Black Lagoonからは、いろいろと学ぶものがあると思っている。原作は漫画なので残念ながら読めないけど、とりあえずアニメ化されているもので十分だ。

まあ、書き始めると終わらなくなるので、とりあえず、第15話の「Swan Song at Dawn」について。

初めに、この話は通算で大15話だけれど、セカンド・バレージとしては3話目に当たる。通算第13話と第14話、そしてこの第15話の3話で一つのエピソードとなっている。

さて、粗筋とかはWikipedia先生に譲るとして。私がこの話で気にいっている歌が一つある。以下のリンクはYouTubeにアップされているものだ。リーガルかどうかは、まあさておいて、ちょっと聴いてもらいたい。

Swan Song at Dawn, Ending

歌詞は英語っぽいのでよく分からないが、綺麗な歌声だ。そう、歌声は天使のそれだ。

しかし、この歌は、「ヘンゼルとグレーテル」とバラライカたちから呼ばれていた、殺しを辞められない屑餓鬼の妹の方が歌ったものだ。第13話と第14話では、なかなかのガンマンっぷりと残虐な殺害方法、死体で遊ぶシーンなどが描かれていたが、それらとは全く対照的でアル。

フィクション作品に対して考えることは無駄だと承知で書くが、なぜ彼女はこうも2面的な側面を見せたのだろうか?その背景にはいったい何があったのだろうか?

これを考える上で欠かせないのは、前述の歌が、ロックの前で歌われたということだ。ロックは、まあWikiにいろいろ乗ってると思うが、社会の暗部に入り込んで日が浅い人間だ。だとするならば、グレーテルは、闇を生きる人間たちの中にも、ロックに何か違うもの・・・、そう、それは、闇ではなく、光のようなものを直感的に感じたのではないか?

グレーテルは歌を歌い終わったあと、船のキャビンにいて、海が見られないことについて、このような言葉を発している。引用しよう。

あ~あ、海。せっかく海に来てるのに、ちっとも見ることができないわ。残念。

これに対して、ロックは「海は・・・見たことがないのかい?」と問いかける。するとグレーテルは次のように返答した。長くなるが、引用しよう。

シチリアに居たときも、その前の孤児院でも、見てたのは灰色の壁ばっかり。産まれたのはカルパチアの岩山の中。いつも曇ってばかり。 (中略) シチリアに引き取られてからはずーっと血と闇の中。死ぬほど蹴られて真っ赤なおしっこが止まらない日もあったわ。 兄様とは、よく話してたわ。どうして神様は・・・私たちに、こんなにも、つらく当たるのだろう。 でもね、私と兄様は気づいたの。他の子が私たちの前につれてこられて、泣いているその子をバットで繰り返し、たたいた時にね。・・・大人たち笑ってた。私も兄様も笑った。笑いながら思ったの。これは仕組みなんだって・・・。そう、だれかを殺すことで世界が回り続けているのなら、・・・私たちがここに居る理由も、また、それだけなの。殺し、殺され、また殺して。そうやって世界はリングをつぐむのよ。 (以下略)

なんか、ただ見てるだけだと、すーっと耳を通り抜けていくだけだった台詞が、このように文字にしてみると、ひどく残酷なものに感じる。もう書くのを辞めたいけれど、私は向き合わなければならない。なぜかと問われれば、ただの趣味なのだが。

そして、以下のロックの台詞にも共感を禁じ得ない。再び引用する。

違う!違うんだよ!世界は、ほんとは、君を幸せにするために、あるんだよ!いいかい、血と闇なんか、世界のほんの欠片でしかないんだ。すべてなんかじゃ、ないんだ・・・。

正直なところ、これらの台詞を聞いたところで、今までの私ならば、大した感情も覚えなかっただろう。だが、なんというか・・・。この作品以外の部分で感じるようになったことも含めてなのだが・・・。何かによってだれかが救われ、人間が人間らしく振る舞える環境もあれば、救いを求めること自体がリアルではない環境もある。日本流の言葉を使うならば、「臭い物に蓋をする」のではなく、直視し、考え、感じ、そして再び考え、行動する。そうした一連の活動がシビアに必要なことも、あるのだと・・・。最近はそう思うようになった。頭では「差別はNG」と分かっていても、インプリンティングされた情報を書き換えるのは容易な作業ではなく、偽善的にそれを行っている人々も目にしてきた私にとって、偽善ではない、真の善とは何か?という、非常に難解な問題を突きつけられた思いもある。

そもそも、グレーテルの出所は、とある独裁者(たぶんルーマニアのやつだ)が、労働力不足を補うために妊娠中絶を禁止したが、貧しい国に子供を育てられる訳もなく、孤児になった子供たちが秘密警察の要員供給源になった・・・、というロックの説明に求めることができる。人間的な要素を残しつつも、必要ならば無慈悲に残虐に敵を殺す能力は、そうした秘密機関や軍の特殊部隊に必要とされる技能だ。

だからこそ、「また、いつか・・・、また、いつか会いましょうね。今度は二人で・・・ランチバスケットを持って・・・」と言い残して殺されたグレーテルを、表面的には、憂うでもなく、極めて冷静に葬り、弔ったロックの姿は、見習わなければならないと思う。

ただ、そうできるまでには、ロックの葛藤があったのだろう。「Damn it!」とどうしようもない怒りを口にしながら、「皆が、よって、たかって、あの子を虎(monster)に仕立てたんだ!人食い虎(fuckin' monster)にしちまったんだ!」とわめきながら、ベニーに諭され、そして、きっとロックは理解したのだ。ベニーの助けもあっただろう。

ああいうものを真っ直ぐ見るな。(中略)だれかが、ほんの少し優しければ、あの子たちは学校に通い、友達を作って幸せに暮らしただろう。でも、そうならなかったんだよ、ロック・・・。だから・・・、この話はここで終わりなんだよ、ロック。

そして、結局、ロックは、やっとオープンになり、空を仰ぐことができたグレーテルを受け入れた、ように思う。それが、死体だったとしても。

改めて書くが、あくまで、Black Lagoonはフィクション。実際の出来事ではない。ただ・・・。神に祈ることも許されなかった人たち(子たち)がいて、たぶん、それは今でも、世界のどこかで、同じようにいる。私たちが祈ることは容易いが、現実的に救うのは極めて困難だし、とても勇気がいることだ。だとするならば、せめて、彼らが、彼らの信じる神に祈ることができる世界になるよう、私たちが祈るぐらいしか、私たちにはできることがないのかもしれない。

まあ、そういう、つまらない話です。

ちなみに私は「Pessimistic realist」を自称している。けれど、どうも最近EQが上がってきてるような気がしてならない。まあ、EQの高低は人格的な優劣をつけるものではないと分かっているけど、EQ高い人になっちゃったんだなあ、俺・・・みたいな、不思議な感慨はありますね。だいたい、Black Lagoon見て、こんな無駄な文章を書くようになっちまったってのが、「俺、変わったわ」と思う瞬間なのであった。

以上。