に、ふるさとに戻りたいと考えている。何故4,5年後かというのは、会社の細かな事情も含むので割愛するが、とにかく東京を離れて地方に戻りたいと言うことだ。

中学生までふるさとで過ごし、高校生から東京に出てきた私にとって、東京というのは本当に便利な町だと思う。ガキのころは、渋谷を歩いていれば芸能人がいるなどという空想をしたものだが、実生活において、こんなに便利な町は日本には他にないと思う。

一方で、十数年住んでみて、東京に関してあまり良いとは思えないことも出てきた。とにかく人が多すぎるとか、ね。いや、まあ、人がたくさんいるから様々な経済活動やインフラが成り立つのであって、そのこと事態は全体的に悪くはないと思うけど、僕は最近人混みが嫌いなのだ。

さて、「じゃあ何故ふるさとに戻りたいのか」ということになると、主に以下のような理由である。

第1に、先にも書いたように人が多い。若いころはそんなに気にならなかったが、最近人混みがどうも苦手である。通勤電車の異常な混み具合も、どうにも最近我慢ならない。その点、私のふるさとは、そう大して人がいるわけでもないし、通勤電車が混むと言っても、首都圏のあほみたいな混み具合にはならないので・・・。

第2に、高齢化する両親と過ごす時間を、親孝行のために少しは作ってもいいかなと最近思い始めたからである。両親が、彼らの親に対して今介護などに直面していて、そう遠くない将来俺にも降りかかってくることだなと思っているので、今単純にホットなだけかもしれないが。ただ、高校生になってからずっと実家を離れているので(もちろん連休には帰省しているけれど)、まあ親が元気なうちに酒を酌み交わす日常を過ごすぐらいの親孝行は、してもいいかなと思うようになったのである。いささか上から目線な物言いなので、ちょっと鼻につくかもしれないけど。

これに関連してだが、私が戻るんじゃなくて、親が東京に移住するというパターンも有りだとは思う。実際にうちの親の友人が、娘たちが神奈川にとついじゃったので、家を売って移住してきたそうである。それはそれで有りだとは思うが、元の地域で過ごした時間が長ければ長いほど、人間関係はその地域で構築されるわけで、移住すればその人間関係は希薄になってしまう。だから、一概に親が移住するというのは良いとは言えない。地域にこだわりを持ってる人もいるし。

他にもいろいろ理由はあるけれど、本題はここからなので省略。

では、実際にふるさとに戻ることに決めたとして、どんな問題が生じるだろうか。ここからは議論の本筋である。

まず一番に考えなければならないのは、仕事をどうするかということである。経済基盤を整えるのが生活するためには大切なことだけれど、フリーランスでもない限り、移住に当たって経済基盤を再構築するのは容易ではないと思う。具体的には、「地方に戻っても仕事があるのか?」ということである。

一般的にも、首都圏の方が求人は多いと思うが、障害者にフォーカスするとかなり顕著にその傾向は現れる。去年私が就職活動していたときにも感じたことだが、特に東京・神奈川の求人は、丘の道府県に比べてかなり多かった。しかも、数字にはあまり出ないかもしれないが、視覚障害でかつ全盲の人は際だって就職が難しい。理由はいろいろあるけれど、一言で言えば、コストとリターンの割合が他の障害者に比べて悪いからだと思う。まあ、その議論はここでは本意ではないので避けるが、とにかく全盲はただでさえ修飾が難しい。

で、私の場合、今と同じようにIT関連の会社で働きたいなあと思うわけだが、地方の障害者向け、とりわけ視覚障害者を想定していると思われる求人には、そんな職種は皆無である。ほとんどが、マッサージとか、そういう関連の求人だ。ここ数年でヘルスキーパーという職種が一般的になってきたせいもあってか、「視覚障害者=マッサージ」という印象が企業には多いらしい。しかも、ヘルスキーパーですら募集しているところって、地方ではそんなに多くない。

結局のところ、就職を考えたときには、大企業が集中する首都圏で、とにかくへつらって体力のありそうな大企業になんとか雇ってもらうのが近道なところを、わざわざ逆の路をたどろうとすれば、当然それは困ったことになるわけである。

二番目に考えなければならないのは、東京に比べて「移動の自由」が制限されるということである。東京なら電車でだいたいのところへ行けるけれども、地方では基本的に車が必須である。GoogleでもAppleでも日産でもワーゲンでもどこでもいいから、さっさと自動運転車を実用化してほしいなあと思うわけだけれども、変な話、買い物一つ車が無いと困るような地方に戻るのは、あまり合理的な選択とは言えない。もちろん、駅の近くに住めばそれなりに生活には困らないだろうし、どうせネットスーパーとAmazonの世話にしかなってない俺にとっては、大した差はないかもしれないのだけれど・・・。

他にも、「親が介護を必要とするようになって、おまえが面倒を見られるのか?」という問題とか、人間関係の問題はある。あるけれど、ちょっとユーターンするための試作をまじめに考えてもいいんじゃないかなあとは思っている。

話は脱線するが、本当のところを言うと、国のあり方がどこかに定まってくれれば、こういった悩みも比較的小さくなるのではないかと思う。例えば、自民党の地方創世政策がうまく言って、地域が経済成長できて雇用を必要とする状況になれば、そこに視覚障害者が入る隙間も生まれてくるかもしれない。ぎゃくに、地域が衰退することによって、都市圏に人口が集中し、ある種のコンパクト・シティー化すれば、それらの都市へ移住することが自然な流れとなり、経済活動の集中と雇用の創出が実現するかもしれない。だいたい、メリットがあるのはこのどちらかの方向へ日本の経済構造がシフトすることである。でも、そんなの起こるかどうかも分からんし、待っててもしょうがないので、今何ができるかを考えるわけである。

さて、順番は前後するが、まず「移動の自由が制限されること」に関しては、正直そんなに問題ではないと思っている。すでに書いたように、たいていの商品はAmazonが持ってきてくれるし(正確には運送会社が運んでくるんだけれど)、ネットスーパーもあるし、それ以外にもネット通販で手に入るものが多いので、正直、引きこもりになったとしても生活には困らないだろう。まあ、吉牛を食べたりするのに車が必要だったりすると、そういう点は我慢しないといけないだろうが。でも、牛丼が食えなくてもそんなには困らないのでOKだろう。

真剣に考えなければならないのは仕事である。はっきり言って、地方に戻って再就職するというのは、全盲にとって論外ではなかろうか。鍼灸の免許を持ってれば、病院に就職するとか、開業するとかいう選択肢もあるだろうけれど、そんなの俺は持ってないし、取得するために3年学校に通い直すほどの余裕はない。そうなると、どうにかして今の会社に勤めたまま移住ができないか、ということになる。

会社を辞めずに地方に移住する場合、選択肢は二つしかない。新幹線か何かでがんばって通勤するか、在宅勤務を認めさせるかのどちらかである。前者は正直つらいと思うので、現実的には後者になるだろう。在宅勤務を許可してもらうことのメリットはいくらでもあって、例えば天候不順でも安定的に業務を行えるとか、通勤のストレスが無くなることで生産性を高められるとか、いくらでも理由はつけられる。ただ、全くの在宅勤務はたぶん会社側が良い顔をしないので、週に何日かは出社する方向で調整するのが良いかもしれないが。実際、営業主体の会社で、在宅というかリモートワークを全面的に導入している会社もあるわけなので、IT系の仕事は、技術的な制約をいろいろクリアできれば、リモートワークは可能だと思う。たぶん、視覚障害者が地方で働くのに効果的なのは、リモートワークをするということなんじゃなかろうか。

以上、私が移住するとなったら、何を考えなければならないのか、考えてきたけれど、さらに広げて、視覚障害者の地域間格差についても考えてみたいと思う。

私の印象から先に言うと、首都圏に在住の視覚障害者と地方在住の視覚障害者には、かなりの格差があると思う。本人たちがそれを格差として認識しているかどうかは別として、客観的な数値をいろいろ見ていくと、たぶんそういうことになると思う。就職率とか収入とか。

あとは、数値にはできない部分の格差もきっとあるはずだ。その最たる物は「職業選択の自由」がどの程度あるか、ということ。視覚障害者、とりわけ全盲であれば、その時点で職業選択の自由はだいぶ制限されているように感じるが、前述のように、首都圏と地方では求人の質に差がある。首都圏では、少ないとはいえ、がんばれば全盲でも事務職やSEになれる。が、地方では皆無だ。全くないとは言わないけれど、首都圏以外で事務職とか技術職に就いている人って、ほんの数名しかいないんじゃなかろうか。全盲といえば、大部分がマッサージや鍼灸の仕事で、そもそも何故そうかといえば、伝統的な国策でそれらの職業が保護されてきたことと、規制緩和されていろいろ働き口が無くなってるにもか関わらず鍼灸マッサージの路を盲学校が勧めるからではないかなあ。この辺はよく分からない。

仕事についてはこんな感じだけれど、生活面でも、いろいろと格差はあるだろう。近年はインターネットの普及で、多少改善はされているかもしれないが・・・。

やはり、地方創世で地方が元気になるか、機能集積型のコンパクト・シティーをモデルとした都市政策にシフトするかしないと、どうにもならんということだ。

で、そろそろ収束させようかなと思うわけだけれど・・・。

地域間格差は無い方が良いに決まっているわけなので、せっかく私が地方に帰ることになったら、その地域間格差をできるだけ縮める方向で何か取り組みをしたいなあと、ぼんやり考えている。

一つは、私がリモートワークを問題なくできるということが実証できれば、その動きを、まずはグループ会社から広めて言って、いずれは地方の視覚障害者がリモートで仕事できるような環境を整備していけたらと思っている。これには技術的な側面や、リモートワークできちんと会社に貢献できるかという成果を出して行く必要もあるけれど、それが格差を縮める一つの手段となるのなら、やる価値はあるだろう。

二つには、そうしたリモートワークを行う上で必要な基本的スキルを、義務教育の段階から習得させるプログラムを作ることだ。はっきりいうが、視覚障害者がスクリーンリーダーを使ってPCを操作できるようになるためには、訓練が必要である。今、一見PC操作できているように見える人も、基礎的な訓練を受けずに適当に使っている場合、あるところで必ずつまずく。何故ならば、オペレーションが全く異なるからだ。その辺は細かい話になるので割愛するけど、とにかく、最低限仕事で困らない程度のPC操作スキルと、IT関連の知識は、視覚障害者には求められるので、これを義務教育の段階からきちんと教えて行く必要があると思っている。

ちなみに補足すると、普通の人は画面を見てマウスをチョイチョイっと操作すれば、なんとなく直感的にアプリケーションを操作できるかもしれない。が、視覚障害者はそもそもスクリーンリーダーの読み上げ内容とか、OSが用意しているアクセシビリティー機能とかをある程度知っておかないと、ぜんぜん操作できないわけである。この話を書き始めると、また長くなるので、もういいや。

そういうわけで、一筋縄ではいかない古里移住計画だけれども、まあ、ぼちぼちやっていこうかと思っているところ。

ただ、ほんとに心配というか大丈夫かなあと思うのは、東京・大阪・名古屋辺りの視覚障害者はまだ恵まれてる方だと思っていて、もっと地方の視覚障害者はちゃんと生活できているのだろうか?先天的な方もいるだろうが、中途視覚障害者とか特に困るんでなかろうか?

余談だが、欧米って障害者の社会進出がだいぶ進んでいる印象があったのだけれど、オーストラリアはぜんぜん違うらしく、多くの視覚障害者はセイフティーネットに救われているらしいと、先日聞いた。オーストラリアといえばNV Accessがある国だし、英語圏だし、日本よりもそうした状況は良いのかと思っていたけど、どうも違うようだ。だからこそのNVDAの理念なのかもしれないが・・・。 そろそろ文章を書くのが面倒になってきたので、今日は終わりにします。さようなら。

本日はお酒をたあしなんだ故に、こういう面倒な議論が話題となったわけである。

僕たち視覚障害社を含め、障害社は「多様性を社会に求める」という点において共通していると思う。障害社の法廷雇用率も上がって、ダイバーシティーが企業でも真面目に議論される昨今であるが、この場合多様性の恩恵を受けるのは、基本的に助成とか介護してる人とか障害社なの0であって、視覚障害社だけではない。でも、今を生きる視覚障害社の中には、自分たちさえ良ければいいという考えを持っている人も少なからずおり、他の障害社のことを考慮していないという言動も散見される。

もちろん、視覚障害社が語れるのは視覚障害のことだけであるという主張も認めるけれど、それってその人たちがよく口にする「想像できない人」と類似しているのではないだろうか。

例えば、点字ブロックは視覚障害社にとって必要なインフラだけど、車いす利用者にとってはガタガタするウザったい存在であることだろう。けれども、そこは一つ寛大な気持ちで点字ブロックを認めて頂きたいというのが本音である。その代わり、会社の多機能トイレはなるべく使わないようにするから・・・。

まぁなんていうか、視覚障害のクソジジイとかクソババアが気にくわないだけの話です。お許しください。

あと、権利を主張するのはまあいいけどさ、あんた言い方ってもんがあるでしょ?!と個人的に不審に思う障害者の人もいます。そういう人たちがいなきゃ今の僕らの生活は成り立っていないのかもしれないけど、あんたたちは税金払ってものを言ってるのか?という話ですよ。

僕は所得税を払っているけれども、なんだか知らないがやたら安い。たぶん何科の理由で割引になっているんだろうけど、俺たちを馬鹿にしているのか?と思う。公平に働かせるなら税金もちゃんと全額取れよ!と思う。

だんだん話が逸れてきたけれども、僕は日本は軽空母を持ってVTOOL戦闘機も配備した方がいいと思うけれども、あれだ、今の政権には反対です。でも潜水艦はちゃんと売ってね!!

武器輸出大歓迎。平和を説きながらミサイルを売る糞ったれとは、今の首相のことだ。

さようなら。

はじめに。

【警告】このブログを読んでくれている人の中に盲導犬ユーザーもいるかと思うけれど、それでも、あえて不快になるような表現を使うかもしれません。なので、耐えられないと判断した場合は即刻このブログを読むことを辞めた方がいいと思います。【警告終わり】

今日(2015年3月17日)の「国際報道」(22:00からNHK BS1)で、マレーシアで唯一の盲導犬について特集をしていた。

マレーシアには現在盲導犬は1頭しかおらず、その盲導犬も去年から仕事を始めたばかりとのこと。人工の6割がイスラームであるマレーシアでは、宗教上の理由で犬があまり良く思われていないようで、ショッピングセンターでこばまれる映像も映っていた。いやまあ俺は全盲なので映像は見えませんがそういうアナウンスだったんで・・・。

で、ここからが本題なんだけど・・・。

正直な感想としては「この人苦労するだろうなあ」ということ。この人というのは、マレーシアで初めてガイドドッグのユーザーになった人だ。裏を返せばマレーシアの4割は他の宗教なので、人によってはガイドドッグの有用性を認めてくれる人もいると思う。でも、マジョリティの力は思った以上に強いもので、その中で、ガイドドッグを認めてもらおうとか、一緒に暮らすというのは・・・、簡単な話じゃないと思った。

そういう意味では、日本ではガイドドッッグって当たり前で、むしろ「眼が見えない=盲導犬」みたいな印象もあるようだけれど、そう見えるこの社会も、ガイドドッグに対する無理解、嫌悪、過剰な幻想など様々。法制度的にも社会的にも一定程度認知されている日本でも、まだまだ、そう、ほんとにまだまだ行き届いていない部分はたくさんあるのに・・・。

宗教という、なんというか、あまり合理的で無いレベルの話を持ってこられると、ガイドドッグは結構厳しいなあ・・・。

それが、テレビを見た率直な感想。

まあ、本題からは逸れるけど、今の日本社会は過剰に盲導犬を美化しているとも思うし、逆にある部分では全く理解されていないとも思う。この現状を変えるのはなかなか骨が折れそうだけど、これからガイドドッグを広めていくマレーシアには、「意識開拓」の意味でまだ可能性は残っているのかもしれない。

まあ、マレーシアのことはそんなもんなんだけど・・・。ただ、割と一筋縄じゃいかんだろうなあ。

日本では宗教的観念が薄い分、動物嫌いの人もいたりして、そういう観点でガイドドッグを良く思わない人もいるはず・・・。それとか、普通に外にいる分にはぜんぜん問題ないけど、家には入れたくないとか・・・。あるいは外ではOKだけど飲食店の中はいやだとか・・・。

そういう問題について、ユーザーの立場からすると、すごい剣幕で文句垂れ流して良いレベルだと思う。けれど、僕自身は、「飲食店に動物はちょっと・・・」という人の気持ちも理解はできるので、これがまた、自分の立場を表明するのは難しいのである。最近はそれも悩みの種だ。

そろそろ収束させようと思うのだけれど・・・。

マレーシアのガイドドッグくんには頑張ってほしいものです。日本の人も、なんというか、変に同情的に見ないで、ガイドドッグもユーザーも社会の一員として対等に見てくださいね。同情して金をくれるんだったら、まあ僕は受け取るけど、基本それいらない行為だから。

以上。

言葉と言うのは表層的なものだという印象があるけれど、実は物事の本質を表すツールともなり得るものだ。

ある言葉が、物事の表層を表したに過ぎないのか、あるいは本質を捕らえたものなのか・・・、それは個別の問題なんだとは思うが、それって結構大事なことなのではないだろうか。

なんでそういうことを考えるかというと、切っ掛けは「イスラム国」なのか「ISIL(またはISIS)」なのか?という最近のメディアの議論を見ていてふと思ったからである。この件については、多くのメディアは(いろいろ記号が付いたりするけど)今のところ「イスラム国」という呼称を使うことが多いようだが、実態は国家でもなければムスリムも少ないので、偏見を助長する名称だという主張がある。一方で、突然呼称を「ISIL」にしても、視聴者は理解できずきちんと伝わらないのではないかという懸念もある。そういう感じで、今中東を中心に活動している過激は組織をどう呼ぶか、議論があるようだ。

で、私の身の回りにも似たようなことはあるなあと思ったのである。

例えば「チャレンジド」っていう呼び方。これ、障害社を表す一種の言葉なのだが、意味としては「神から試練を与えられた者」というニュアンスがあるらしい。欧米で使われる言葉だし、キリスト教的な感触がひしひしと伝わってくる言葉だが、はっきり言って私は大嫌いな言葉だ。いや、キリスト教的観念では試練って身近なのかもしれないが、与えられちゃった方にとってはたまらない。望みもしないチャレンジを強いられた身にもなってほしいなと思う。でも「disabled」と呼ばれるか「challenged」と呼ばれるか、どっちがいいかというと、まあ微妙かもしれない。

あと、日本語の問題では「障害」と書くか「障がい」と書くか・・・という問題もある。前者は全部漢字で書く表記で、後者は「害」を「がい」とひらがなで書く表記である。「害」という漢字から受ける印象が良くないということで、最近「がい」とひらがなで書く「障がい」という表記は広まっているようだけれど、ぶっちゃけ何か変わるのだろうか?細かいことを言う人にとってはこの漢字は気に入らないのかもしれないが、実質的に表記を変えたところで印象が変わることはほとんどないと思う。

これらの例を考えると、個人的には、発音が異なるレベルの言葉の変更は、印象を変える効力があるかもしれないという気がする。善し悪しはともかく、確かに「イスラム国」と「ISIL」じゃ、後者の方がイスラムだという印象は少ない(Isramic Stateの略だとかいうことは置いておいてだ)。

っけっきょく何が言いたかったかというと、特に言いたかったことはありません。

以上。

今日ぐらいから、以下の記事を拡散するツイートが結構多い。

障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される-難病を患うコメディアンが語った、"本当の障害"とは

記事内容は「まあそうだ」と思うわけだが、この記事を読んで、次の本のことを思い出した。

怒りの川田さん―全盲だから見えた日本のリアル (Amazon.co.jp)

久しぶりにこの本を読んでみた。まだ冒頭の数十ページしか読んでいないけれども、これもまた、「まあそうだ」ということが書かれている本である。

著者の川田氏は、一時期視覚障害者コミュニティでたたかれまくっていたことがあって、まあそのころの言動も「しょうがないかな」という感じではあったのだけれども、上記の本に書いてあることは「まぁそうだ」ということなのである。書き方が露骨で皮肉っぽいので、受け入れがたい人もいるかとは思うが、一部を除いて、具体的なエピソードはおおむね現実だと思う。

で、ここにも「感動という形で消費される障害者像」に関する記述があったので、冒頭の拡散記事とは何科関係があるのかなあ?と疑問に思ったのである。川田氏の本はまた続きを読むのだけれど・・・。

ところで、私も以前、「困る話」とか「視覚障碍者を「ひんづかんで」サポートしてくれる人について、もう少し優しくしてくれるように言う方法はないだろうか?」とか「助けてもらうことは有り難いけれど、すべてが万事うまくいくとは限らない」などのエントリーで個別の事象をあげつらってきた。で、ついでにもう一つ。

これは、まあどうでもいい話なのだが・・・。

かれこれ10年ぐらい前、大学進学して初めて一人暮らしを始めたころ、駅からの帰り道におじいさんが声をかけてくれて、途中まで一緒に行ってもらったことがある。歩いているときから「あなた、目が見えなくてよく歩けますねえ」とか「いつから見えないの?」とか、ごくごく一般的な会話をしていたわけであるが・・・。

信号待ちで止まったころから、だんだん話が微妙な方向へ行き始めて・・・。「あなたの親御さんは本当にかわいそうに・・・」とか、「そんなお若いのに目が見えないなんてあなたは不幸だ」とか、だいぶ反応に困る発言がおじいさんの口から解放されてきたとき・・・。

隣で同じく信号待ちしていたおばさんがぶち切れた。

>>おばさん:  (おじいさんに向かって) 「ちょっと、あなた。そういう言い方は失礼じゃないの?彼の気持ちも考えなさいよ!」

その言葉でおじいさんはどこかへ行ってしまったのか無言になったのか、私に話しかけることは無くなってしまったのだが、信号が青になって渡り始めたとき、おばさんが「あなたも大変ね。負けないでね。」と、これまた、どのように解釈したらよいのか微妙な言葉をかけてくださいました。一応「ああ、どうも。まあいつものことですから・・・」と苦笑いしておいたけれども・・・。

で、こういうエピソードも踏まえると、結局、冒頭にリンクを貼った記事にあるように、「障害者は感動ポルノとして消費される」ということは一面で正しいことだなあと感じるわけである。これを見越していろいろなアクションを取っている障害者もいると思いますが・・・。

ただ、一つだけこの記事に不足しているのは、すべての健常者が「感動ポルノ」として障害者を消費しているわけではないだろうということだ。ちょっと、ひょっとしたら記事内で触れられていて私が見落としているのかもしれないけど、世の中の健常者には、「存在否定」という形で障害者を見ている人も、たぶん少なからずいること。悲しいことだけど、受け入れたくはないけれど、改善してほしいとは思うけど、たぶん、それも含めて「社会が障害」なんだと思う。ちなみに、川田さんの本にも書いてあったと思うので、これから確かめてみる。

以上。

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結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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