2015年3月の記事一覧

先日「マタニティ・ハラスメント」が問題になっているとテレビの報道で知った。電車内で差別的な言動を受けるケースもあるようで、根深い問題と言うことだ。

詳しいことは以下の記事に書かれている。

マタニティハラスメントの恐い実態 電車内でヒジ鉄を受ける例も

私はこういった差別的な言動に対して批判的な立場であるが、事はそう単純な問題ではないのかもしれないと、ふと思ったので、以下にその詳細を書く。

そもそもマタニティマークとは、上記の記事に依ると「妊婦の安全性と快適さの確保を目指し、厚生労働省が2006年から始めた取り組み」とのこと。妊娠初期など、見た目では妊娠していることが分かりにくい場合に付けるようだ。

この取り組み事態の是非はともかくとして、マークを付けるという行為は「シンボライズ(記号化)」である。シンボライズすることで、前述のように安全性確保の必要性を他者に伝えることができたりする一方で、差別的な言動の引き金にもなり得る。これが問題だ。

こういうことに敏感なのは、私が全盲で、外出するときは白杖を持っていることにより、常にシンボライズされた状態にあるからだと思う。白杖というシンボルがあるからこそ、周囲に自分が全盲であることを理解してもらったり、サポートが必要な存在であることを認識してもらえるのである。だが、同時に、それは周囲の人々に「自分とは違う存在である」ということを印象づけていることにも他ならない。だからといってシンボルを除去すれば、サポートが必要なことを分かってもらえない。ジレンマだ。

ところで、私が学生だった10年ぐらい前、とある授業で「プロップステーション」という障害者就労支援施設のドキュメンタリービデオを見たことがある。私はあまり詳しくないけれど、有名だそうなのでプロップステーションをご存じの方も多いかと思う。ちなみにWebサイトもあった。

社会福祉法人プロップ・ステーション

そのビデオの中で代表の人が次のような趣旨の発言をしていた。「障害者はシンボライズされていることで追加のハンディを負っている。そのシンボルを取り払うことで、障害者とか健常者といった区別を無くし、ノーマライゼーションを実現したい。」

申し訳ないが10年ぐらい前のことなので、ひょっとしたらうそを書いているかもしれない。その場合は教えてほしい。

で、私はこの意見について、前半部分には賛同できるが後半部分は少し違った考えである。確かに、先ほど私がシンボライズについて述べたように、シンボルを取り払って区別を無くすことは、障害者と健常者の双方が「同じなんだ」と思う切っ掛けになるかもしれない。でも同時に、本当は必要なサポートがあるのにそれを理解してもらえない危うさもある。私は、障害者と健常者が互いの違いを理解し合い、必要な支援を自然に行えるような社会を作ることが、ノーマライゼーションだと考えている。

そして、その「違いを理解する」ための手段としてシンボライズをするかどうかは、物理的な安全性などを除き、本人が自由に選択できるべきだ。まあ、視覚障害社は安全性の面でシンボライズが必須なので、それは大変残念なのだが・・・。

ただ、ここが難しいところなのだが、先ほどから何度も繰り返しているように、シンボライズには理解を促進するというメリットと、区別を促進するというデメリットがあり、このバランスがとても難しい。そして、そのバランスによっては、シンボライズした方が良さそうな当事者がシンボライズを拒否することによって、本人がいろいろ困ったことになる可能性もある。また、大人は経験的にシンボライズするかどうか判断できるかもしれないが、子供はシンボライズするかどうか判断が難しいと思うので、親が適切な判断をしないといけないという問題もある。

だんだん面倒になってきたのでそろそろ終わりにしようと思うのだが、抽象論として考えただけでも「シンボライズ」と「ノーマライゼーション」を以下にバランスさせるかはすごく難しい問題で、それは障害者についてもマタニティにとっても同じことなのではなかろうか。

あと、最後に一つだけ。

障害者もマタニティもだけど、「シンボライズしなければならないことが問題」と主張するのは簡単なことだが、そんな社会を変えていくのは、正直すごく難しいこと。だからといって何もしないのも問題なんだけど、とりあえず、世の中の皆さんには、是非想像力を磨いて頂いて、差別的な言動を受けたり、「違うもの」として扱われる人の気持ちを考えてみてほしいです。はい。

※結局「ノーマライゼーション」という言葉を題名に入れたけど、あんまり意味なかったかもしれん。

はじめに。

【警告】このブログを読んでくれている人の中に盲導犬ユーザーもいるかと思うけれど、それでも、あえて不快になるような表現を使うかもしれません。なので、耐えられないと判断した場合は即刻このブログを読むことを辞めた方がいいと思います。【警告終わり】

今日(2015年3月17日)の「国際報道」(22:00からNHK BS1)で、マレーシアで唯一の盲導犬について特集をしていた。

マレーシアには現在盲導犬は1頭しかおらず、その盲導犬も去年から仕事を始めたばかりとのこと。人工の6割がイスラームであるマレーシアでは、宗教上の理由で犬があまり良く思われていないようで、ショッピングセンターでこばまれる映像も映っていた。いやまあ俺は全盲なので映像は見えませんがそういうアナウンスだったんで・・・。

で、ここからが本題なんだけど・・・。

正直な感想としては「この人苦労するだろうなあ」ということ。この人というのは、マレーシアで初めてガイドドッグのユーザーになった人だ。裏を返せばマレーシアの4割は他の宗教なので、人によってはガイドドッグの有用性を認めてくれる人もいると思う。でも、マジョリティの力は思った以上に強いもので、その中で、ガイドドッグを認めてもらおうとか、一緒に暮らすというのは・・・、簡単な話じゃないと思った。

そういう意味では、日本ではガイドドッッグって当たり前で、むしろ「眼が見えない=盲導犬」みたいな印象もあるようだけれど、そう見えるこの社会も、ガイドドッグに対する無理解、嫌悪、過剰な幻想など様々。法制度的にも社会的にも一定程度認知されている日本でも、まだまだ、そう、ほんとにまだまだ行き届いていない部分はたくさんあるのに・・・。

宗教という、なんというか、あまり合理的で無いレベルの話を持ってこられると、ガイドドッグは結構厳しいなあ・・・。

それが、テレビを見た率直な感想。

まあ、本題からは逸れるけど、今の日本社会は過剰に盲導犬を美化しているとも思うし、逆にある部分では全く理解されていないとも思う。この現状を変えるのはなかなか骨が折れそうだけど、これからガイドドッグを広めていくマレーシアには、「意識開拓」の意味でまだ可能性は残っているのかもしれない。

まあ、マレーシアのことはそんなもんなんだけど・・・。ただ、割と一筋縄じゃいかんだろうなあ。

日本では宗教的観念が薄い分、動物嫌いの人もいたりして、そういう観点でガイドドッグを良く思わない人もいるはず・・・。それとか、普通に外にいる分にはぜんぜん問題ないけど、家には入れたくないとか・・・。あるいは外ではOKだけど飲食店の中はいやだとか・・・。

そういう問題について、ユーザーの立場からすると、すごい剣幕で文句垂れ流して良いレベルだと思う。けれど、僕自身は、「飲食店に動物はちょっと・・・」という人の気持ちも理解はできるので、これがまた、自分の立場を表明するのは難しいのである。最近はそれも悩みの種だ。

そろそろ収束させようと思うのだけれど・・・。

マレーシアのガイドドッグくんには頑張ってほしいものです。日本の人も、なんというか、変に同情的に見ないで、ガイドドッグもユーザーも社会の一員として対等に見てくださいね。同情して金をくれるんだったら、まあ僕は受け取るけど、基本それいらない行為だから。

以上。

LGBTについて

最近LGBTについて取り上げられることが増えたと思うけど、「LGBT」って一括りにしてしまう発想があまり良いことだとは思えない。自分が視覚障害を持っているけれど、世間的には「障害社」という枠で括られてしまうことに良い感触を持っていないからだろう。

LGBTは、レズビアン/ゲイ/バイセクシャル/トランスジェンダーの英単語の頭文字を取った言葉だと記憶しているのだけれど、実際それぞれ違うわけなので、こういった形で一緒くたにするのはどうかと思う。ただ、客観的に見て彼ら(彼女ら)の思考に類似性があるので、まかり通っているんだと思う。

例えば、トランスジェンダーの人は身体的な性別と心の性別が一致していないのだから、恋愛対象は身体的に同性になることもあるわけで、それは客観的な行為としてとらえた場合にレズビアンやゲイになってしまう。こういうことなんじゃないかな。本質的にはぜんぜん違うと思うんだけど・・・。

障害者だって、部位によって必要なサポートも違ったりして多様なので、LGBTも一括りにしないで、それぞれときちんと向き合わなければならないんじゃないかな、と思います。

ところで、先日の受刑者の件もそうなんだけど、今までとても仲良くしていた人がレズビアンだったりゲイだったりしたら、それって受け入れるのはすぐできるのかな?

僕は男なのだけれど、友達が実はゲイだったとき、僕は今まで通りその彼を友達として意識できるだろうか?「好かれちゃったら困るなあ」と思って距離を取ったりしないだろうか?いや、してしまいそうだ・・・。できるだけ、そうしないように努力します。

すいません。ツイートのテストの意味を兼ねて投稿してるので、すごいめちゃくちゃな文章です。すいません。

点訳受刑者

前回のエントリーで再犯率の低下について取り上げた。

その後、点字毎日の2015年3月8日号に「点字毎日データ化事業で贈呈」という記事を読んだ。「島根朝日社会復帰促進センター」という官民合同運営の刑務所で、受刑者が職業訓練として点訳作業をしているそうだ。点訳の大正は点字毎日の古い号(創刊号とか)で、紙媒体でしか残っていないものをデータ火するのが目的のようだ。

さて、「点訳死刑囚」の話は結構有名だと思うが、社会復帰の訓練として受刑者が点訳に携わってくれることは良いことだと思う。受刑者はそれぞれ、そこに至る間に様々な背景や過程を有していると思うけれど、本当は社会だったり周囲の人がほんの少し手をさしのべたら、別の路もあったかもしれない。そういう意味で、点訳は、データ化の目的を果たすと同時に、受刑者の方々に社会と繋がっているという実感を持ってもらえる事業なのかなという感想を持つ。

ただ、良い面ばかりに気を取られてはいけない。詳細は記事にも書いていなかったが、点訳作業はどういった形態で行われていたのだろうか。記事中では「職業訓練」となっていたけれど、刑務作業=点訳なのか、いくつかあるうちの一つの作業が点訳だったのか・・・。

何が言いたいかというと、出所後、点訳ができるようになっても、ほとんど仕事はないということだ。点訳で飯を食える仕事もない訳じゃないけど、全国的に数カ所に限られるし、めったに募集も出ない。にも関わらず点訳された本があるのはボランティアの人々の力あってのこと。点訳は社会貢献的な意味で意義深いことではあるが、はっきり言って飯の種にはならない。

ということで、有り難い一方、点訳を行った受刑者の方々は、他の受刑者と同じように、社会復帰後にきちんと仕事に就けそうな訓練を受けているんだろうかと、おせっかいな心配をしているのである。

と思って調べたら、どうやらきちんとした職業訓練をやっているらしい。刑務作業もあるようだが、簿記といった科目があるそうで、ほんとに職業訓練だ。確かに、ライン作業をやるよりもこういった知識を身につけた方が、社会復帰してからも役に立つことが多いかもしれない。

島根朝日社会復帰促進センター > 社会復帰に向けた取り組み

疑問は解決したところで・・・。余談。

前回のエントリーを書いてからしばらく「理解しあうこと」について考えていたのだけれど・・・。

障害社の場合、何らかの形でシンボライズされていれば、相手がそれをすぐに理解でき、支援を頼んだりコミュニケーションの配慮をしてもらったりすることは、比較的容易だ。

でも、前科がある人の場合、それってぶっちゃけ言わなきゃ言わないで特に影響もないし、進んで伝えるべきことでもない気はする。例えば会社に入るときも、人事担当の一部の人は前科があることを知っていたとしても、配属先の人にそれを伝えないかもしれないし、そもそも意図的に伝えるものでもない。しかしながら、発覚したときに抱かれる思いは、障害社のそれとは違い、かなりネガティブナ感情なんだと思う。

僕は、現状では、相手が前科有りだと分かったら全く平静でいられるか?と聞かれるとそういう自信は無い。でも、そこを色眼鏡で見るのではなくて、できれば、それまでに培ってきた人間関係をそのままに受け入れる努力はすべきだと思う。もっと直接的に言えば、仲良くしているんだったらそれはそれとして仲良しを続けるべきだし、特に親しいわけでも無くビジネスライクなつきあい方だったらそれを続ければいいと思う。

たぶん、前科を持っている方は、ある時点で良好な人間関係であっても、過去の行いがばれたときに関係が悪化したり崩壊してしまうことを恐れているのではないだろうか。こればかりは「心配しなくて大丈夫」と大きな声で言えないのが、今の社会のつらいところ。ここを、「頑張っているあなただったら前科があっても気にしないよ」と言える社会になることを望みます、私は。少なくとも自分はそう言える人間になりたい。

で、これはさらに余談なんだけど・・・。

これって、出会い系サイトとかで、普通の女の子とメール交換しているときに「いつ自分が全盲であることを暴露しようか」と考えたり、「全盲だって伝えたらメールこなくなるのかな」とビクビクするのと、実は似ているのかな・・・。

いや、これ、若いときは本気で悩みました。ある程度やりとりしてから暴露すると返信がこなくなったから、早い段階で暴露してみたらやっぱり返信こなくて・・・、ずっと隠しててだいぶ仲良くなって下ネタも話せるぐらいになって暴露しても、やっぱり返信こなくなって・・・。

結局俺は出会い系サイトでメールのやりとりするときは、ビクビクしてた。はい。なんかいやな気分になってきたから終了。

FMラジオのJ-Waveで放送されている「JAM THE WORLD」。最近聴くようになったんだけど、いい感じの番組で、楽しみにしている。一昨日の水曜日では、2020オリンピック・パラリンピックに向けて日本のバリアフリーについて考えていた。

本日3月6日の金曜日は、「どうやったら再犯率を下げられるか」という趣旨のテーマだった。実際に受刑された経験のある作家さんがゲスト出演されていて、大変興味深かったわけですが・・・。

帰宅して着替えたり食事しながら聴いていたので、すべてを正確に理解できたわけじゃないけれど、一度犯罪を犯してしまった人の問題は、出所後に社会復帰することが難しいということだそうだ。これは直感的に理解できることで、海外だと出所後の就職斡旋などが服役中に行われるケースもあるようで、そういった制度のある国では再犯率が低いということ。で、日本は「厳罰主義」で、出所後の就職についてはまだまだサポートが不十分だということだ。

で、お話を聴いていて思ったのは、出所した人にどうやって社会復帰してもらうかは、障害社雇用に本質が似ていることなのかな、思った。もちろん、自分が視覚障害なのでそういうのに重ねる傾向が強いのは否定できないけれど・・・。

感覚的にいって、正直、ある人に前科があると分かったら、それを受け入れるのは結構難しいと思う。それは、たぶん、罪の重さは関係無く、前科があるということが分かった時点でレッテルが貼られてしまうからだ。すると、レッテルを貼られてしまった人は「やっぱり社会で生きていくのはつらい」と感じて、再び罪を犯してしまうのではなかろうか。

これについて誤った認識があるかもしれない。だとしたら申し訳ない。ただ、「普通とは違うというレッテルを貼られてしまう」というのは、障害社も同じことなのではないだろうか。

仮に上記の考えが正しいとすると、解決のアプローチは「障害社と接するための方法」に結構近いのだと思う。それはどんな方法かというと、コミュニケーションを取ることだ。実際私は大学や会社で健常者と接するようになって、困ったこともあったけれど、健常者と接していくうちに、周囲に自分のことを理解してもらうこともできたし、自分が周囲を理解することもできた。同じように、前科がある方も、周囲とコミュニケーションを取っていくことで、「ごく普通の人」として社会に入っていけるのではないだろうか。

ただ、ここで一つ問題なのは、社会全体が偏見無しに前科のある方とコミュニケーションを取れるだけ成熟しているかどうか、ということだ。もっと言えば、一人一人が偏見を持たずに普通に接する意識を、今持っているかどうかということ。障害社の場合はそのハードルが比較的低いのだけれど、実はここがなかなか難しいところなんじゃないかなと思う。

ある人が一度犯罪に手を染めてしまったとしても、そこには様々な背景だったり生活環境だったり、人間の人生がある。一度はそうした行為に及んでしまったとしても、真面目に罪を償い、新しい出発をしようと考えて出所してくる方も、きっと大勢いるはず。でも、何らかの理由でそのことが周囲に伝わってしまったら、それを受け入れられる人って少ないんじゃないかなというのが私の印象。そういう私も、受け入れられるかどうか自信はない。

でも、最初は受け入れがたくても、ご本人と周囲が歩み寄っていけるような切っ掛けとか、想像することで互いの考えを理解しあえるような社会を、これから作っていく必要があるんだと思う。障害社も、いろいろな偏見を持たれて邪魔者扱いされた時代はあったと思うが、今は多くの障害社が社会参加している。罪を犯してしまった人たちにも、同じように社会参加の機会を作っていける世の中であって欲しいと、私は願っている。

もちろん、自分もそういう意識で行動したいと思う。

最後に、ブログではなんだか支離滅裂っぽい文章になってしまったけれど、ギューっと詰め込んだ思いが番組に届いたようで良かったです。有り難うございました。

私はナビゲーターの堀さんのファンなのだけれども、「まずは理念を掲げるのが大事」とおっしゃっていたのは、全くその通りだと思います。

ちなみに、僕はこうして一人一人の意識が大事だと思うのだけれど、再犯率が上がると社会的なコスト(裁判とか服役中の費用)も上がるので、再犯率を下げるのは社会にとって必要なことなのだということも、話題に上っていました。そういう観点も大事だよね。

以上、駄文失礼しました。

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プロフィール

結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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