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どういうわけか、表題のようなものが最近アマゾンとかで売られているようで・・・。業者が災害用に民間へ下ろしているのか知らないが、それ以上は考えないことにして・・・。

戦闘糧食(レーション)というと、戦争とかのときに食べるものと思う人がいるかもしれないが、これは災害時の食料として活用できる。もちろん、本来は軍などが作戦行動中に使用するものなんだけど、防災グッズの中に入れておけば、有事の時にも、せめて食事だけはなんとかなる。

ちなみに防災グッズの食料と言えば、乾パンとかアルファ米とかを思い浮かべる人が多いだろう。っていうか、俺もそういうイメージ。こういった食品は、生きるために最低限必要ではあるが、地震などで精神的に参っているときには当然、平時でも、毎日だとあきてしまうだろう。

戦闘も似たようなもので、実際、戦争というのは待機時間が多いようだ。そういうときの唯一の楽しみは、食事でアル。食事がうまいかどうかは、兵士にとっても重要なことだし、防災上も、避難所で慣れない暮らしをする人々にとって、食事ぐらいは温かいものが食べたいことだろう。

そういうわけで、前置きが長くなったけれど。今回は自衛隊の「戦闘糧食II型」というものを試食してみる。ただ、グルメレポというよりは、「いざというときに、どうやって使ったら良いか迷わないように、あらかじめ余裕があるときに手順を確認しておこう」というのが趣旨でアル。

今回手に入れた「戦闘糧食II型」は、以下のような内容物となっている。

  • おかず...ウインナーカレー250g×1、すき焼きハンバーグ200g×1、中華風カルビ180g×1
  • 主食 ...ご飯...3年保存ご飯170g×3
  • 食器 ...お召し上がり用皿+フォークスプーン×各3
  • その他 ...加熱剤60g+加熱用袋×各3

ちなみに本当は「戦闘糧食II型 あつあつ防災ミリメシセット(1人3食分)1個【3年保存】」というのが正式な名前らしい。どうも、民間用に作ったものなのかも。

それから、本来、箱に納入日が書いてあって、だいたいそこから1年ぐらいが保存期間らしいのだけれど、あいにく全盲の私には確認できなかった。なので、保存期間内かどうかは、よく分からないことだけお断りしておく。

さて、届いた箱を開けてみると、そんなに広くないスペースにぎっしりと効率的に物が詰め込まれている。カレーのレトルトパックみたいなやつがおかずだろう、それが三つ。ご飯は3食分がビニールでひとまとまりになっているが、「サトウのごはん」を知っていればすぐに分かる。あと、ジップロックのような袋、使い捨てカイロのようなものがそれぞれ三つと、フォークスプーンが三つ。ようもまあ、よく詰め込んだな・・・という感じでアル。 ただ、内容物に「皿」と書いてあったんだけど、どうやら皿は入ってない模様。ご飯を食べ終わったところに、おかずを入れるか、ご飯の上からかけて、どんぶり風にして食べるか、といった感じだろうか。

とりあえず、レトルトばかりだと視覚障害者には、どれが何だか分からないのだが、ハンバーグらしきおかずを食べてみることにする。あとは、ご飯一パック。食器がないので、ご飯の上からかけて食べよう。

さて、ここまで書くのを忘れていたが・・・。「戦闘糧食II型」は暖かい食事が取れるタイプの糧食である。なので、そのままでは食べられず、加熱しなければならない。さあ、どうしたもんか。

同封されていた紙をスキャンしてみると、全文は厳密にOCRできなかったものの、おおよその加熱方法は分かった。

以下の手順は厳守した方がいいだろう。後でも触れるが、とにかく火傷の危険性があるからだ。

  1. まず、おかずとご飯を出しておく。後から用意すると手遅れになるので。
  2. 加熱袋(ジップロックのようなやつ)を開けて、底面のへこみをいじって、袋が上向きに立つようにする。ちなみに、普通のジップロックはただの袋だけど、加熱袋は、底面が折り返されていて、レトルトカレーにもよくあるように、口を上にして真っ直ぐ立てられるようになっている。
  3. 150mlほどの水を用意しておく。ここで用意しておかないと手遅れになるので。計量カップがあるといいだろう。
  4. 手をなるべく綺麗に拭いて水分を飛ばす。
  5. 加熱剤(使い捨てカイロみたいなやつ)を開封し、加熱袋の中に、横にして寝かせるように置く。この作業はできるだけ迅速に行った方がいい。
  6. 3.で用意した水を加熱袋に入れ、おかずとご飯も加熱袋に入れる。そして、袋の口を閉じる。この作業は迅速に行う。ちなみに、おかずとかご飯は寝かせて入れなくてもよく、自然な形で入れればOK 。
  7. それから20分、加熱袋には触れずに待つ。20分経ったら加熱袋からおかずとご飯を出し、食べる。このとき、袋がとても熱いので注意すること。

だいたい、食べるまでの手順はこんな感じだ。

特に注意が必要なのは、加熱剤に水を加えると、化学反応が一気に起きて、瞬間的に加熱袋の温度も上がるということだ。そのときに水蒸気も一気に噴出する

説明書には「加熱中は袋を倒したり触れたりしないでください」と書いてあったが、こっそり触ってみると、マジ熱かった。瞬間的にやけどを負うような温度ではないものの、数分触っていたら低温やけどぐらいはするかもしれない。加熱剤を開けてから水を加え、食品を入れ、加熱袋を閉じるまでの作業は、できるだけ手際よくやった方がいいだろう。あと、周りにだれかいたら、注意を促すことも忘れないように。

ちなみにだが、加熱袋の口部分には水蒸気を放出する穴が空いている。なので、倒してもだめなのだと思われる。だから、全盲は特に要注意。

「そこまでして非常時に暖かい飯が食いたいのか?」という意見もあろうが、いやいや、前述のとおり、そういうときは食事ぐらいしか楽しみがないのだ。1日のほとんどを不安な気持ちで過ごさなければならない非常時に、飯を食うときぐらい不安を閉め出す意味でも、こうした手順をこなすことは悪いことではないと思う。

さて。一応「味」についても触れておこうかな。

とりあえず、ご飯におかずをかけて食べるのは問題なさそうだ。きちんとやれば、こぼれたりしない。だいたい、カレーだっておかずに含まれてるわけだし・・・。

味は、まあ、「まずいレトルト食品」といった感じ。でも、「まずい」というのは少し言い過ぎて「おいしくはないレトルト食品」というのが正しいかもしれない。でも、まだハンバーグしか食ってないけど、普通に常食として食べても、食べられるとは思う。ガスとに言った方が安上がりだとは思うが。とはいえ、避難所で乾パンを食べることを想像すると、これは大ご馳走だ。

それから、ご飯についてだが、20分ほどの加熱では、柔らかいところと堅いところに、むらがあった。おかずも、もうちょっと暖かくてもいいかな・・・という感じ。でも、おかずをご飯にかけることで、おかずの水分(タレとか)がうまく絡み合って、ご飯の軟らかさはバランス良くなった。少々柔らかすぎるけど、非常食にこれ以上求めることはないだろう。あえていうなら、冬場だと、30~40分ぐらい加熱袋に入れっぱなしにしておいても良いかもしれない。加熱袋は、水を加えてから1時間ぐらいは熱く、それから、だんだんぬるくなってきた感じだったので。

そういうわけなので、食品を暖め終わった後の加熱袋は、暖を取る目的では使用しない方がいいだろう。実際、自衛隊では禁止されているらしい。まあ、瞬発力がある分、民生用の使い捨てカイロと違い、持続時間が短すぎるので、そういう用途には不向きだし、何よりも、たぶん火傷する。ただ、それこそ冬場は暖かくする必要もあるだろうから、タオルを2重・3重にして、火傷しないような対策を講じた上で、カイロのように使うのは、(自己責任かもしれないが)、ありかも。

さてさて。実際に「戦闘糧食」なるものを食べてみたわけだが、問題がないわけじゃない。

それは、加熱に水が必要だということだ。加熱剤には、このように水を加えて熱を起こすタイプと、カイロのごとく酸素にさらすことで加熱するタイプの2種類が、自衛隊では装備されていて、個人的には後者のタイプがよかった。非常時に水は貴重だ。3食分をそれぞれ加熱するとなると、今回の場合、合計で450mlの水が必要になる。これは500ml1本分ほどに相当し、水が不足している状況では本当に貴重な量だ。しかも、戦闘糧食そのものに保存水すら付属していないし、計量するカップもないから、目分量で水を入れないといけない。戦闘糧食II型を携帯するときは、十分な水と、無駄にしないように計量カップを用意して置いた方がいいだろう。

まあ、もしこれが民生用だとすると、1食1食を個別に加熱するには、この方式が向いているのかもしれない。前述の、酸素にさらして加熱するタイプの加熱剤の場合、「加熱剤、主食、加熱剤、主食、加熱剤」といった具合に、暖めるものをサンドイッチして、タオルにくるみ、加熱と共に比較的長い時間保温することができるようだ。しかし、これは作戦行動中には向いているかもしれないが、避難所生活ではあまり向かない手段かも。だから破水型?というのだろうか、水を加えて加熱するタイプの加熱剤が、使われているのかもしれない(もっとも、自衛隊でもこのタイプは最近主流らしいが)。

ただ、水が付属していないのはちょっと解せない。まあ、重くなるし、スペースも取るし、普通は別途水筒を携行していたりハイドレーションパックに水を入れておいたりするだろうから、糧食に水が入ってないのも当たり前かもしれんが・・・。でも、別の機会に紹介しようと思っている「防災丸かじりセット」には500mlの保存水が入っていた。まあ、そいつは一つ一つの食品が小さいので、水を入れるスペースもできたんだとは思うけど・・・。

ということで、「戦闘糧食II型」は、なんだかんだ言って、非常時に暖かいご飯が食べられるというメリットがあるので、防災グッズの中に入れておくことをお勧めしたい。保存期間がきたら、新しいのを買って、古いのは普通に食べればいいわけだし・・・。

ただし、それなりにコンパクトな箱だとはいえ、3食分の食料となると、そうさなあ、お徳用の60個入り使い捨てカイロとか、ブラウンのひげそりのセンジョウカートリッジ(6個入り)ぐらいの大きさ・重さにはなるので、2日分、あるいは二人分が限界かな、とは思うけど・・・。ちなみに、アマゾンの情報では、商品重量は1.76kgだそうだ。これに、水と、あと、可能なら計量カップ。

そろそろ長くなってきたので終わろうと思うが・・・。1.76kgって1日分のレーションとしては軽い方だと思う。だって、イタリア軍のレーションは、1日分を片手で持てないと聞くし・・・。あと、米軍など日本以外の軍では、基本的に固形燃料とヒーターで食事を温める。それに比べて自衛隊はカイロなので、やっぱり軽いと思う。まあ、米軍とかイタリア軍みたいに、オレンジジュースだの、ゼリーだの、ナプキンだの、ビスケットだの・・・と、「おいおい、おまえらピクニックかよ」と思うものが入ってない・・・ってのもあるんだろうけどね。

それでは、機会があったら、今度は暖めずに食べるレーションを紹介してみたいと思う。以上。

Black Lagoonからは、いろいろと学ぶものがあると思っている。原作は漫画なので残念ながら読めないけど、とりあえずアニメ化されているもので十分だ。

まあ、書き始めると終わらなくなるので、とりあえず、第15話の「Swan Song at Dawn」について。

初めに、この話は通算で大15話だけれど、セカンド・バレージとしては3話目に当たる。通算第13話と第14話、そしてこの第15話の3話で一つのエピソードとなっている。

さて、粗筋とかはWikipedia先生に譲るとして。私がこの話で気にいっている歌が一つある。以下のリンクはYouTubeにアップされているものだ。リーガルかどうかは、まあさておいて、ちょっと聴いてもらいたい。

Swan Song at Dawn, Ending

歌詞は英語っぽいのでよく分からないが、綺麗な歌声だ。そう、歌声は天使のそれだ。

しかし、この歌は、「ヘンゼルとグレーテル」とバラライカたちから呼ばれていた、殺しを辞められない屑餓鬼の妹の方が歌ったものだ。第13話と第14話では、なかなかのガンマンっぷりと残虐な殺害方法、死体で遊ぶシーンなどが描かれていたが、それらとは全く対照的でアル。

フィクション作品に対して考えることは無駄だと承知で書くが、なぜ彼女はこうも2面的な側面を見せたのだろうか?その背景にはいったい何があったのだろうか?

これを考える上で欠かせないのは、前述の歌が、ロックの前で歌われたということだ。ロックは、まあWikiにいろいろ乗ってると思うが、社会の暗部に入り込んで日が浅い人間だ。だとするならば、グレーテルは、闇を生きる人間たちの中にも、ロックに何か違うもの・・・、そう、それは、闇ではなく、光のようなものを直感的に感じたのではないか?

グレーテルは歌を歌い終わったあと、船のキャビンにいて、海が見られないことについて、このような言葉を発している。引用しよう。

あ~あ、海。せっかく海に来てるのに、ちっとも見ることができないわ。残念。

これに対して、ロックは「海は・・・見たことがないのかい?」と問いかける。するとグレーテルは次のように返答した。長くなるが、引用しよう。

シチリアに居たときも、その前の孤児院でも、見てたのは灰色の壁ばっかり。産まれたのはカルパチアの岩山の中。いつも曇ってばかり。 (中略) シチリアに引き取られてからはずーっと血と闇の中。死ぬほど蹴られて真っ赤なおしっこが止まらない日もあったわ。 兄様とは、よく話してたわ。どうして神様は・・・私たちに、こんなにも、つらく当たるのだろう。 でもね、私と兄様は気づいたの。他の子が私たちの前につれてこられて、泣いているその子をバットで繰り返し、たたいた時にね。・・・大人たち笑ってた。私も兄様も笑った。笑いながら思ったの。これは仕組みなんだって・・・。そう、だれかを殺すことで世界が回り続けているのなら、・・・私たちがここに居る理由も、また、それだけなの。殺し、殺され、また殺して。そうやって世界はリングをつぐむのよ。 (以下略)

なんか、ただ見てるだけだと、すーっと耳を通り抜けていくだけだった台詞が、このように文字にしてみると、ひどく残酷なものに感じる。もう書くのを辞めたいけれど、私は向き合わなければならない。なぜかと問われれば、ただの趣味なのだが。

そして、以下のロックの台詞にも共感を禁じ得ない。再び引用する。

違う!違うんだよ!世界は、ほんとは、君を幸せにするために、あるんだよ!いいかい、血と闇なんか、世界のほんの欠片でしかないんだ。すべてなんかじゃ、ないんだ・・・。

正直なところ、これらの台詞を聞いたところで、今までの私ならば、大した感情も覚えなかっただろう。だが、なんというか・・・。この作品以外の部分で感じるようになったことも含めてなのだが・・・。何かによってだれかが救われ、人間が人間らしく振る舞える環境もあれば、救いを求めること自体がリアルではない環境もある。日本流の言葉を使うならば、「臭い物に蓋をする」のではなく、直視し、考え、感じ、そして再び考え、行動する。そうした一連の活動がシビアに必要なことも、あるのだと・・・。最近はそう思うようになった。頭では「差別はNG」と分かっていても、インプリンティングされた情報を書き換えるのは容易な作業ではなく、偽善的にそれを行っている人々も目にしてきた私にとって、偽善ではない、真の善とは何か?という、非常に難解な問題を突きつけられた思いもある。

そもそも、グレーテルの出所は、とある独裁者(たぶんルーマニアのやつだ)が、労働力不足を補うために妊娠中絶を禁止したが、貧しい国に子供を育てられる訳もなく、孤児になった子供たちが秘密警察の要員供給源になった・・・、というロックの説明に求めることができる。人間的な要素を残しつつも、必要ならば無慈悲に残虐に敵を殺す能力は、そうした秘密機関や軍の特殊部隊に必要とされる技能だ。

だからこそ、「また、いつか・・・、また、いつか会いましょうね。今度は二人で・・・ランチバスケットを持って・・・」と言い残して殺されたグレーテルを、表面的には、憂うでもなく、極めて冷静に葬り、弔ったロックの姿は、見習わなければならないと思う。

ただ、そうできるまでには、ロックの葛藤があったのだろう。「Damn it!」とどうしようもない怒りを口にしながら、「皆が、よって、たかって、あの子を虎(monster)に仕立てたんだ!人食い虎(fuckin' monster)にしちまったんだ!」とわめきながら、ベニーに諭され、そして、きっとロックは理解したのだ。ベニーの助けもあっただろう。

ああいうものを真っ直ぐ見るな。(中略)だれかが、ほんの少し優しければ、あの子たちは学校に通い、友達を作って幸せに暮らしただろう。でも、そうならなかったんだよ、ロック・・・。だから・・・、この話はここで終わりなんだよ、ロック。

そして、結局、ロックは、やっとオープンになり、空を仰ぐことができたグレーテルを受け入れた、ように思う。それが、死体だったとしても。

改めて書くが、あくまで、Black Lagoonはフィクション。実際の出来事ではない。ただ・・・。神に祈ることも許されなかった人たち(子たち)がいて、たぶん、それは今でも、世界のどこかで、同じようにいる。私たちが祈ることは容易いが、現実的に救うのは極めて困難だし、とても勇気がいることだ。だとするならば、せめて、彼らが、彼らの信じる神に祈ることができる世界になるよう、私たちが祈るぐらいしか、私たちにはできることがないのかもしれない。

まあ、そういう、つまらない話です。

ちなみに私は「Pessimistic realist」を自称している。けれど、どうも最近EQが上がってきてるような気がしてならない。まあ、EQの高低は人格的な優劣をつけるものではないと分かっているけど、EQ高い人になっちゃったんだなあ、俺・・・みたいな、不思議な感慨はありますね。だいたい、Black Lagoon見て、こんな無駄な文章を書くようになっちまったってのが、「俺、変わったわ」と思う瞬間なのであった。

以上。

I'm alone in this Christmas. Now it's funny to think what I do those days.

というわけで。クリスマスの日に、一人でケンタッキーに行ったときの、むなしさというか、「なんでこんなに並ぶのよ、チキン買いたいだけなのに!」などという気持ちを味わわないように、ケンタッキーへは行かない。というか、近くのケンタッキーは外までずらっと並ぶので、24日とかは、それだけで萎えるんだが・・・・。

学生のときは、みんな暇だったので、いつもと変わらなかったけど、居酒屋で飲んでた。その日だけはビールや日本酒じゃなくて、ワインだった気がするけれども・・・。

ある年は、LINUXサーバにスパムフィルタを構築したり、LAMPの開発環境を整備していたら、クリスマスが終わっていたときもあった。特に寂しさを感じなかったあの当時に戻りたい。

高級レストランでクリスマス・ディナーを楽しんだり、チャーチでクリスマス礼拝に参加したり、そういったことは一切したことがないので、何か、今までに経験の無い過ごし方をしてもいいのかもしれんなあと思いつつ、たぶん思うだけで家にこもってんだろうなあ・・・。そもそも、社会人になってからは、クリスマスというものを意識したこともなかったし。外国と違ってクリスマス休暇なんかないしね。

個人的には、チャーチでの礼拝に興味がある。礼拝の意味合いというより、どんな音楽が流れるんだろう?15世紀~16世紀のローマ・カトリック教会で歌われていたような賛歌だったら非常に興味があるんだけども・・・。あのころの音楽は、基本的な旋法の組み合わせを主体とする楽曲が多くて、聞いてて楽しいのよね。ドリアンとかミクソリディアンとか、そういうやつね。

でも、信徒でもない人間がクリスマスだけ礼拝に行くとか、いいんかねえ?ジーザスの言葉を借りれば、俺は岩の上に落ちた種みたいなんだけれども・・・。

あと、OKだとして、さてさて、どこのチャーチに行くか、だよね。ローマ・カトリックの音楽が良いとか言いつつ、行くならプロテスタントだなあと思っているわけだけど、プロテスタントと一口に言っても、仏教の寺並にいろいろな宗派があるので、どうにも気が重い。仏教の宗派は、宗派間に階層的な構造があって、「格が上」だとか「下」だとかということが、わりと気にされる。似たようなことがプロテスタント諸派にもあるのなら、吟味した上で行きたい。いやまあ、別に洗礼を受けに行くわけじゃないんだけど、とかく宗教とかイデオロギーのことは面倒なので、人間関係のことをいろいろ考慮した上で動かないと、面倒なことになりかねない。となると、チャーチには勝手に行かない方がいいだろう、ということになり、結局何もしないことになるのであった。残念。

誘われれば礼拝に行ってみたいけど、あいにく、誘ってくれるほど親しい人にクリスチャンはいないので、Youtubeで礼拝の動画でも探すか。「主よ、今日も私どもに糧をお与えくださり、ありがとうございます」とか祈りながら、黄金に輝く飲み物でもいただきつつ(笑)。

さてさて、殺伐としたこの自宅で、今日あと半日、どうやって過ごそうかしら・・・。

ここ数年、表題のようなニュースをたまに見かける。なんで、そんなことがニュースになるのか分からんが、社会が目を向けてくれるようになったんだとポジティブに捉えることにしておこう。

かくいう俺も、電車のドアに白杖が挟まれてしまったことがある。しかも、折りたたみの白杖だったので、ひっぱってもゴムが伸びるだけで全く抜ける気配もない。終電だったので頑張ったんだけど、結局電車が動き始めてしまったので、白杖から手を離し、予備の杖も持たっていなかったため、呆然とホームに立ち尽くしてしまったのであった。

しかし、問題はシチュエーションである。率直に言って、俺の場合は「ただのあほ」だったのであるが・・・。

友人としこたま飲んだ後、乗り換えで降り立った駅で、無性に喉が渇いたのである。で、たまたま前を歩く人が自販機で何か買っている音を聞きつけ、「ああ、助かった」とばかり俺も自販機に金を入れた。酔っ払っていて、なんかジュースの自販機にしては妙だなと思ったんだけど、とりあえず適当にボタンを押した。すると・・・。なんと、出てきたのはアイスじゃないか!!カップの下から棒が突き出てて、手でも持てるし、カップのアイスみたいにスプーンでほじくって食ってもいいやつだ。

「まあアイスでもいいや」と思って、ホーム上でアイスを味わっていると、終電がやってくる旨の自動包装があり、遠くから電車の音が聞こえてきた。さ、さすがに・・・アイスを持って電車に乗るわけにはいかない。混んでたら悲惨なことになるし。

なので、その瞬間から頑張って猛スピードでアイスを食べた。電車が進入してきて、ドアを開けたころに、ようやく最後の一口を書き込んだ。あんがい白線より内側にいたらしく、急ぎ足でドアに向かったのだが、白杖を出したとたん、ドアがしまってしまい・・・。あ~あ~あ~。白杖がドアに挟まれ、引っ張るとゴムがビヨーンとなるだけで抜けやしない。駅員や車掌にも気づかれず、電車は動き出し、白杖は電車と共に走り出したのであった。

手ぶら・・・ではないけど、白杖が持ってかれて、その当時は予備の白杖を持っていなかったので、「どうしたもんか・・・」と、しばらくホームで途方にくれてしまったものである。いやあ、電車に乗るまでは白杖が無くてもなんとかなるだろうけど、それこそ、挙動不審な人となり、いちゃもんを付けられても言い訳できない。いやあ、どうしたもんか・・・。終電が行ってしまったのであったが、とりあえず、途中の駅まで行く電車はまだあったので、それに乗って、最終的にはタクシーで帰ることになりそうだったんだけど、それにしても白杖は持ってた方が良いに決まってる。っていうか道交法的なやつがあれでこれでそれなはずだ(汗)。

と、途方に暮れていると、とぼとぼと歩いてきたおじさんが「これ、落ちてましたよ」と言って、白杖を持ってきてくれた。俺はそのとき、「神よ!おじさん、ありがとう」と、どれだけ頭を下げたことか・・・。この際、神に感謝していたのか、おじさんに感謝していたのかはどうでもいい。っていうか、こういうとき、神は何の役にもたたんなあ。おじさん、良い仕事してくれました!

おかげさまで、白杖は電車のドアに挟まれたものの、運良く電車のドアから落ちて、おじさんが持ってきてくれたおかげで、俺は帰ることができたのであった。

最低なのは、自販機がアイスのやつだったってことだ。いや、おかしいと思った俺も躊躇したんだけど、酔っ払ってて著しく判断力が欠如してたんで、「まあ変わった形の自販機もあるよなあ」と思ってたのも悪いんだが・・・。いやいや、ホームにアイスの自販機があるんだったら、ホームでアイス食ったって良いだろう。いやいや、そうじゃなくてだね、あの・・・。

その後は、必ず予備の白杖を携帯するようにしている。仕事用の鞄とプライベート用の鞄と、それぞれ、移し替えなくても良いように。

以上は大変に懐かしい思い出なのだけれども。。。若い頃は、全盲のくせに駆け込み乗車したら、身体がドアに挟まれて、電車をしばらく止めちゃったこともあったなあ・・・。ああ、すいません。営団地下鉄(当時)の駅員さんごめんなさい!

っていうか、どうでもいいけど、営団地下鉄じゃなくて、ええと、東京メトロか。あれって民間なんだよなあ。一部の駅は他の私鉄に委託運営してるのかもしれんが、民間の会社が地下鉄を運用してるって、東京だけじゃね?だって、横浜も名古屋も仙台も福岡も札幌も大阪も、市営だよね、確か?

さらにどうでもいいというか文化の違いなのか分からないが・・・。東京近郊だと、券売機でとりあえずボタン押しておいて、後で金を入れれば切符買えるんだけど、大阪市営地下鉄で券売機を使ったとき、金を入れないとボタンが反応しないっていうのには、ちょっと戸惑った。いや、ここ15年、東の文化に慣れてしまったせいかもしれんが、金を入れないと切符は買えないのは常識だと思うんだけれども、なーんか、これって西と東の文化の違いなのか、ユーザーインタフェース的なものが関係してるのか、どういうことなんでしょうか??挙げ句の果てには、10年前の札幌市営地下鉄の券売機には、「障害者割引」のボタンがあった。文化ってなんだ?合理的配慮(Reasonable accomodation)ってなんだ?

個人的には、どちらかと言えば、西の色が濃い場所で育ったもんだから、てっきり大阪の文化や言葉はなじみやすい、と思ってたんだけど。。。高校生から東京に居座っているおかげで、西の奥深き文化を忘れがちになっているようだ。もう少し大阪に根があれば、正直に言って、東京より大阪に住みたいよ、俺は。週末NGKへ行きたいもの。梅田でもいいけど。でも、俺の周りには、なーんだか関西嫌いの人、多いんだよなあ。そんなに毛嫌いせんでも、ええんとちゃうか?

お詫びと訂正

  • 日常

前回は大変酔っ払っていたため、酷いことをいろいろ書いてしまった。非礼をお詫びします。

一つだけ訂正すると、税金払ってなくても主張する権利はあります。すいません。いろいろな事情で所得税を払えない方もいるので・・・。

でも所得税が何かしらの理由で控除されてるのは、やっぱり納得いかない。馬鹿に田島先生も、「扶養控除なんて女を馬鹿にした制度だ」と怒っていたけど、同じような意見です。

今日は以上です。大変しつれいしました。 でも前述の部分以外は、まあ、そのままということで。

2014年末から2015年始にかけては、いろいろな討論番組をみて過ごしたので、ここ数年にはなかったほど充実した正月を過ごしたなあと思っている。

その中で思ったことは、改めてまとめるとして・・・。

今日はちょっとした発見があった。今までアイドルをおっかけたりする「おたく」とか、そこまでいかなくても「ファン」の気持ちってぜんぜん分からなかったのだけれども、今日、それがちょっと分かった気がした。

本題の前に少し余計な話だけど、僕にだってアイドルを好きだった時代はあった。モー娘。とか。だいたい、漢字変換で「モームス」って打つと「モー娘。」と、句点まで出てくるのがすげえなあと、当時から思っていたぐらいだ。いやいや、それじゃモー娘。については語れない。中学生の少ない小遣いの中から、CDを買い、全盲である僕が見えるはずもない生写真をたくさん買い、あまつさえコンサートにまで行った、あのころのことは忘れない。

でも、最近のAKB48についてはぜんぜん分からなかった。まあ、AKB劇場へ行くぐらいなら理解できるんだけど、CDを何枚も買うとか(選挙のために)、彼女らの出演テレビはなんでも見るとか・・・。

モー娘。から、高校3年生のときに「ジャンヌダルク」に乗り換えてからの僕は、アイドルというものに全く関心がなかった。

ところが、僕の中で、そのアイドルおたくに近いことが起きているのかもしれない。

直接的には、ナーナリスト(?)の津田大介さんがやっているラジオ番組を、今日初めて聴いたからだ。ツイートが流れてくるのはずっと前からだったけど、今日のプライムニュースはつまらなそうだったのと、ラジオが面白そうだったので、たまたまラジオを聴くことにしたのだ。

大変面白い内容だったので、他の番組との兼ね合いを考慮しつつ、今後も夜のJ-Waveは聴いていこうと思った。

それは、タイトルからすると間接的なことなんだけれども・・・。

実は僕、この1年か2年、アイドルの追っかけをやってるようなものだ。

それはちょうど2年近く前のことだっただろうか。当時NHKを辞めたばかりの堀潤さんがテレビに出ていて、「コンプライアンスを遵守していたら報道はできない」といった趣旨の心情を抱いたそうでフリーになり、活動し始めたところだった。この堀さんの姿勢にとても感動して、そこからツイッターもフォローしたりしているわけだが・・・。

やがて堀さんが出る番組はチェックするようになった。昨年から Tokyo MX の朝に放送されているモーニングクロス。あれはなかなかすばらしい。朝が忙しくてTwitterで参加できないのが残念だけど。

あとは田原さん。5年前に「朝まで生テレビ」を見始めてから、彼が出演すると分かった番組は、可能な範囲で見たり聞いたりするようにしている。正直、若いジャーナリストと比べれば「それってどうなん?」と思うこともあるが、歴史的な事情とか、特に戦争の体験から「偉い人の言うことは信じなくなった」ということなど、参考にすべき意見はたくさんお持ちで有る。

で、そのつながりで、津田さんのこともウォッチするようになった。また、ジャーナリスト以外でも、勝手にTwitterフォローして、意識の高い人々の発言を、自分の人生に活かしたいなあと思うようになって、いろんなところで、できるだけ多くの意見を読んだり聴くようにしている。

それでだ。まあ、それってAKBおたくと変わらんなあと・・・。僕はジャーナリストだけど、彼らはAKBなのだ。ただそれだけ。

ただ、もしも何科の違いがあるとすれば、僕は全盲なので、「言葉で楽しめる領域」の人々についておっかけをしているのかなあとは思う。AKBの人々も、単品ではなかなかいいことを言うけれど、でも、そんないちいち単品の発言とか見てないし、AKBってぶっちゃけ見た目で入るっしょ?だから、もう僕はアイドルはだめなんだと思う。ジャーナリストのような人なら、おかっけてもいいかなあとは思う。

ということで、僕は実は本質的にAKBおたと変わらないようです。対象が違うだけでね。おほほほほ。

11月から無事働き始めた。ああ、ビールがうまい。

さて、働き始めて「ああ!」と思ったのだが、人間ドックって大変困るなあと思う。ただの健康診断とは訳が違うのである。

まあ、検査される内容についてはよく分からないのだが、最大の問題は「バリウム」である。バリウムそのものは最近おいしくなったらしいのだけれども、いやいや、その後ですよ。

「うんこ、どうするの?」

一般的に、バリウムを飲んだ後のうんこをどう処理するかはそれぞれだと思うけれども、気になる点は次のとおりである。

  • ケツから出てくるときはどんな感触なのか?普通とは違うだろう。なんか、こう、堅いものを産み落とすような、痔になりそうな、そんな感じなのだろうか?
  • 産み落としたうんこをどうやってすくい上げるのか。目が見えていれば、まあなんとかなりそうだけれども・・・。便器に排出されたバリウムうんこって、見なくても取り出せるもの??

間違ってもバリウムを飲んだあと、自宅ではトイレに行きたくないなあと思うのだが、だからといって、出るものは出ちゃうのだからどうにかしなきゃならん。一部には、「人間ドックの後はカフェで時間をつぶしてそこでしてくる」とか「百貨店へ行く」とかいろいろ解決策はあるようだが・・・。

まあ、人間ドックなら、会社のトイレでしてもいいかな、とは思う。けれど、いくら会社のトイレだからといって、流すわけにもいかない。となると、会社のトイレで産み落として、流さず放置するということになるのか?うちの会社のトイレは内側に扉が開くタイプなので、だれも入ってないときはオープンであり、流さないで放置しておくといろいろ不都合なのですが・・・。

何より、近年は個室でケータイを見る人が増加していることにりょり、常に会社トイレの個室は稼働率95%以上という、その辺の情報システムよりよっぽど利用率高いような昨今・・・。個室から人が出てくるのを、歯を食いしばって待っていた人が「ああ!やっと個室空いたわ!」と思って入ったとたん、目の前に広がるバリウムうんこを目にしたら、それはショックが大きすぎるだろう。そういう意味でも、あんまり、放置プレーはだめかなあという気もする。

結局もんもんとするだけで、バリウムうんこをどうやって解決したらいいのかはよく分からなかったけれども、みんなどうしてるんだろう?

こちらは久しぶりの更新となりますが・・・。

ひとまず、就職が決まったのでご報告します。ええ。11月から働きます。

思えば、2008年に大学院を辞めて、今年は2社も会社を辞めて・・・。振り返ると「自分には学習能力が欠如している」ということを身にしみて感じるのであるが、そうであっても、肝心なところでは運に恵まれている境遇だなあとしみじみ感じるわけである。こういうことは、この先ないだろうと思うので、まあ、正論はいろいろあると思うけれど、とりあえず、頑張っていきたいと、そう思います。

さて、Twitterでも一瞬言及したのだけれど、以下の記事を読んでいろいろ思うところがあったので、メモ程度に書いておこうと思う。

「同じ会社で定年まで勤め上げる」ことは、ただの自己満足です

これは、タイトルから想像できるように、「定年まで同じ会社で働く」ことについて批判的な論調を展開している記事えある。あまり正確で無い要約をすると、「同じところにいると価値観も固定されて何も変革できないし、新しい出会いもないから、いろいろな会社で働いた方がいい」ということのようだ。

私自身は、この意見に賛成である。同じ組織に所属して同じ空気ばかり吸っていると、考え方も保守的になるし、おそらく外界の動きにも疎くなってしまう。何より、記事の中でも触れられているように、リストラなど、意図せず会社を辞めなければならなくなったときに、食っていく手段を身につけられない。そうなったときに、「自分の何を売り込んで仕事を探せばいいのか」ということについて、考えすぎて眠れない日々を送ることになるだろう。

しかしながら、一般的には正しい意見だと思うのだが、障害者については、ちょっと当てはめるのはつらいかなあという印象である。

「障害者が働く」ということに関して、いつかこのブログでも書いた気がするけど、まずは「就職すること」がゴールになっているという現状がある。実はスタートラインに立つことなんだけど、すでにゴールなのだ。

その状況は、全体的にはここ数年で改善してきているようではあるが、障害別、及び、障害等級別で比べると、おそらく微妙だろう。端的に言えば、軽度障害者の就労は着実に進んでいるが、重度障害者の就労は水準を維持または悪化していると考えられる。これは統計的な資料に基づく意見ではなく、私がネット上の情報を読んだり、実際に就職活動してみて抱いた推測であることに注意して頂きたい。

事実はどうか知らないが、「私の推測は正しいだろう」という前提でこれからは書くことにする。また、本記事中、特に断らない限り、以降は「重度障害者」をさして「障害者」と呼ぶことにする。

さて、ここで検討したいのは、「障害者にとって次のどちらが良いのか」、ということである。

  1. 同じ会社で働き続ける
  2. 理由はなんでもいいが、転職や転社に積極的にチャレンジして自分を磨く

まあ、先に結論を言ってしまうと、どっちが良いのか分からないし、人それぞれ向き不向きがあるので、なんとも言えない。だけれども、考えるのである。無駄に考えることこそがこのブログの趣旨なので、考え得るすべてのことを(と言っても、酔っ払った私から引き出せることなど大したものでもないが)、無理矢理考えてみたいと思う。

まず1番目の「同じ会社で働き続ける」ということ。リンクした記事でこてんぱんにやられていたので、デメリットについての考察は控えるが、じゃあ「メリットって何?」という話である。

第1に、経済的には安定する、ということが考えられる。ただし、これは必ずしも正しくはないけれど、障害者を雇用することに取り組んでいる企業は、結構体力があるので、ほとんど正しいと思われる。というか、ある程度体力があって、コンプライアンスの締め付けがきついという事情がなければ、なかなか障害者雇用をやっている余裕は無いんじゃないだろうか。

第2に、障害者の社員は自分のペースで仕事がやりやすくなる可能性がある。人事担当者とか管理職の人には申し訳ありませんが、その会社で、ある障害種別の人を初めて受け入れたような場合、ほとんどのことはその「初めての障害者の人」が基準になるので、まあ、障害者からすると、いろいろごまかせる。すいません。ごめんなさい。

第3に、これはちょっとどうかな?と思うけれど・・・。順応してしまえば、いやな思いをすることが減るかもしれない。長いこと同じところにいれば、良い意味でも悪い意味でも周囲は障害者への理解が深まるはずだ(環境にもよるけど)。で、個人差はあれど、障害者自身も、生き抜く術を身につけてうまく立ち回ることができているはずだ。そういう前提が無いと、長く同じところで働くことは、たぶん難しいと思う。だから、これをメリットと言っていいのかどうか分からないけれども、そういうことである。ここらへんは、障害というよりは、単純に人として溶け込めるかという話なので、あまり障害の有無は関係ないかもしれないが・・・。

あと、なんというか、こういうことを書くと、私が怒られたり、あるいはショックで寝込んでしまう人がいるかもしれないので、この先を読むことについては慎重になって頂きたいのだが・・・。

企業が重度障害者を雇用する理由は、おそらく次の二つに大別されると思う。一つは「障害者の雇用数のカウントが大きい」ということ。もう一つは「結構マジで障害者を活用しようと思っている」ということ。もちろん、これは私個人の勝手な思い込みだし、こういう問題は白黒付けられるものではなく、むしろファジィであるから、このような二元論では片付かない。けれど、あえて書いている。

どちらの理由にしても、重度障害者を雇用することは、はっきり言ってリスクである。ぜったい怒られると思うけど、あえて書くけど、「動くかどうか分からない車を買わされる」のと、あんまり状況は変わらないんじゃないか?いろいろなところで障害者雇用について「障害の程度は千差万別なので、一人一人に合った配慮をうんぬんかんぬん・・・・」という説得がされるようだけれども、経営側からすれば、ROIが計算できないんだからそんなもんリスク以外の何物でも無い。

しかしながら、そこでリスクを取るということは、さっきのように、雇用率を引き上げるのに使えると思っているか、人事担当者が熱い思いを持っているかのどっちかなんだと思う(思い込み)。

で、これは実感であるけれども・・・。視覚障害者である私が就職活動していて、きちんと話を聞いてくれた企業というのは、ぶっちゃけ、ほとんどなかった。一応、それなりに名の知れた会社でそれなりの期間働いていたのに、である(まあ、そういった点は実力主義の世界ではどうでもいい話)。未だに「視覚障害者はお断り」という企業さえ有った(もちろん、文句はたれておいたが)。

私の場合、結果的には2社ほど良いお話を頂くことはできたものの、エントリーした会社は、合計すると30社以上。まあ、これでも少ない方だわね。余談だけれど、この数字、10年前の視覚障害者の就職事情を加味してもちょっと少ないと思うが、今では健常者の人たちも30社とか50社とか100社とか応募してもだめなことが多いというのは・・・。悲しい世の中だ。

そういうことも考慮すると、個人的な感情としては、今回拾ってくださった会社や職場の担当者の方々には、大変お世話になり、そして、感謝をしておりまして、もう、なんというか、個人的には、「骨を埋めるつもりで働かないといかんなあ」という気持ちであります。すいません、ごめんなさい。最初の就職のときは、こういうリスクとか、そういうのは、あんまり頭にありませんでした。これからは一生懸命頑張りますから、ごめんなさい、ああああああああああ!

おっと、なんか話が逸れてきた。まずい徴候だ。Next please.

話は元に戻って・・・。

今検討していることの二つ目、「理由はなんでもいいが、転職や転社に積極的にチャレンジして自分を磨く」ということはどうか。メリットについてはリンクした記事に書いてあるので省略。

で、デメリットなんだけれども、おおざっぱに言えば、「健常者に関する一般論を障害者に適用するのは危険」ではないかと思う。すべてがだめだということではなく、「前提条件とか現状に相違点があるから注意が必要」という意味である。

具体的には、まず、そもそも障害者が置かれている状況として、「実力や努力や意欲に適合する受け入れ先が少ない」ということが言えるのではないか。これはマッチングとは少し違って、歴史的なたとえで言えば「女性の普通教育」みたいなものだ。要するに、門戸が開かれていない。そういうと大げさかもしれないが、私なりの考察を付け加えて言い換えれば、「一般的な中途採用者に対する期待値に比べて、障害者を中途採用する場合の期待値は、どうしても下げざるをえず、結局受け入れる環境を整える方向に力が働かない」ということだ。

また、こういうことを書くと怒られるだろうし、ショックを受ける人もいるかもしれないので、読者の皆さんは慎重になって頂きたいのだが・・・。

一度でも障害者採用をやったことがあれば経験的に分かると思うけど、障害者の育成は大変難しい。育てる側に経験が無いというのもあるし、当事者にとっても、障害の内容によっては成長が難しい部分もある。例えば、全盲にUMLで設計書を書けと言っても無理だし、全盲に紙の伝票を仕分けしろと言っても無駄だ。それで、そういうことを経験的に学習した企業は、障害者採用に慎重になる。リスクを軽減させるために、より軽度の障害者を雇って、自分たちの管理がしやすい方向へ方針を切り替えることも想像に難くない。

これが、新卒だったら、会社で育てていく覚悟を、ある程度は持てるかもしれないが、中途採用の場合は即戦力として会社の利益向上に直接的に貢献することが求められるわけである。すると、中途での障害者採用を見送ったり、あるいは軽度の障害者をルーチンワークをやらせる目的で雇ったりする感じになるのは、まあ、会社の立場からは理解できる。

こんな感じで、障害者がキャリアチェンジする場合は、たぶん裾野が狭まっているんじゃないかと思っている。まあ、妄想かもしれません。

それから、障害者の立場から考えても、デメリットがあることに触れておきたい。

それは、環境に適応するためのコストが大きいということである。先に述べたことと重複するかもしれないが、何にしても、職場に配属されたときに、高い水準で周囲の理解が得られるケースは少ないと思う。簡単に言えば「慣れるのに時間がかかる」のだ。

それこそ「障害は千差万別」というのが、あながち嘘でもないような感じである。障害の有無以前に皆人間なんだから、障害に対する配慮についていろいろ意見が異なったりすると思うが、障害者はそういうことをいちいち職場の人に説明しなきゃならないし、説明したところで理解が得られる確証はない。さらに、建物の設備や支援機器の導入が新規に必要な場合、それをどの程度受け入れてくれるかは会社の考え次第。仕事の内容や待遇ばかりに目がいって、そういった環境面で失敗するリスクも、当事者は考慮すべきだ。

ああ。安酒を飲んでいたら、だんだん胃が痛くなってきた。

そういうわけで、ほら、言ったでしょ。どっちとも言えないのです。なんか、この文章の流れだと、「同じところで働くのが良い」という結論になりそうだけど、それは俺が今そういう考えだからであって、実際は人それぞれ、いろいろあるんだよ。きっとね。

だから、もう一度言います。ごめんなさい。ほんと、すいません。これからは真面目に働きます。疲れない程度に。作業の進め方については手を抜きますが、成果物の品質については妥協せず頑張ります。

なんか、「結局この文章はなんだったんだ?」と、小一時間問い詰めたくなるような感じではあるけれども・・・。もう酔っ払ってきて、どういう風に収束させたらいいんだか分からなくなってきましたから、もう終わりにするわ。すいません。真剣に読んでいた人ごめんなさい。僕はこういう無責任な人間なんだ。教育実習の担当だった先生に「今、私、夫と家庭内別居状態なの」とか言われても、今の俺ならもう動じない。昔の俺は腰が抜けました。ごめんなさい。

こんなの、載せていいのかしら。まぁいいか。一応匿名だし。現代では、そう思っていても、割と簡単に個人が特定されちゃうから怖いもんだ。まぁ別にいいけど。さらしたりしないでね♪

ノスタルジー

ここのところ悩みが多いので、ちょっと、気晴らしに、4月まで勤めていた職場の近くまで行ってきた。まあ横浜なのだが・・・。

正直、行ったところで何かが変わるわけでもなく、考えがまとまるわけでもないが、なんとなく、もう一度この地に降り立てば小さいながらも影響はあるのではないか、との思いからだ。

結果的には、何もなかった。相変わらず駅は人ごみだらけで、「平日なのにこの人たちは何してんの?」と、自分にダイレクトで返ってくる突っ込みをひそかにしたり、かなり久しぶりだったけど案外歩行感覚を覚えてることを確認したり、それぐらいだった。さすがに、元職場のビルまで行く気にはなれなかったので、周辺をとりあえずブラブラしてきた。

まあ、確かに、電車の中でいろいろ考えることはあった。途中何回か引っ越しはしたものの、5年以上通った経路、自然と元職場のことが思い出される。大学生のころ、教育実習に行った学校までの経路も、確かこういう感覚だっただろうか。学校については、8年通ったので会社よりも長いのだけれど・・・。

その中で、現在自分がすべき選択についても考えを巡らした。どの選択をするにしても、結局はリスクとコストの問題。取りうるリスクは、過去の経験からなんとかなるにしても、コストをどう考えるか・・・。これが難しい。いや、選択によってリスクの内容も変わるので、新しいリスク要因もあるといえばあるのだが・・・。

あとは、どの選択をするかに関わらず、将来の変化についても予測しておかなければならない。しかしながら、全く経験のないことに関して予測するのは難しく、これを考慮すると、ある程度予測可能な選択肢が現実的ではないかという気分になる。

結局、結果が出ていないことも、悩むポイントも、昨日と同じまま。まあ、焦って結論を出すとろくなことはないので、何事も...。ゆっくり考えなければならないとは思うのだけれど、このままダラダラと決めかねているうちに、いずれ、決定的に選択しなければならないときがくる。おそらく2,3週間以内に。そのとき今のままだと、たぶん俺は何も決められない。

もう、自分で決めずに、時の流れに身を任せたいわ、ほんと。考えれば考えるほど「もう、出たとこ勝負でよくね?」という囁きも聞こえてきそうなぐらいだ。なんというか、「自分で出した結論の脆さ」に気づいてしまったから、こういう投槍になっちゃうのかもしれないんだが・・・。もう、ぶっちゃけ、「自分で決めたから正しい」とか「後悔しない」とか、幻想だったわ。自分で決めたって、後悔するときはする。うまくいくときはいく。ああ、そうか。問題は、「自分で決めたからなんとしても成功させるんだ!」っていう気合を持てるかどうかなのかな?まぁいいや。めんどくさい。

とりあえず、同じことをずっと考えていても何も解決しないから、今夜から明日にかけては、「iPhone6が発表されたら買うか否か」について悩むことにする。

「考えたら人生ってオッさんになってからの方が長いじゃねーか!恐っ!!」とか、「昨日の敵は今日もなんやかんやで敵」などのサブタイもいいなと思います。

さて。

今、とても悩ましいことになっている。詳細は書かないけど、あぁ悩ましい。

俺に選択の余地などなくて、基本的に取りうる選択肢は、理屈から言って決まっている。けれども、感情的にそれはどうかと思ってしまう。こういう状況は大変困るのである。

選択肢としてはいろいろあるので、別に「選択の余地が無い」というのは大げさなのだろうが、少なくとも、コストとリスクを考慮すると選択肢は一つに限定される、というのが今の状態。でも、そうではない選択に意味や価値があると考えたくなってしまう自分もいる。

分かる人に誤解の無いように補足すると、正直なところ、現状においては、可能性はわずかでもコストとリスクの低い選択肢を選ぶことがいいとは思っている。何事も、新しい環境に慣れるのには苦労するものだから・・・。恩義もあるし・・・。でも、同じように手を差し伸べてくれた人に対しても、やはり礼儀を尽くすべきだと思うし、自分自身、どうしたら良いか、ここ数日では判断できないのである。選んだ結果が正しいかどうかは、それこそ結果論で、後になってみないと分からないことだから。

ただ、「決めるなら今」という状況も変わりはないわけで・・・。本当に悩む。悩みすぎて夜も眠れない。

この文章、何年か経って読み返して、自分で理解できるかどうか知れないけど、とにかく俺は選択をしなければならないのだ。洗濯は明日やるけど、選択もしなきゃならない。

いやあ、ほんとのところ、「恩義に報いたい」です、はい。「一生お傍でお仕え申す」と言いたいところだけれども、やはり、大海原に投げ出されたときに、自分の手だけでは何も食っていけないという状態も良くはないと思うわけで・・・。正直、恩義に報いて頑張っても、技術は身につかない気がする・・・。そういうこともあって、やっぱ、新しい路も考えちゃう。embedded system developmentにも興味あるし。

とりあえず、悩みます。

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プロフィール

結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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