主張・思想 一覧

Black Lagoonからは、いろいろと学ぶものがあると思っている。原作は漫画なので残念ながら読めないけど、とりあえずアニメ化されているもので十分だ。

まあ、書き始めると終わらなくなるので、とりあえず、第15話の「Swan Song at Dawn」について。

初めに、この話は通算で大15話だけれど、セカンド・バレージとしては3話目に当たる。通算第13話と第14話、そしてこの第15話の3話で一つのエピソードとなっている。

さて、粗筋とかはWikipedia先生に譲るとして。私がこの話で気にいっている歌が一つある。以下のリンクはYouTubeにアップされているものだ。リーガルかどうかは、まあさておいて、ちょっと聴いてもらいたい。

Swan Song at Dawn, Ending

歌詞は英語っぽいのでよく分からないが、綺麗な歌声だ。そう、歌声は天使のそれだ。

しかし、この歌は、「ヘンゼルとグレーテル」とバラライカたちから呼ばれていた、殺しを辞められない屑餓鬼の妹の方が歌ったものだ。第13話と第14話では、なかなかのガンマンっぷりと残虐な殺害方法、死体で遊ぶシーンなどが描かれていたが、それらとは全く対照的でアル。

フィクション作品に対して考えることは無駄だと承知で書くが、なぜ彼女はこうも2面的な側面を見せたのだろうか?その背景にはいったい何があったのだろうか?

これを考える上で欠かせないのは、前述の歌が、ロックの前で歌われたということだ。ロックは、まあWikiにいろいろ乗ってると思うが、社会の暗部に入り込んで日が浅い人間だ。だとするならば、グレーテルは、闇を生きる人間たちの中にも、ロックに何か違うもの・・・、そう、それは、闇ではなく、光のようなものを直感的に感じたのではないか?

グレーテルは歌を歌い終わったあと、船のキャビンにいて、海が見られないことについて、このような言葉を発している。引用しよう。

あ~あ、海。せっかく海に来てるのに、ちっとも見ることができないわ。残念。

これに対して、ロックは「海は・・・見たことがないのかい?」と問いかける。するとグレーテルは次のように返答した。長くなるが、引用しよう。

シチリアに居たときも、その前の孤児院でも、見てたのは灰色の壁ばっかり。産まれたのはカルパチアの岩山の中。いつも曇ってばかり。 (中略) シチリアに引き取られてからはずーっと血と闇の中。死ぬほど蹴られて真っ赤なおしっこが止まらない日もあったわ。 兄様とは、よく話してたわ。どうして神様は・・・私たちに、こんなにも、つらく当たるのだろう。 でもね、私と兄様は気づいたの。他の子が私たちの前につれてこられて、泣いているその子をバットで繰り返し、たたいた時にね。・・・大人たち笑ってた。私も兄様も笑った。笑いながら思ったの。これは仕組みなんだって・・・。そう、だれかを殺すことで世界が回り続けているのなら、・・・私たちがここに居る理由も、また、それだけなの。殺し、殺され、また殺して。そうやって世界はリングをつぐむのよ。 (以下略)

なんか、ただ見てるだけだと、すーっと耳を通り抜けていくだけだった台詞が、このように文字にしてみると、ひどく残酷なものに感じる。もう書くのを辞めたいけれど、私は向き合わなければならない。なぜかと問われれば、ただの趣味なのだが。

そして、以下のロックの台詞にも共感を禁じ得ない。再び引用する。

違う!違うんだよ!世界は、ほんとは、君を幸せにするために、あるんだよ!いいかい、血と闇なんか、世界のほんの欠片でしかないんだ。すべてなんかじゃ、ないんだ・・・。

正直なところ、これらの台詞を聞いたところで、今までの私ならば、大した感情も覚えなかっただろう。だが、なんというか・・・。この作品以外の部分で感じるようになったことも含めてなのだが・・・。何かによってだれかが救われ、人間が人間らしく振る舞える環境もあれば、救いを求めること自体がリアルではない環境もある。日本流の言葉を使うならば、「臭い物に蓋をする」のではなく、直視し、考え、感じ、そして再び考え、行動する。そうした一連の活動がシビアに必要なことも、あるのだと・・・。最近はそう思うようになった。頭では「差別はNG」と分かっていても、インプリンティングされた情報を書き換えるのは容易な作業ではなく、偽善的にそれを行っている人々も目にしてきた私にとって、偽善ではない、真の善とは何か?という、非常に難解な問題を突きつけられた思いもある。

そもそも、グレーテルの出所は、とある独裁者(たぶんルーマニアのやつだ)が、労働力不足を補うために妊娠中絶を禁止したが、貧しい国に子供を育てられる訳もなく、孤児になった子供たちが秘密警察の要員供給源になった・・・、というロックの説明に求めることができる。人間的な要素を残しつつも、必要ならば無慈悲に残虐に敵を殺す能力は、そうした秘密機関や軍の特殊部隊に必要とされる技能だ。

だからこそ、「また、いつか・・・、また、いつか会いましょうね。今度は二人で・・・ランチバスケットを持って・・・」と言い残して殺されたグレーテルを、表面的には、憂うでもなく、極めて冷静に葬り、弔ったロックの姿は、見習わなければならないと思う。

ただ、そうできるまでには、ロックの葛藤があったのだろう。「Damn it!」とどうしようもない怒りを口にしながら、「皆が、よって、たかって、あの子を虎(monster)に仕立てたんだ!人食い虎(fuckin' monster)にしちまったんだ!」とわめきながら、ベニーに諭され、そして、きっとロックは理解したのだ。ベニーの助けもあっただろう。

ああいうものを真っ直ぐ見るな。(中略)だれかが、ほんの少し優しければ、あの子たちは学校に通い、友達を作って幸せに暮らしただろう。でも、そうならなかったんだよ、ロック・・・。だから・・・、この話はここで終わりなんだよ、ロック。

そして、結局、ロックは、やっとオープンになり、空を仰ぐことができたグレーテルを受け入れた、ように思う。それが、死体だったとしても。

改めて書くが、あくまで、Black Lagoonはフィクション。実際の出来事ではない。ただ・・・。神に祈ることも許されなかった人たち(子たち)がいて、たぶん、それは今でも、世界のどこかで、同じようにいる。私たちが祈ることは容易いが、現実的に救うのは極めて困難だし、とても勇気がいることだ。だとするならば、せめて、彼らが、彼らの信じる神に祈ることができる世界になるよう、私たちが祈るぐらいしか、私たちにはできることがないのかもしれない。

まあ、そういう、つまらない話です。

ちなみに私は「Pessimistic realist」を自称している。けれど、どうも最近EQが上がってきてるような気がしてならない。まあ、EQの高低は人格的な優劣をつけるものではないと分かっているけど、EQ高い人になっちゃったんだなあ、俺・・・みたいな、不思議な感慨はありますね。だいたい、Black Lagoon見て、こんな無駄な文章を書くようになっちまったってのが、「俺、変わったわ」と思う瞬間なのであった。

以上。

眠れないので筆を執ることにした。いろいろな悩みはそれなりに自分で納得して解決したつもりなのだが、ここ2ヶ月、不眠症状だけが残ってて、かなりつらいのだが・・・。

さて本題。

アスリートのセカンドキャリアに関する以下の記事を読んで、障害社のアスリートたちにも当てはまったり、当てはまらなかったりすることがあるなあと感じたのでメモしておくことにした。

アスリートの「セカンドキャリア」と「学ぶ重要性」について

要するに、アスリートたちの競技人生が終わった後、どうやって生活していくかを、若いうちに学んでおくことが重要だ、ということである。

これには大変に賛同できる。オリンピックなどのメダリストともなれば、マスコミに露出したり、講演会などで食べる路はあるかもしれないが、そんなのごく一部である。4年に一度のオリンピックで、僕自身はあまり見たことがない種目で解説をやっているような人たちの多くは、バラエティー番組に出演することはほとんどないだろうし、あまり良い成績を収められなかったアスリートたちの多くは、全く別の人生を歩んでいかねばならない。しかしながら、アスリートとして奮闘していると、そうしたことはないがしろにされやすく、引退後に困ってしまうことになる。

上記の記事は一般的な話であるが、障害社のアスリートにとっても例外ではない。

ただ、現状、パラリンピックを目指すような選手でも、日中は会社で仕事をして、余暇の時間を練習に充てるスタイルが多いようだ。会社の正式な活動として練習を行ったりするのは、2020年のオリンピック・パラリンピック開催で徐々に増えてはいるものの、そうした選手や、金銭的な心配をせずに練習に没頭できる選手は多くないと聞く。

この点で、既に仕事をしながら頂点を目指している彼らにとって、自然とセカンドキャリアを形成する準備は整っているように思える。

しかし、問題となるのは、仕事をすることで練習量が限られ、それが成績に影響してしまうことである。パラリンピックを目指す知人に話を聞いたことがあるが、関係者の中には「仕事と競技・練習の両立は難しいのではないか」と苦言を呈する人もいるようだ。まあ、それはそれで納得できないこともない。

ただ実際問題、パラリンピックなどの障害社スポーツに割り当てられている予算は、オリンピックに比べて少なく、合宿や遠征の費用は自己負担であることが多いと聞く。また、視覚障害のマラソンなど、走る競技には必ず伴走車が付くことになっており、合宿や遠征の際には彼らの分も選手が費用を負担しなければならない。

これらも含めて考えると、よっぽどの金持ちでない限り、仕事をしないで競技に専念することは、経済的に不可能だ。

でもジレンマ。ある程度バックアップがあって競技に専念できる選手がいないわけではなく、必然的にそういった選手の方が成績が良いらしい。仕事をしながら頑張っている人にとって、こんな不条理はないだろう。

話を、アスリートのセカンドキャリア形成に戻すと、以上のことから問題になるのは主に以下の2点である。

  • 仕事をしながら以下に競技種目で良い成績を収めるか
  • 仕事のキャリアも同時に積んでいくにはどうしたら良いか

いくつかのモデルケースがあると思うけれど、これらを最大化するのはなかなか難しい課題だ。

例えば、フルタイムで働いた後に練習を行うケース。仕事は頑張っていればそれなりにキャリア形成できるが、フルタイムの後の練習となると、練習時間を十分に確保することが難しい。もちろん急速も必要だから、そこらへんのバランス感覚が非常に重要だ。

別の例では、社会人野球みたいに、短時間労働して残りの稼働時間を練習に充てるスタイル。これだと余暇時間も含めて練習時間は確保しやすいが、短時間労働であるため、キャリアを積むという観点では不利。まあ、普通に働くことはできるだろうけど、競技人生の終了後にラインアップを考えている人にとっては微妙な選択かもしれない。

ここまでいろいろ書いてきたけれども、最後に、身もふたもない個人的な意見を書いて締めくくろうと思う。

ぶっちゃけ、本気で上を目指すなら、競技に専念すべきだ。もちろんセカンドキャリアについてあれこれ学習したり根回ししておくことは大切かもしれないけれど、素人が見ても、世界はそう甘くない。日本よりもよりよい環境で練習できている外国人も多い。そんな中で、競技に全力を注がないと、正直上は目指せないと思う。

中には「競技と仕事を両立しても上を目指せるっていうことを証明するんだ!」と意気込んでいる人もいる。でも、競技に専念している人にはどうしても勝てないということ。勝負の世界は「頑張りましたね、おめでとう」じゃない。勝ってなんぼ。結果が伴わないなら、やはり考え方を変えるべきでは無いだろうか。

まあ、そう、うまくはいかないのですが・・・。それを承知で申しております。すみません。

では、さようなら。

先日「マタニティ・ハラスメント」が問題になっているとテレビの報道で知った。電車内で差別的な言動を受けるケースもあるようで、根深い問題と言うことだ。

詳しいことは以下の記事に書かれている。

マタニティハラスメントの恐い実態 電車内でヒジ鉄を受ける例も

私はこういった差別的な言動に対して批判的な立場であるが、事はそう単純な問題ではないのかもしれないと、ふと思ったので、以下にその詳細を書く。

そもそもマタニティマークとは、上記の記事に依ると「妊婦の安全性と快適さの確保を目指し、厚生労働省が2006年から始めた取り組み」とのこと。妊娠初期など、見た目では妊娠していることが分かりにくい場合に付けるようだ。

この取り組み事態の是非はともかくとして、マークを付けるという行為は「シンボライズ(記号化)」である。シンボライズすることで、前述のように安全性確保の必要性を他者に伝えることができたりする一方で、差別的な言動の引き金にもなり得る。これが問題だ。

こういうことに敏感なのは、私が全盲で、外出するときは白杖を持っていることにより、常にシンボライズされた状態にあるからだと思う。白杖というシンボルがあるからこそ、周囲に自分が全盲であることを理解してもらったり、サポートが必要な存在であることを認識してもらえるのである。だが、同時に、それは周囲の人々に「自分とは違う存在である」ということを印象づけていることにも他ならない。だからといってシンボルを除去すれば、サポートが必要なことを分かってもらえない。ジレンマだ。

ところで、私が学生だった10年ぐらい前、とある授業で「プロップステーション」という障害者就労支援施設のドキュメンタリービデオを見たことがある。私はあまり詳しくないけれど、有名だそうなのでプロップステーションをご存じの方も多いかと思う。ちなみにWebサイトもあった。

社会福祉法人プロップ・ステーション

そのビデオの中で代表の人が次のような趣旨の発言をしていた。「障害者はシンボライズされていることで追加のハンディを負っている。そのシンボルを取り払うことで、障害者とか健常者といった区別を無くし、ノーマライゼーションを実現したい。」

申し訳ないが10年ぐらい前のことなので、ひょっとしたらうそを書いているかもしれない。その場合は教えてほしい。

で、私はこの意見について、前半部分には賛同できるが後半部分は少し違った考えである。確かに、先ほど私がシンボライズについて述べたように、シンボルを取り払って区別を無くすことは、障害者と健常者の双方が「同じなんだ」と思う切っ掛けになるかもしれない。でも同時に、本当は必要なサポートがあるのにそれを理解してもらえない危うさもある。私は、障害者と健常者が互いの違いを理解し合い、必要な支援を自然に行えるような社会を作ることが、ノーマライゼーションだと考えている。

そして、その「違いを理解する」ための手段としてシンボライズをするかどうかは、物理的な安全性などを除き、本人が自由に選択できるべきだ。まあ、視覚障害社は安全性の面でシンボライズが必須なので、それは大変残念なのだが・・・。

ただ、ここが難しいところなのだが、先ほどから何度も繰り返しているように、シンボライズには理解を促進するというメリットと、区別を促進するというデメリットがあり、このバランスがとても難しい。そして、そのバランスによっては、シンボライズした方が良さそうな当事者がシンボライズを拒否することによって、本人がいろいろ困ったことになる可能性もある。また、大人は経験的にシンボライズするかどうか判断できるかもしれないが、子供はシンボライズするかどうか判断が難しいと思うので、親が適切な判断をしないといけないという問題もある。

だんだん面倒になってきたのでそろそろ終わりにしようと思うのだが、抽象論として考えただけでも「シンボライズ」と「ノーマライゼーション」を以下にバランスさせるかはすごく難しい問題で、それは障害者についてもマタニティにとっても同じことなのではなかろうか。

あと、最後に一つだけ。

障害者もマタニティもだけど、「シンボライズしなければならないことが問題」と主張するのは簡単なことだが、そんな社会を変えていくのは、正直すごく難しいこと。だからといって何もしないのも問題なんだけど、とりあえず、世の中の皆さんには、是非想像力を磨いて頂いて、差別的な言動を受けたり、「違うもの」として扱われる人の気持ちを考えてみてほしいです。はい。

※結局「ノーマライゼーション」という言葉を題名に入れたけど、あんまり意味なかったかもしれん。

点訳受刑者

前回のエントリーで再犯率の低下について取り上げた。

その後、点字毎日の2015年3月8日号に「点字毎日データ化事業で贈呈」という記事を読んだ。「島根朝日社会復帰促進センター」という官民合同運営の刑務所で、受刑者が職業訓練として点訳作業をしているそうだ。点訳の大正は点字毎日の古い号(創刊号とか)で、紙媒体でしか残っていないものをデータ火するのが目的のようだ。

さて、「点訳死刑囚」の話は結構有名だと思うが、社会復帰の訓練として受刑者が点訳に携わってくれることは良いことだと思う。受刑者はそれぞれ、そこに至る間に様々な背景や過程を有していると思うけれど、本当は社会だったり周囲の人がほんの少し手をさしのべたら、別の路もあったかもしれない。そういう意味で、点訳は、データ化の目的を果たすと同時に、受刑者の方々に社会と繋がっているという実感を持ってもらえる事業なのかなという感想を持つ。

ただ、良い面ばかりに気を取られてはいけない。詳細は記事にも書いていなかったが、点訳作業はどういった形態で行われていたのだろうか。記事中では「職業訓練」となっていたけれど、刑務作業=点訳なのか、いくつかあるうちの一つの作業が点訳だったのか・・・。

何が言いたいかというと、出所後、点訳ができるようになっても、ほとんど仕事はないということだ。点訳で飯を食える仕事もない訳じゃないけど、全国的に数カ所に限られるし、めったに募集も出ない。にも関わらず点訳された本があるのはボランティアの人々の力あってのこと。点訳は社会貢献的な意味で意義深いことではあるが、はっきり言って飯の種にはならない。

ということで、有り難い一方、点訳を行った受刑者の方々は、他の受刑者と同じように、社会復帰後にきちんと仕事に就けそうな訓練を受けているんだろうかと、おせっかいな心配をしているのである。

と思って調べたら、どうやらきちんとした職業訓練をやっているらしい。刑務作業もあるようだが、簿記といった科目があるそうで、ほんとに職業訓練だ。確かに、ライン作業をやるよりもこういった知識を身につけた方が、社会復帰してからも役に立つことが多いかもしれない。

島根朝日社会復帰促進センター > 社会復帰に向けた取り組み

疑問は解決したところで・・・。余談。

前回のエントリーを書いてからしばらく「理解しあうこと」について考えていたのだけれど・・・。

障害社の場合、何らかの形でシンボライズされていれば、相手がそれをすぐに理解でき、支援を頼んだりコミュニケーションの配慮をしてもらったりすることは、比較的容易だ。

でも、前科がある人の場合、それってぶっちゃけ言わなきゃ言わないで特に影響もないし、進んで伝えるべきことでもない気はする。例えば会社に入るときも、人事担当の一部の人は前科があることを知っていたとしても、配属先の人にそれを伝えないかもしれないし、そもそも意図的に伝えるものでもない。しかしながら、発覚したときに抱かれる思いは、障害社のそれとは違い、かなりネガティブナ感情なんだと思う。

僕は、現状では、相手が前科有りだと分かったら全く平静でいられるか?と聞かれるとそういう自信は無い。でも、そこを色眼鏡で見るのではなくて、できれば、それまでに培ってきた人間関係をそのままに受け入れる努力はすべきだと思う。もっと直接的に言えば、仲良くしているんだったらそれはそれとして仲良しを続けるべきだし、特に親しいわけでも無くビジネスライクなつきあい方だったらそれを続ければいいと思う。

たぶん、前科を持っている方は、ある時点で良好な人間関係であっても、過去の行いがばれたときに関係が悪化したり崩壊してしまうことを恐れているのではないだろうか。こればかりは「心配しなくて大丈夫」と大きな声で言えないのが、今の社会のつらいところ。ここを、「頑張っているあなただったら前科があっても気にしないよ」と言える社会になることを望みます、私は。少なくとも自分はそう言える人間になりたい。

で、これはさらに余談なんだけど・・・。

これって、出会い系サイトとかで、普通の女の子とメール交換しているときに「いつ自分が全盲であることを暴露しようか」と考えたり、「全盲だって伝えたらメールこなくなるのかな」とビクビクするのと、実は似ているのかな・・・。

いや、これ、若いときは本気で悩みました。ある程度やりとりしてから暴露すると返信がこなくなったから、早い段階で暴露してみたらやっぱり返信こなくて・・・、ずっと隠しててだいぶ仲良くなって下ネタも話せるぐらいになって暴露しても、やっぱり返信こなくなって・・・。

結局俺は出会い系サイトでメールのやりとりするときは、ビクビクしてた。はい。なんかいやな気分になってきたから終了。

FMラジオのJ-Waveで放送されている「JAM THE WORLD」。最近聴くようになったんだけど、いい感じの番組で、楽しみにしている。一昨日の水曜日では、2020オリンピック・パラリンピックに向けて日本のバリアフリーについて考えていた。

本日3月6日の金曜日は、「どうやったら再犯率を下げられるか」という趣旨のテーマだった。実際に受刑された経験のある作家さんがゲスト出演されていて、大変興味深かったわけですが・・・。

帰宅して着替えたり食事しながら聴いていたので、すべてを正確に理解できたわけじゃないけれど、一度犯罪を犯してしまった人の問題は、出所後に社会復帰することが難しいということだそうだ。これは直感的に理解できることで、海外だと出所後の就職斡旋などが服役中に行われるケースもあるようで、そういった制度のある国では再犯率が低いということ。で、日本は「厳罰主義」で、出所後の就職についてはまだまだサポートが不十分だということだ。

で、お話を聴いていて思ったのは、出所した人にどうやって社会復帰してもらうかは、障害社雇用に本質が似ていることなのかな、思った。もちろん、自分が視覚障害なのでそういうのに重ねる傾向が強いのは否定できないけれど・・・。

感覚的にいって、正直、ある人に前科があると分かったら、それを受け入れるのは結構難しいと思う。それは、たぶん、罪の重さは関係無く、前科があるということが分かった時点でレッテルが貼られてしまうからだ。すると、レッテルを貼られてしまった人は「やっぱり社会で生きていくのはつらい」と感じて、再び罪を犯してしまうのではなかろうか。

これについて誤った認識があるかもしれない。だとしたら申し訳ない。ただ、「普通とは違うというレッテルを貼られてしまう」というのは、障害社も同じことなのではないだろうか。

仮に上記の考えが正しいとすると、解決のアプローチは「障害社と接するための方法」に結構近いのだと思う。それはどんな方法かというと、コミュニケーションを取ることだ。実際私は大学や会社で健常者と接するようになって、困ったこともあったけれど、健常者と接していくうちに、周囲に自分のことを理解してもらうこともできたし、自分が周囲を理解することもできた。同じように、前科がある方も、周囲とコミュニケーションを取っていくことで、「ごく普通の人」として社会に入っていけるのではないだろうか。

ただ、ここで一つ問題なのは、社会全体が偏見無しに前科のある方とコミュニケーションを取れるだけ成熟しているかどうか、ということだ。もっと言えば、一人一人が偏見を持たずに普通に接する意識を、今持っているかどうかということ。障害社の場合はそのハードルが比較的低いのだけれど、実はここがなかなか難しいところなんじゃないかなと思う。

ある人が一度犯罪に手を染めてしまったとしても、そこには様々な背景だったり生活環境だったり、人間の人生がある。一度はそうした行為に及んでしまったとしても、真面目に罪を償い、新しい出発をしようと考えて出所してくる方も、きっと大勢いるはず。でも、何らかの理由でそのことが周囲に伝わってしまったら、それを受け入れられる人って少ないんじゃないかなというのが私の印象。そういう私も、受け入れられるかどうか自信はない。

でも、最初は受け入れがたくても、ご本人と周囲が歩み寄っていけるような切っ掛けとか、想像することで互いの考えを理解しあえるような社会を、これから作っていく必要があるんだと思う。障害社も、いろいろな偏見を持たれて邪魔者扱いされた時代はあったと思うが、今は多くの障害社が社会参加している。罪を犯してしまった人たちにも、同じように社会参加の機会を作っていける世の中であって欲しいと、私は願っている。

もちろん、自分もそういう意識で行動したいと思う。

最後に、ブログではなんだか支離滅裂っぽい文章になってしまったけれど、ギューっと詰め込んだ思いが番組に届いたようで良かったです。有り難うございました。

私はナビゲーターの堀さんのファンなのだけれども、「まずは理念を掲げるのが大事」とおっしゃっていたのは、全くその通りだと思います。

ちなみに、僕はこうして一人一人の意識が大事だと思うのだけれど、再犯率が上がると社会的なコスト(裁判とか服役中の費用)も上がるので、再犯率を下げるのは社会にとって必要なことなのだということも、話題に上っていました。そういう観点も大事だよね。

以上、駄文失礼しました。

11月1日は「点字制定記念日」である。一応、Googleの検索結果に「今日は点字制定記念日です」的な表示が出た年もあった。基本的に俺は毎年忘れていて、何かの時にだれかがそういう話をしてやっと思い出すのだが、今年は、今後の点字についていろいろ思うところがあるので、記念日に寄せて批判的な論調を展開しようと思う。

まず、大前提として、点字は、視覚障害者の教育や文化に、大変に大きな役割を果たしており、点字に関わってきたすべての人々に感謝したいと思う。点字を発案したルイ・ブライユ、日本語点字の基礎を気づいた石川倉次。これらの二人は有名人だけれども、僕が知らない多くの人が点字に関わり、点字で教育を受け、点字による文化を享受してきた。個人的には、視覚障害者の市民権と点字の市民権は切っても切れない関係だと思う。

点字で初等教育と高等教育を受けた私にとって、点字が無ければ今の知識・技術は身につかなかったといってもかごんではない。近年は中途失明者が音声(daisy)で学習を行うケースが増えていると思うが、点字を使いこなせるのであれば、点字を使った学習の方が定着も高いことだろう。そのような理由から、今後も「点字」を存続させていく必要はある。

さて、ここからが本題。

点字を存続させると言っても、視覚障害者を取り巻く環境の変化に伴い、どのように存続させていくかは検討の余地がある。

具体的には、点字のあれこれを決める組織が、もっと柔軟で、かつ、世の中の流れに即した形で議論を進め、これからの世代がもっと点字を活用しやすくなるインフラを整えていくことが必要なのではないだろうか。

次のことは聞いた話である。その、日本の点字のあれこれを取り仕切る組織というのは「日本点字委員会」というところで、点字の書き方などについて喧々がくがくの議論をいつもやっているそうだ。しかも点字大好きな老人たちが。もちろん、一貫性というか統一性を担保することは大切なので、基準を作ることは賛成なのだが、議論の対象が「ます開けをどこにするか」といった、割とどうでもいい議論でめちゃくちゃ長く喧嘩するということらしい。

点字は、おおざっぱに言って、仮名のみで構成されるために、小学校低学年の国語の教科書のように、一定のルールで分かち書きされている。その分かち書きの方法は、国語の文法を元にした小難しいルールになっていて、覚えるのはなかなか大変なのである。だから、生粋の点字ユーザーであっても、正しい点字を書ける人は希だろう。そんな状態だというのに、これ以上分かち書きのルールを増やすことに意味があるとは思えない。むしろ、そんな議論をするよりも、きちんとした点字を浸透させるための議論をした方が良い。

というのも、点字の分かち書きのルールは、過去数回にわたって大幅な改訂があったにも関わらず、昔から発行されている点字新聞とか点字雑誌は、古いままの書き方で編集されている場合が多いのだ。なんで、マスメディア(と言っていいかどうか分からないけど)のそうした動きを批判せず、どうでもいいルール作りの議論をしているのか、私には理解できない。

もちろん、聞いた話なので、事実とは異なるかもしれないし、それだけをやっているわけではないと思う。そうだとしたら、逆に現実を私に教えてください。

広い視野で考えれば、これからの点字というのは、IT技術と密接に関わる形での存続が、おそらく一番可能性の高いことだ。パソコンの画面読み上げソフトが点字ディスプレイに点字を出力したり、点字データを音声や点字ディスプレイで読んだり・・・といった利用のされ方が、すでに一般的になっている。もともと紙の点字の本はかさばることもあって、教育現場と新聞・雑誌以外は、ほとんど点字もデータ化されることが多くなったのではなかろうか。

それに、事務職で働く視覚障害者が増えていることで、学校卒業後に点字を必要としない人も増えている。そのような人たちの中には、点字と墨字の表現のギャップに苦しんでいる人もいることだろう。

分かち書きのルールよりも、そうした社会の変化に対応する点字の有り様を議論していくのが、これからは重要ではないだろうか。

だから、点字のあれこれを取り仕切る組織には、もっとテクノロジーに関わる人々とコネクションを持ってもらい、新しい点字の文化を創造してほしいと願っている。

まあ、全体的な話はこんな感じなんだけど、実は、個別の事案についてはもっと具体的に提案したいことがあったりする。それは、また今度にしよう。そろそろお酒を飲む時間なので・・・。

こちらは久しぶりの更新となりますが・・・。

ひとまず、就職が決まったのでご報告します。ええ。11月から働きます。

思えば、2008年に大学院を辞めて、今年は2社も会社を辞めて・・・。振り返ると「自分には学習能力が欠如している」ということを身にしみて感じるのであるが、そうであっても、肝心なところでは運に恵まれている境遇だなあとしみじみ感じるわけである。こういうことは、この先ないだろうと思うので、まあ、正論はいろいろあると思うけれど、とりあえず、頑張っていきたいと、そう思います。

さて、Twitterでも一瞬言及したのだけれど、以下の記事を読んでいろいろ思うところがあったので、メモ程度に書いておこうと思う。

「同じ会社で定年まで勤め上げる」ことは、ただの自己満足です

これは、タイトルから想像できるように、「定年まで同じ会社で働く」ことについて批判的な論調を展開している記事えある。あまり正確で無い要約をすると、「同じところにいると価値観も固定されて何も変革できないし、新しい出会いもないから、いろいろな会社で働いた方がいい」ということのようだ。

私自身は、この意見に賛成である。同じ組織に所属して同じ空気ばかり吸っていると、考え方も保守的になるし、おそらく外界の動きにも疎くなってしまう。何より、記事の中でも触れられているように、リストラなど、意図せず会社を辞めなければならなくなったときに、食っていく手段を身につけられない。そうなったときに、「自分の何を売り込んで仕事を探せばいいのか」ということについて、考えすぎて眠れない日々を送ることになるだろう。

しかしながら、一般的には正しい意見だと思うのだが、障害者については、ちょっと当てはめるのはつらいかなあという印象である。

「障害者が働く」ということに関して、いつかこのブログでも書いた気がするけど、まずは「就職すること」がゴールになっているという現状がある。実はスタートラインに立つことなんだけど、すでにゴールなのだ。

その状況は、全体的にはここ数年で改善してきているようではあるが、障害別、及び、障害等級別で比べると、おそらく微妙だろう。端的に言えば、軽度障害者の就労は着実に進んでいるが、重度障害者の就労は水準を維持または悪化していると考えられる。これは統計的な資料に基づく意見ではなく、私がネット上の情報を読んだり、実際に就職活動してみて抱いた推測であることに注意して頂きたい。

事実はどうか知らないが、「私の推測は正しいだろう」という前提でこれからは書くことにする。また、本記事中、特に断らない限り、以降は「重度障害者」をさして「障害者」と呼ぶことにする。

さて、ここで検討したいのは、「障害者にとって次のどちらが良いのか」、ということである。

  1. 同じ会社で働き続ける
  2. 理由はなんでもいいが、転職や転社に積極的にチャレンジして自分を磨く

まあ、先に結論を言ってしまうと、どっちが良いのか分からないし、人それぞれ向き不向きがあるので、なんとも言えない。だけれども、考えるのである。無駄に考えることこそがこのブログの趣旨なので、考え得るすべてのことを(と言っても、酔っ払った私から引き出せることなど大したものでもないが)、無理矢理考えてみたいと思う。

まず1番目の「同じ会社で働き続ける」ということ。リンクした記事でこてんぱんにやられていたので、デメリットについての考察は控えるが、じゃあ「メリットって何?」という話である。

第1に、経済的には安定する、ということが考えられる。ただし、これは必ずしも正しくはないけれど、障害者を雇用することに取り組んでいる企業は、結構体力があるので、ほとんど正しいと思われる。というか、ある程度体力があって、コンプライアンスの締め付けがきついという事情がなければ、なかなか障害者雇用をやっている余裕は無いんじゃないだろうか。

第2に、障害者の社員は自分のペースで仕事がやりやすくなる可能性がある。人事担当者とか管理職の人には申し訳ありませんが、その会社で、ある障害種別の人を初めて受け入れたような場合、ほとんどのことはその「初めての障害者の人」が基準になるので、まあ、障害者からすると、いろいろごまかせる。すいません。ごめんなさい。

第3に、これはちょっとどうかな?と思うけれど・・・。順応してしまえば、いやな思いをすることが減るかもしれない。長いこと同じところにいれば、良い意味でも悪い意味でも周囲は障害者への理解が深まるはずだ(環境にもよるけど)。で、個人差はあれど、障害者自身も、生き抜く術を身につけてうまく立ち回ることができているはずだ。そういう前提が無いと、長く同じところで働くことは、たぶん難しいと思う。だから、これをメリットと言っていいのかどうか分からないけれども、そういうことである。ここらへんは、障害というよりは、単純に人として溶け込めるかという話なので、あまり障害の有無は関係ないかもしれないが・・・。

あと、なんというか、こういうことを書くと、私が怒られたり、あるいはショックで寝込んでしまう人がいるかもしれないので、この先を読むことについては慎重になって頂きたいのだが・・・。

企業が重度障害者を雇用する理由は、おそらく次の二つに大別されると思う。一つは「障害者の雇用数のカウントが大きい」ということ。もう一つは「結構マジで障害者を活用しようと思っている」ということ。もちろん、これは私個人の勝手な思い込みだし、こういう問題は白黒付けられるものではなく、むしろファジィであるから、このような二元論では片付かない。けれど、あえて書いている。

どちらの理由にしても、重度障害者を雇用することは、はっきり言ってリスクである。ぜったい怒られると思うけど、あえて書くけど、「動くかどうか分からない車を買わされる」のと、あんまり状況は変わらないんじゃないか?いろいろなところで障害者雇用について「障害の程度は千差万別なので、一人一人に合った配慮をうんぬんかんぬん・・・・」という説得がされるようだけれども、経営側からすれば、ROIが計算できないんだからそんなもんリスク以外の何物でも無い。

しかしながら、そこでリスクを取るということは、さっきのように、雇用率を引き上げるのに使えると思っているか、人事担当者が熱い思いを持っているかのどっちかなんだと思う(思い込み)。

で、これは実感であるけれども・・・。視覚障害者である私が就職活動していて、きちんと話を聞いてくれた企業というのは、ぶっちゃけ、ほとんどなかった。一応、それなりに名の知れた会社でそれなりの期間働いていたのに、である(まあ、そういった点は実力主義の世界ではどうでもいい話)。未だに「視覚障害者はお断り」という企業さえ有った(もちろん、文句はたれておいたが)。

私の場合、結果的には2社ほど良いお話を頂くことはできたものの、エントリーした会社は、合計すると30社以上。まあ、これでも少ない方だわね。余談だけれど、この数字、10年前の視覚障害者の就職事情を加味してもちょっと少ないと思うが、今では健常者の人たちも30社とか50社とか100社とか応募してもだめなことが多いというのは・・・。悲しい世の中だ。

そういうことも考慮すると、個人的な感情としては、今回拾ってくださった会社や職場の担当者の方々には、大変お世話になり、そして、感謝をしておりまして、もう、なんというか、個人的には、「骨を埋めるつもりで働かないといかんなあ」という気持ちであります。すいません、ごめんなさい。最初の就職のときは、こういうリスクとか、そういうのは、あんまり頭にありませんでした。これからは一生懸命頑張りますから、ごめんなさい、ああああああああああ!

おっと、なんか話が逸れてきた。まずい徴候だ。Next please.

話は元に戻って・・・。

今検討していることの二つ目、「理由はなんでもいいが、転職や転社に積極的にチャレンジして自分を磨く」ということはどうか。メリットについてはリンクした記事に書いてあるので省略。

で、デメリットなんだけれども、おおざっぱに言えば、「健常者に関する一般論を障害者に適用するのは危険」ではないかと思う。すべてがだめだということではなく、「前提条件とか現状に相違点があるから注意が必要」という意味である。

具体的には、まず、そもそも障害者が置かれている状況として、「実力や努力や意欲に適合する受け入れ先が少ない」ということが言えるのではないか。これはマッチングとは少し違って、歴史的なたとえで言えば「女性の普通教育」みたいなものだ。要するに、門戸が開かれていない。そういうと大げさかもしれないが、私なりの考察を付け加えて言い換えれば、「一般的な中途採用者に対する期待値に比べて、障害者を中途採用する場合の期待値は、どうしても下げざるをえず、結局受け入れる環境を整える方向に力が働かない」ということだ。

また、こういうことを書くと怒られるだろうし、ショックを受ける人もいるかもしれないので、読者の皆さんは慎重になって頂きたいのだが・・・。

一度でも障害者採用をやったことがあれば経験的に分かると思うけど、障害者の育成は大変難しい。育てる側に経験が無いというのもあるし、当事者にとっても、障害の内容によっては成長が難しい部分もある。例えば、全盲にUMLで設計書を書けと言っても無理だし、全盲に紙の伝票を仕分けしろと言っても無駄だ。それで、そういうことを経験的に学習した企業は、障害者採用に慎重になる。リスクを軽減させるために、より軽度の障害者を雇って、自分たちの管理がしやすい方向へ方針を切り替えることも想像に難くない。

これが、新卒だったら、会社で育てていく覚悟を、ある程度は持てるかもしれないが、中途採用の場合は即戦力として会社の利益向上に直接的に貢献することが求められるわけである。すると、中途での障害者採用を見送ったり、あるいは軽度の障害者をルーチンワークをやらせる目的で雇ったりする感じになるのは、まあ、会社の立場からは理解できる。

こんな感じで、障害者がキャリアチェンジする場合は、たぶん裾野が狭まっているんじゃないかと思っている。まあ、妄想かもしれません。

それから、障害者の立場から考えても、デメリットがあることに触れておきたい。

それは、環境に適応するためのコストが大きいということである。先に述べたことと重複するかもしれないが、何にしても、職場に配属されたときに、高い水準で周囲の理解が得られるケースは少ないと思う。簡単に言えば「慣れるのに時間がかかる」のだ。

それこそ「障害は千差万別」というのが、あながち嘘でもないような感じである。障害の有無以前に皆人間なんだから、障害に対する配慮についていろいろ意見が異なったりすると思うが、障害者はそういうことをいちいち職場の人に説明しなきゃならないし、説明したところで理解が得られる確証はない。さらに、建物の設備や支援機器の導入が新規に必要な場合、それをどの程度受け入れてくれるかは会社の考え次第。仕事の内容や待遇ばかりに目がいって、そういった環境面で失敗するリスクも、当事者は考慮すべきだ。

ああ。安酒を飲んでいたら、だんだん胃が痛くなってきた。

そういうわけで、ほら、言ったでしょ。どっちとも言えないのです。なんか、この文章の流れだと、「同じところで働くのが良い」という結論になりそうだけど、それは俺が今そういう考えだからであって、実際は人それぞれ、いろいろあるんだよ。きっとね。

だから、もう一度言います。ごめんなさい。ほんと、すいません。これからは真面目に働きます。疲れない程度に。作業の進め方については手を抜きますが、成果物の品質については妥協せず頑張ります。

なんか、「結局この文章はなんだったんだ?」と、小一時間問い詰めたくなるような感じではあるけれども・・・。もう酔っ払ってきて、どういう風に収束させたらいいんだか分からなくなってきましたから、もう終わりにするわ。すいません。真剣に読んでいた人ごめんなさい。僕はこういう無責任な人間なんだ。教育実習の担当だった先生に「今、私、夫と家庭内別居状態なの」とか言われても、今の俺ならもう動じない。昔の俺は腰が抜けました。ごめんなさい。

こんなの、載せていいのかしら。まぁいいか。一応匿名だし。現代では、そう思っていても、割と簡単に個人が特定されちゃうから怖いもんだ。まぁ別にいいけど。さらしたりしないでね♪

線と点

私は、人生って「線」だと思うのだ。いや、まぁ、哲学的な議論を始めれば、『人生は平面だ』とか『人生はcubeだ』とか、変な方向に走ってしまうんだけど、大まかに言って『人生は「線」』だと思う。(細かいけど、『』っと「」の使い方は意図的に間違えています)

人生に限らず、例えば[歴史]であったり、例えば[ビジネス]であったり、例えば[学問]であったり・・・。これらは、その瞬間、その瞬間は「点」であるかもしれないが、「史実や知識や経験の連なり」である。そのように考えれば、イメージ的にこれらも「線」だと考えて差し支えないだろう(集合・・・とかそういうことは言わないように)。

で、ここで仕事の話になる。私は前月まで勤めていた会社でいろいろ勉強したけど、根本的な概念としてこの「線」ということがあった。だれかがそういったわけではないが、会社で業務を遂行するために運用されている制度や手順は、~外圧もあるにせよ~過去の経験や実績を積み重ねたものの延長上にある。外圧にしても、突然湧いてきたのではなくて、それまでに何らかの経緯があって湧いてくるのであって、その時系列的な経緯をたどれば、それは「線」のイメージになる(例:Internal Controlとか)。

ところが、ここで『個人のストレス』について思いを巡らせると、必ずしも「線」であることが良いわけではなくて、「点」にしておいた方がいいこともある。っていうか、「点」にしておいて、とっとと頭の中から捨て去ってしまう方が、精神衛生上よろしいことの方が、たぶん多い。[座禅]のように、仏教的な思想はそのような考えのようだ。

でだ。問題は、今の私は、仕事で「点」を要求されているということである。この際、こういう微妙な話題になると、抽象的な思いを書くのにとどまり、第3社は何の事だかさっぱり分からなくなってしまう、ということは置いておいて、とにかく、「点」で考えることを要求されているように思えてならなくて、戸惑って、すごく迷っている。

今の仕事、私に言わせれば『その場しのぎのやり方』で、今までの仕事の進め方と相反しているがために、本当にこれでよいのか、と自問自答する毎日なのだ。

これは決して悪いことではないのかもしれない。生活のために働く、と割り切っている人にとっては、単純作業の繰り返しで良いかもしれない。でも、ゴールが見えない、というか無いので、ゴールを与えられるばかりの仕事をしてきた人間にとっては、つらい瞬間もある。いや、まあ、ゴールというかノルマというか、そういうのがあると、それはそれでプレッシャーだし、嫌なんだけれども、同じぐらい『ゴールが無いこと』も、結局は嫌。そうなると、すべてのことが嫌になってしまうんだけど、それは『ないものねだり』なのである。

だんだん支離滅裂になってきたのだけど、なんというか・・・。僕、どうしたらいいんだろう?

そうそう、さっき、前職を辞めてからの記事をなんとなく読み返していたんだけど、割と後悔し始めたのは早かったんだね。そうだね、遊休消化してるころから、若干迷ってた。転職の1日前には、前職を辞めたことを後悔している節もあった。そして、ここで暴露しますけど、ぶっちゃけですね、『前職の方が良かった』と、転職後、思ってしまった。

そりゃ、前職は前職で嫌だと思っていたことはたくさんあったけど、ね、こんなこと今更言ったってしょうがないんだけど、現職に比べれば前職はドライで良かった。職場の人たちは優しいにも関わらず適度に放置プレーだったし、業務内容も、まぁ、趣味とごっちゃになるぐらいには好きだったし理解はしていた。

今の職場はというと、それはもう、『ラーメン大』の醤油豚骨スープ並に濃厚な人間関係で、活版印刷並の職人芸が必要とされるもので、つまりそれは究極のルーティンワークで・・・。なんか、俺はそういう仕事じゃなくて、もっと、基盤づくりに携われるという話を聞いたつもりだったんだけど・・・。僕の勘違いだったんだろうか?

そういうわけで、ぶっちゃけ、今の方が前より疲れる。今は、仕事が終わるともうだれとも会話する気が起きない。前は、業後はもう少しものを考えたりするぐらいの気力はあったと思うのだが・・・。

ということで、『飲みを断ったくせにブログ更新しやがって』とか思っている皆様方におかれましては、誠に申し訳なく思っておりますが、少し、人と距離を置きたいというか、いや、そういう意味ではなく、文字コミュニケーションはOKなんですけど、その、face to faceな感じがあれなので、もう少し落ち着いたら、また声かけます。

最後に。家入さんという、この前都知事選に立候補したけど落選してしまった人がいるのだけど、その人の言葉。「死にたくなったら全力で逃げろ。」。文言がちょっと違うかもしれないんだけど、心にひびく。頑張らなくても、いいかな?

「盲人でもサバゲーをやりたい!」

ということを思っているのは俺だけかもしれないが、全国の戦争大好き盲人のために、いろいろとサバゲーができないかどうか考えてみた。

まず、フィールドで必要とされるアクションとしては、移動・索敵・戦闘・フラグを取る、ぐらいだろうか。いずれにしても、動きとか敵味方識別とか、そもそもオブジェクトをどうやって識別するかが問題になる気がする。

では、はじめに「移動」について考えてみよう。移動において最も重要な二つの項目は、移動方向を認識することと、そして、現在地を認識することである。自分がどちらの方角へ向かっているかということは、敵陣地へ向かっているのか、自分の陣地をうろうろしているだけなのかを知る上で重要である。また、フィールド全体の中で自分がどの位置にいるかを認識できなければ、どのように移動するかを決定することもできない。

これらを解決する方法を考えないといけないが、とりあえず、現在地の認識は難しいかも。少なくとも、GPSのような機器では、本当の戦争ならまだしも、サバゲーには使えない。それほど精度の高い衛星は、軍用にしか使えないと思う。ひょっとしたら、特定の地域において座標を決定できるようなシステムはあるかもしれないけど、どっちにしても、そういう設備をサバゲーのフィールドに増設してもらわないといけない。

ただ、移動方向は把握できるし、障害物を探知することも、たぶんできる。方角は普通にコンパスを使えば良い。音声で読み上げるコンパスもあるし、針を触って確認できる方位磁針もあったはずである。障害物の探知は、パームソナーとか使えば、まぁ、目の前のものぐらいは分かる。足下は、分からないかもしれないから、白杖を突きながら移動しないといけないかもしれないけど・・・。なんか、それはそれでシュールかも。

次に考えないといけないのは「索敵」である。白杖突きながら移動するとしたなら、索敵よりもカモフラージュの方法を真剣に検討すべきだとは思うが、とりあえず、索敵も必要だ。これも、パームソナーが活躍するかもしれないが、オブジェクトが敵なのか、味方なのか、それ以外なのかを識別することはできない。まぁ、IFF的な機能はいらないとしても、人間が植物かぐらいは判別できる方法がないといけないけど・・・。まぁ、それはもう、発砲して確かめるぐらいしか思いつかない。でも、仮にオブジェクトが植物だったら、発砲すると逆に気づかれる可能性があるので、難しいところだ。

最後に「戦闘」。これも難しい。だいたい、索敵できたとしても、どうやって盲人は照準を合わせるんだろうか?いや、なんとなく敵がいそうな方向に銃を向けて発砲することはできる。だが、レーザーサイトとかで照準を確認できるわけではないし、ましてやスコープも見れない。するとどういうことが起きるかというと、腕は敵の方向に向いているけれど、手首の位置がおかしくて銃口は敵と違う方向に向いてしまったりする。そして、それすら認識できない可能性がある。

もちろん、どうやって照準するかという本質的な問題もある。よっぽど敏感な人でない限り、音か何かで知らせてくれる照準機がないと、敵を発見すらできないだろう。これは索敵の問題とも関連する。そして、もっと問題なのは、弾の軌跡が分からないので、弾着修正ができないことだ。敵がいると信じた方向に打つか、あるいは、そこにはいないと疑って感で照準し直すしかない。

他にもいろいろ問題はあるけれど、この辺がクリアできれば、形だけでもなんとかサバゲーができると思う。盲人も。

だれか、やりたい人は一緒に考えましょう。

ツイートもしたけど、最近次の記事がヒットだったので、私なりの見解も残しておくことにする。ちなみにこの記事を評価しているわけではなく、この記事が考えるきっかけになったので、とりとめもなく考えたことを残しておく、という感じである。

「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人について | 熊代亨

私なりの結論は、「自分が決めたことは、少なくともその時点で、自分にとって正しいことと信じるべきだ」。

取り上げた記事にもあるように、時代によって正しさや価値観は変化する。これは揺るがない真実だと思う。問題は、時代にそぐわない価値観を「正しいこと」と信じたまま行動してしまうことだ。

私は子供のころ、親から「公務員になれ、給料も高くて安定してるから」と言われ続け、小学生ぐらいまでは本気でその路に進む気でいた。

ところが、親の価値観は、親が若かったころは正しかったかもしれないが、2013年の今はそうでもない。「無駄を削る」という理由で給料も定員も減らされる一方だ。「安定している」というのも然り、ロボットのように働けば確かに首にはならないだろうが、それで人生楽しいのだろうか?だから、「公務員になる」というのは、今の世の中正しいことかどうか分からない。

別の例として、「障害者は、障害を克服するために努力するものだ」という価値観も、少なからずあるのではないだろうか。これは、障害当事者にも、周囲の健常者にもだ。

昔、障害者は邪魔な存在だった。それが施しを受ける存在になり、今は「共生」するものという価値観に、大きな流れとしては変化している。もちろんそう思ってない人もいるだろうが。その中で、「頑張る障害者」が生まれ、頑張ることを美化するのが大好きな日本人は、それを正しい価値観として受け入れた、ということと、私は思っている。外国でもそうかもしれないが・・・。

ただ、障害者だって「怠けたいとき」もあるし、「小さな親切、大きなお世話」と思うこともある。もちろん、24時間頑張り続けたいと思っている人もいる。けれど、頑張っている人の中には、世の中が押しつけた価値観に縛られている人が少なくないような気がする。自分が頑張りたくなければ、頑張らなくてもいいのに・・・。

ちなみに予断だが、「障害者は施しを受ける存在」というのを痛感したのは、点字図書館で『方法序説』の点字本を借りたときである。その本のはじめに、「不幸にも盲人になってしまったお前らに、国がこの本を恵んでやる」みたいなことが、もっと丁寧な言葉で書いてあった。

さて。

冒頭でリンクを貼った記事では、最後の方でこう書かれている。

案外たくさんの人が、自分自身にインストールされた「正しさ」にそぐわない自分自身に葛藤を抱えている。東京のような、自由度の高い街、思い通りに自己決定できそうな外観を呈した空間では尚更だろう。
少なからぬ個人が「こんなに頑張った私に、正しかったって声をかけてよ」と思っているんじゃないだろうか。なぐさめの言葉を待っているのではないだろうか。ワンルームマンションのベッドの上で。人気の無くなったリビングルームで。
かくあるべし、かくあるべし、かくあるべし、という内なる声に疲れた人達が求めているのは「あなたの正しさは間違っています」ではないようにみえる。「あなたの認知は理不尽です」でもないようにみえる。「あなたはよく頑張った、だからもういいんだよ」ではないか。自分自身の正しさに対する赦しの言葉ではないか。
(※スクリーンリーダーでの読みやすさを考慮して、改行を挿入しています)

これに私は付け加えたい。「自分に形成されている正しさが間違っているかもしれない」と気づいても、周囲を気にして価値観を修正できず苦しんでいる人もいるに違いない。そんな人たちは「思いが変わってもぶれないもの」を探し続けていることだろう。「よく頑張った」と同時に「もう、止めていいんだよ」と言って欲しいのではないか?

だが、社会はそんなに甘くない。なんだかんだ言って人は利己的だ。すべてを他人のためにささげられる人など皆無だろう。当然、周囲の人間が、本人にとって悪いことでなければ、そうした言葉を掛けてくれる可能性はあるが、直接的に利害がなければ掛けないかもしれないし、反対によく考えているからこそ声を掛けないことだってありうる。

ただ、これは別の言い方をすると、周囲の関心はその程度ということ。逆にそう割り切ってしまえば、案外、苦しみの半分ぐらいは捨て去ることができるかもしれない。

まぁ、そう考えられたら理想的なのだが、そうはならないのが世の常。残念だ。

しかし、「無理だ」とあきらめて、ただ流されて生きたり、理不尽を我慢して生きたり、疑問を抱えたまま生きるのも、あまり気分が良くない。

そこで私は冒頭の結論に達したわけである。この結論の前提は、「正しさを自分で獲得したものと自覚する」ことであるが、これを自覚するプロセスは結構楽しい。そして、前へ踏み出すきっかけぐらいにはなると思う。

もし、今の自分に活路を見いだせない人がいたら、「自分の価値観の変更履歴」を列挙してみると良いかもしれない。それらがポジティブに捕らえられれば、まだ勝機はある。

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プロフィール

結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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