葛藤 一覧

Black Lagoonからは、いろいろと学ぶものがあると思っている。原作は漫画なので残念ながら読めないけど、とりあえずアニメ化されているもので十分だ。

まあ、書き始めると終わらなくなるので、とりあえず、第15話の「Swan Song at Dawn」について。

初めに、この話は通算で大15話だけれど、セカンド・バレージとしては3話目に当たる。通算第13話と第14話、そしてこの第15話の3話で一つのエピソードとなっている。

さて、粗筋とかはWikipedia先生に譲るとして。私がこの話で気にいっている歌が一つある。以下のリンクはYouTubeにアップされているものだ。リーガルかどうかは、まあさておいて、ちょっと聴いてもらいたい。

Swan Song at Dawn, Ending

歌詞は英語っぽいのでよく分からないが、綺麗な歌声だ。そう、歌声は天使のそれだ。

しかし、この歌は、「ヘンゼルとグレーテル」とバラライカたちから呼ばれていた、殺しを辞められない屑餓鬼の妹の方が歌ったものだ。第13話と第14話では、なかなかのガンマンっぷりと残虐な殺害方法、死体で遊ぶシーンなどが描かれていたが、それらとは全く対照的でアル。

フィクション作品に対して考えることは無駄だと承知で書くが、なぜ彼女はこうも2面的な側面を見せたのだろうか?その背景にはいったい何があったのだろうか?

これを考える上で欠かせないのは、前述の歌が、ロックの前で歌われたということだ。ロックは、まあWikiにいろいろ乗ってると思うが、社会の暗部に入り込んで日が浅い人間だ。だとするならば、グレーテルは、闇を生きる人間たちの中にも、ロックに何か違うもの・・・、そう、それは、闇ではなく、光のようなものを直感的に感じたのではないか?

グレーテルは歌を歌い終わったあと、船のキャビンにいて、海が見られないことについて、このような言葉を発している。引用しよう。

あ~あ、海。せっかく海に来てるのに、ちっとも見ることができないわ。残念。

これに対して、ロックは「海は・・・見たことがないのかい?」と問いかける。するとグレーテルは次のように返答した。長くなるが、引用しよう。

シチリアに居たときも、その前の孤児院でも、見てたのは灰色の壁ばっかり。産まれたのはカルパチアの岩山の中。いつも曇ってばかり。 (中略) シチリアに引き取られてからはずーっと血と闇の中。死ぬほど蹴られて真っ赤なおしっこが止まらない日もあったわ。 兄様とは、よく話してたわ。どうして神様は・・・私たちに、こんなにも、つらく当たるのだろう。 でもね、私と兄様は気づいたの。他の子が私たちの前につれてこられて、泣いているその子をバットで繰り返し、たたいた時にね。・・・大人たち笑ってた。私も兄様も笑った。笑いながら思ったの。これは仕組みなんだって・・・。そう、だれかを殺すことで世界が回り続けているのなら、・・・私たちがここに居る理由も、また、それだけなの。殺し、殺され、また殺して。そうやって世界はリングをつぐむのよ。 (以下略)

なんか、ただ見てるだけだと、すーっと耳を通り抜けていくだけだった台詞が、このように文字にしてみると、ひどく残酷なものに感じる。もう書くのを辞めたいけれど、私は向き合わなければならない。なぜかと問われれば、ただの趣味なのだが。

そして、以下のロックの台詞にも共感を禁じ得ない。再び引用する。

違う!違うんだよ!世界は、ほんとは、君を幸せにするために、あるんだよ!いいかい、血と闇なんか、世界のほんの欠片でしかないんだ。すべてなんかじゃ、ないんだ・・・。

正直なところ、これらの台詞を聞いたところで、今までの私ならば、大した感情も覚えなかっただろう。だが、なんというか・・・。この作品以外の部分で感じるようになったことも含めてなのだが・・・。何かによってだれかが救われ、人間が人間らしく振る舞える環境もあれば、救いを求めること自体がリアルではない環境もある。日本流の言葉を使うならば、「臭い物に蓋をする」のではなく、直視し、考え、感じ、そして再び考え、行動する。そうした一連の活動がシビアに必要なことも、あるのだと・・・。最近はそう思うようになった。頭では「差別はNG」と分かっていても、インプリンティングされた情報を書き換えるのは容易な作業ではなく、偽善的にそれを行っている人々も目にしてきた私にとって、偽善ではない、真の善とは何か?という、非常に難解な問題を突きつけられた思いもある。

そもそも、グレーテルの出所は、とある独裁者(たぶんルーマニアのやつだ)が、労働力不足を補うために妊娠中絶を禁止したが、貧しい国に子供を育てられる訳もなく、孤児になった子供たちが秘密警察の要員供給源になった・・・、というロックの説明に求めることができる。人間的な要素を残しつつも、必要ならば無慈悲に残虐に敵を殺す能力は、そうした秘密機関や軍の特殊部隊に必要とされる技能だ。

だからこそ、「また、いつか・・・、また、いつか会いましょうね。今度は二人で・・・ランチバスケットを持って・・・」と言い残して殺されたグレーテルを、表面的には、憂うでもなく、極めて冷静に葬り、弔ったロックの姿は、見習わなければならないと思う。

ただ、そうできるまでには、ロックの葛藤があったのだろう。「Damn it!」とどうしようもない怒りを口にしながら、「皆が、よって、たかって、あの子を虎(monster)に仕立てたんだ!人食い虎(fuckin' monster)にしちまったんだ!」とわめきながら、ベニーに諭され、そして、きっとロックは理解したのだ。ベニーの助けもあっただろう。

ああいうものを真っ直ぐ見るな。(中略)だれかが、ほんの少し優しければ、あの子たちは学校に通い、友達を作って幸せに暮らしただろう。でも、そうならなかったんだよ、ロック・・・。だから・・・、この話はここで終わりなんだよ、ロック。

そして、結局、ロックは、やっとオープンになり、空を仰ぐことができたグレーテルを受け入れた、ように思う。それが、死体だったとしても。

改めて書くが、あくまで、Black Lagoonはフィクション。実際の出来事ではない。ただ・・・。神に祈ることも許されなかった人たち(子たち)がいて、たぶん、それは今でも、世界のどこかで、同じようにいる。私たちが祈ることは容易いが、現実的に救うのは極めて困難だし、とても勇気がいることだ。だとするならば、せめて、彼らが、彼らの信じる神に祈ることができる世界になるよう、私たちが祈るぐらいしか、私たちにはできることがないのかもしれない。

まあ、そういう、つまらない話です。

ちなみに私は「Pessimistic realist」を自称している。けれど、どうも最近EQが上がってきてるような気がしてならない。まあ、EQの高低は人格的な優劣をつけるものではないと分かっているけど、EQ高い人になっちゃったんだなあ、俺・・・みたいな、不思議な感慨はありますね。だいたい、Black Lagoon見て、こんな無駄な文章を書くようになっちまったってのが、「俺、変わったわ」と思う瞬間なのであった。

以上。

こんなことを、この場で書いてもしょうがないんだけど、でも書かないのは書かないでうっぷんも貯まるし、書くのだけれども・・・。

最近あまり心身共によろしくない。まあ、どっちかっていうと精神面が非常にまずいことになっている。自覚できているうちはまだいいんだけど、制御できなくなったら・・・というか、もう制御できなくなりかけているので困ったものである。

まずは金遣いがおかしい。バランスシートを書けと言われたら明らかにNGなレベルである。PRSのギターとESP Horizonをオーダーしている時点で、婚約指輪が二つほど買えるぐらいの値段にはなってる。他にも、PCモニターの代わりにテレビを買ったり、コーヒーメーカーを買ったり、異常に宅配ピザを注文したり、ビール(プレモル)を買ったり、あと楽器周りでいうとコンパクトエフェクタとかミキサーとか買いあさった。

「どこにそんな金があるんだ?」と言われれば、まあ、あるにはあったんだけど、半分はローン。これから重くのしかかってくるのだ。

次に、今までに無くストレスがたまる。っていうか、生きてることがストレスに感じる。路を歩くにしても人に気を遣ってるし、電車は人だらけだし、会社は会社で読めないExcelオブジェクトを(なんとかテキスト変換してもらってはいるが)読まなきゃならんし、家でタバコ吸えないし(ただしこれは開襟すればいいんだけど臭くなるからいやだ)、通勤しなきゃならんし(30分ぐらいならいいけど片道1.5時間はやっぱ長い)・・・。いくつかは自分の選択によるものなので、まあそれをなんとかすりゃいいのだが・・・。

あと、これが最も深刻なのだが・・・。最近、自分が何者なのか分からない。自分が何者で、今何をしていて、どこへ向かっているのか、ふわふわしている。もちろん、パソコンで文字を打ってるとか、そういうのはあれなんだが、人生の進み方的なこととか、日々の過ごし方的なこととか・・・。

僕はお金をもらってITの仕事をしている。でも、趣味では楽器も好きだし、IT(仕事とは別の領域)も好きだし、酒も好きだし、朝のテレビを見ながらツイッターするのも好きだし、野球も好きだし、アニメも好きだし、音楽も好きだし、討論番組も好きだし・・・。

そして、たぶんこれが核心なんだけど。「こんな生き方をしてみたい」というモデルの人とか、モデルの分野が自分の周りに溢れていて、それが先行してしまってをおいてけぼりにしている。

おいてけぼりにされたは、サボタージュという形で今の僕の生活に出現するわけだが、前述のように金遣いがおかしいので、例えば明確なビジョンがあっても、そこにたどり着くための行動が伴っておらず、ほんとにただの非生産的な時間を死んだように生きているだけの、存在価値のない自分がここにいる状態になってしまってる。

こうなってしまっている要因は、おそらく次のとおり。

  1. 仕事にやりがいが感じられない。去年仕事を辞めるときは、引き継ぎなんかがそれなりに大量にあってモチベーションも高かったのだが、今の仕事は、生産性を求められるわけでも無く、全体的なスケジュールはあるものの個別スケジュールはそこまで僕には重視されないので、優先度もつけようがない。そして最悪なのが「オブジェクトだらけのExcelファイル」。もちろん読める形に直してはもらってるけど、それでもすべてが分かるわけではなく、やむを得ず、オブジェクトのセル番地を頼りにいったいどんな図が書かれているのか理解する日々・・・。発狂しそうだ。まあ、これについては、先ほど上司からLINE責めにあって、ちょっと、薬品の力もあって言いたいことを言ったので、何科変わるかもしれない。ただ、仕事に変化があっても、以下の要因がある限りは何も解決しないかもしれない。これは上司には内緒だけど、まあどうせ読んでるだろうから、おさっしください。
  2. 将来自分のやりたいことが見えてきた。去年一度目の転職をしてすぐ辞めたあと、二度目の転職をするまでの期間、基本的には会社勤めを考えて活動していたわけだが、ちょっとだけ、別の路を考えてみたこともあった。フリーランスだ。まあ僕の力量じゃ無理なことは、履歴書を書きながらすぐ理解したのだけれど・・・。しかし、とりあえず就職できて、経済的な基盤が整ってくると、そのとき考えていたことをちょっと真剣に考えるようになり、いくつかビジョンができてきた。いずれも、事業として成り立つかは不明だし、今の状態では財力も人脈も知識もない。けれど、ずっと会社勤めをしていれば安定的な給料が保証されるであろう今の会社も、やっぱり一度目の転職を考えたときに「この先晴眼者の世界で生きていけるのだろうか?」という不安がよぎったように、同じ不安が再燃してきている状況。採用担当の方には「末永く・・・」と法定雇用率の臭いがプンプンする言葉を言われ、口頭で僕も「はい」と言った。でも、様々なことが変革しようとしている今、障害社にはそれがベストなキャリア設計であったとしても、やりたいことのビジョンがある程度固まってきてしまった今、僕にはそれが難題なのだ。ただ、生活のこともあるので、経済的に、ビジョン通りのことに専念できるかは分からない。だから保険もかけておきたい。具体的にここには書けないが、そういう微妙なことができるものか・・・。ずっと考えている。むしろ、今やるべきことを差し置いてそっちをよく考えている。

まあ、いろいろ思いはあるのだけれど、そういうことを考えていると、全然寝られなくて、ここのところ毎日1時間か2時間しか眠れていない。キーボードたたくのやめて寝る準備しろというご指摘もあるだろうが、まあ、それは今はできない。

あと、朝頑張って仕事行って帰ってくると、なんかそれだけで疲れ切ってしまって、もう野球を聴くぐらいしか気力が残ってない。そして致命的なのは、その次の日、身体が動かないのだ。寝られないから起きてはいるんだけど、起き上がれない・・・。そういう悪循環もある。

20代前半のときは、ほんとにこんな風に体調を崩すこともなかったんだけど、なんで僕はこうなってしまったんだろうか・・・。

ときどき、外国では視覚障害社はどうやって働いているのか気になることがある。あっちは有期雇用で働くのが一般的なのであるが、その辺のことを踏まえて、日本と外国ではどっちが働きやすいんだろう、障害社は。まあ、アメリカと欧州で差はあると思うけど、でも、三十路を前にして、一度そういう世界に飛び出してみたいという気持ちも、ちょっとはある。英語話せないから無理だけど。

でも、ツイッターのフォロワーさんで海外経験のある視覚障害社の方のツイートを拝見していると、語学力とか生活経験はベースとして必要だけど、向こうの方が、今より夢を持って働けそうな気もする。まあ、僕には夢物語だけど・・・。

日本史か知らない僕は、生きているうちに、アメリカぐらいには言って、向こうの視覚障害社とも交流したいなあと考えていたりはする。実現できるかどうかは僕の行動次第なんだろうけど・・・。

まあ、そろそろ終わりにするけど、そういうことを真面目に考えていると、将来のために今を棒に振ってしまう自分になっちゃって、すっごく自分がいや。

いっそ、ペンギンの帽子をかぶった女の子が「きっと何者にもなれないおまえたちに告げる」とかいってあれこれしろと命令してくれれば、簡単に生きられるのに・・・。

「何者か」になりたい自分と「何者にもなれない状況」のバランスを均衡させて、自分を安定させるには、いったいどうしたらいいもんかね。

さあ、今日も眠れないのかしら。お腹が空いてきたから何科食べよう。

ここ数日、お酒を飲むと、肋骨と胃がすごく痛むので、何日か酒を飲むのはやめようと思う本日。

さて。鳥インフルエンザの関係で今年も殺処分の話題が出ている。毎年毎年思うのだけれども、家畜の殺処分のニュースについては、どうにもやるせない気持ちになる。

理屈は理解できる。確かに、他所へ病気が感染拡大するのは好ましくないし、そういった観点では、既に感染している可能性のある家畜を全部殺した方が効率的で確実だ。

ただ、人間の食料として頂くならともかく、本来の目的とは違う形で、意図的に命を奪われる動物たちのことを思うと、あまり良い気分にはなれない。まあ、動物に感情があるかどうかとか、そういう面倒な議論はあるだろうが。

しかしながら、僕は確実だと思っているのだけれど、家畜の飼い主と、殺処分する保健所の職員は、どうにもならない不条理に苦しんでいるのではないだろうか。

飼い主はいうまでもない。経済的な面もあるだろうし、いくら家畜とはいえ手間暇かけて育てているのだから、殺処分が合理的な対処策で有ることを認識していたとしても、そう簡単に納得はできないんじゃないか。

一方、保健所の職員だって、ほとんどの場合は気分の良いとは言えない仕事だろう。別に動物愛護にとりわけ関心があるわけではなかったとしても、自らの手で動物を殺すのだから。ごく希に、そういう仕事に高揚感を抱く人がいるかもしれないけど、そういう人は警察へどうぞ。まあ、伝染病に限らず、犬猫の処分についての問題もあるので、いずれにしても「どうなんだろう?」という問題である。

残念ながらそんなことを僕が思ったところで何も解決しないわけだけれども、人間の都合において正当な理由で奪われる命もあれば不条理な理由で奪われる命もあることを認識し、少なくとも正当な理由で奪われる命には感謝をし、不条理な理由で奪われる命には、せめてもの敬意と、やはり感謝を送らねばならない・・・。という気持ちで日々を過ごしたいと思う。

ところで、殺処分の当事者たちのことって本になってないんだろうか?探せばあるかもしれないね。

でも無いかもしれない。以前、死刑執行人の苦悩について書かれた本を読んだことがあるが、著者によれば、彼らは自分の心境について話すことを、かなり強く拒んでいたようだ。その本は苦労の末に得られた数人の証言を元に構成されていたのだが、まあ、農家や保健所職員に取材したところで、そんなに状況は違わない気もする。

何にせよ、僕がどう考えようが、伝染病が出たら家畜は殺されるし、通常通り塗擦された家畜も食肉加工されて商品になり売れなければ廃棄されてしまうし、結局何も変わらない。なんかねえ・・・。そういうことを考えるのは、それこそ無駄の境地であるように思うけど、悪いけどそういうことを、そう高くはない頻度でもいいからちゃんと考えて、私たちがどれだけ豊かであっても、その犠牲になっている命があることを認識しなければならないと思う。

まあ、いいや。ここ最近、酒を飲むと胃が痛くなるのもそうだけど、普通に食事しただけでも胃が痛いのよ。ああ、残念。

ノスタルジー

ここのところ悩みが多いので、ちょっと、気晴らしに、4月まで勤めていた職場の近くまで行ってきた。まあ横浜なのだが・・・。

正直、行ったところで何かが変わるわけでもなく、考えがまとまるわけでもないが、なんとなく、もう一度この地に降り立てば小さいながらも影響はあるのではないか、との思いからだ。

結果的には、何もなかった。相変わらず駅は人ごみだらけで、「平日なのにこの人たちは何してんの?」と、自分にダイレクトで返ってくる突っ込みをひそかにしたり、かなり久しぶりだったけど案外歩行感覚を覚えてることを確認したり、それぐらいだった。さすがに、元職場のビルまで行く気にはなれなかったので、周辺をとりあえずブラブラしてきた。

まあ、確かに、電車の中でいろいろ考えることはあった。途中何回か引っ越しはしたものの、5年以上通った経路、自然と元職場のことが思い出される。大学生のころ、教育実習に行った学校までの経路も、確かこういう感覚だっただろうか。学校については、8年通ったので会社よりも長いのだけれど・・・。

その中で、現在自分がすべき選択についても考えを巡らした。どの選択をするにしても、結局はリスクとコストの問題。取りうるリスクは、過去の経験からなんとかなるにしても、コストをどう考えるか・・・。これが難しい。いや、選択によってリスクの内容も変わるので、新しいリスク要因もあるといえばあるのだが・・・。

あとは、どの選択をするかに関わらず、将来の変化についても予測しておかなければならない。しかしながら、全く経験のないことに関して予測するのは難しく、これを考慮すると、ある程度予測可能な選択肢が現実的ではないかという気分になる。

結局、結果が出ていないことも、悩むポイントも、昨日と同じまま。まあ、焦って結論を出すとろくなことはないので、何事も...。ゆっくり考えなければならないとは思うのだけれど、このままダラダラと決めかねているうちに、いずれ、決定的に選択しなければならないときがくる。おそらく2,3週間以内に。そのとき今のままだと、たぶん俺は何も決められない。

もう、自分で決めずに、時の流れに身を任せたいわ、ほんと。考えれば考えるほど「もう、出たとこ勝負でよくね?」という囁きも聞こえてきそうなぐらいだ。なんというか、「自分で出した結論の脆さ」に気づいてしまったから、こういう投槍になっちゃうのかもしれないんだが・・・。もう、ぶっちゃけ、「自分で決めたから正しい」とか「後悔しない」とか、幻想だったわ。自分で決めたって、後悔するときはする。うまくいくときはいく。ああ、そうか。問題は、「自分で決めたからなんとしても成功させるんだ!」っていう気合を持てるかどうかなのかな?まぁいいや。めんどくさい。

とりあえず、同じことをずっと考えていても何も解決しないから、今夜から明日にかけては、「iPhone6が発表されたら買うか否か」について悩むことにする。

「考えたら人生ってオッさんになってからの方が長いじゃねーか!恐っ!!」とか、「昨日の敵は今日もなんやかんやで敵」などのサブタイもいいなと思います。

さて。

今、とても悩ましいことになっている。詳細は書かないけど、あぁ悩ましい。

俺に選択の余地などなくて、基本的に取りうる選択肢は、理屈から言って決まっている。けれども、感情的にそれはどうかと思ってしまう。こういう状況は大変困るのである。

選択肢としてはいろいろあるので、別に「選択の余地が無い」というのは大げさなのだろうが、少なくとも、コストとリスクを考慮すると選択肢は一つに限定される、というのが今の状態。でも、そうではない選択に意味や価値があると考えたくなってしまう自分もいる。

分かる人に誤解の無いように補足すると、正直なところ、現状においては、可能性はわずかでもコストとリスクの低い選択肢を選ぶことがいいとは思っている。何事も、新しい環境に慣れるのには苦労するものだから・・・。恩義もあるし・・・。でも、同じように手を差し伸べてくれた人に対しても、やはり礼儀を尽くすべきだと思うし、自分自身、どうしたら良いか、ここ数日では判断できないのである。選んだ結果が正しいかどうかは、それこそ結果論で、後になってみないと分からないことだから。

ただ、「決めるなら今」という状況も変わりはないわけで・・・。本当に悩む。悩みすぎて夜も眠れない。

この文章、何年か経って読み返して、自分で理解できるかどうか知れないけど、とにかく俺は選択をしなければならないのだ。洗濯は明日やるけど、選択もしなきゃならない。

いやあ、ほんとのところ、「恩義に報いたい」です、はい。「一生お傍でお仕え申す」と言いたいところだけれども、やはり、大海原に投げ出されたときに、自分の手だけでは何も食っていけないという状態も良くはないと思うわけで・・・。正直、恩義に報いて頑張っても、技術は身につかない気がする・・・。そういうこともあって、やっぱ、新しい路も考えちゃう。embedded system developmentにも興味あるし。

とりあえず、悩みます。

愚痴

一応ですね、あれこれ考えて相談してさらに考えた結果、6月30日で職場を退職しまして・・・。まさか、同じ年に、退職のご挨拶のお菓子配りを2回もやるとは思わなかった。ちなみに、4月に退職したところはデパートで買った、割と良い値段するお菓子だったけど、今回退職した職場のは、コージーコーナーです。

それはいいけど、まあ、退職の原因は、いうろいろ書いたことが貯まりに貯まりまして、結局は「ミスマッチだった」ということです。入社を決める前の面接で、あまり深いところまで尋ねないで、簡単な業務内容と期待されていることを聞いてOKしたものの、入ってからの事情と想像が結構違っていて・・・。

まぁ、前にも書きましたけど、「楽そうだったから」という理由は結構大きかった。でも、楽だからいいってもんでもないし、聞くのとやるのじゃぜんぜん違って、楽そうだと思ってたことも結構大変だった。普通はそこでもう少し我慢すべきところだったんだろうけど、体調も崩しちゃったし、結局、早期撤退をして、アベノミクスで多少景気が上向いているときに次の行動に出る方が得策だという考えもあり、早々に退職することにしたわけである。

しかしながら、6年前、大学院を辞めて就職活動したときとは、障碍者の求人事情は結構変化している。個人的に、前前職のグループ企業にはなかなか出向けないという事情もあるし、何より、当時に比べて契約社員の求人が圧倒的に多い。私が以前書いたエントリーで指摘したように、企業も知恵をつけていて、うまいこと法廷雇用率を満たすための、企業として合理的な手法をどうやら確立したようだ。

前前職の会社が、合同面接会に出展するということも見かけたので、掛けこみたいきもちはやまやまですが、まぁ、別ルートで難しい旨を聞いているから、さすがに、そこにはいけないしなあ。そう考えると、あの会社は、他のいろいろな企業に比べて、誠実だ。業務遂行に対して「愚直にやれ」と口うるさく教育するだけのことはある(これは褒めているのだが・・・)。

まぁ、どうにもこうにも、すぐにでも就職しないと経済的に苦しいから、あんまりゴチャゴチャ言ってられんのだけど・・・。

でも、これを契機に、自分でやってみたかったことを、自分のやり方でやってみるチャンスでもある気はしている。当然、収益モデルもなければ、具体的にまだ形になっていないので、そんなことしても金にはならんのだけど、せめて、就職が決まるまでの、数か月か数年か、取り組む時間は確保できるので、やってみるだけはやってみようかな。

現状のところ一番のネックは、経済的な部分。調子に乗って高い家賃の部屋に去年引っ越したもんだから、とりあえずそっちのやりくりが大変。こんなことなら、欲を出さずに堅実に横浜の会社で働いてればよかったと思う。でも、そのとき、別の、割と魅力的な誘いを受けちゃったからね、そっちに鞍替えした結果、こうなってしまったのだけど・・・。

すべては自己責任。当時は、何に対しても「それがベストの選択化どうかは分からないが、自分が選んだのだから信じるしかない」というスタンスで過ごしてきた。

けれど、今となっては、そういう、ライフプランを左右するようなことから、スーパーで買った食品のことまで、全部「これでよかったんかね?」と後悔にも似た感情を覚えることがとても多い。あえて具体的な相談を人にせずに決めてきたもんだから、後悔するとしても全部俺の責任なんだけど・・・。

職探しをしていても、なんだか、どうしてもこれまでの業務スタイルが脳裏をよぎって、「あんな働き方は二度とできないんだろうな」と思うと、新しいところに行けたとしてやってけるか?という不安も込み上げてくる。前前職の職場は、会社としてどう思うかは別として、職場は大変に働きやすい場所であった。まぁ、主任におかれましては、いろいろご配慮いただいたことと存じますが、それに、他の社員からは「もっと働けよ」とか思われていたのかもしれないけど、それは、まあ・・・。ある意味、障害を理由に楽させてもらってた面はあります。だからこそ、たぶん、もうそんな職場はない。

そいでまあ、俺はいったいこれからどうなるんだろうね。なんか、ぶっちゃけ、東京じゃなくて、地方というか実家のそばで仕事ができるならそっちへ行きたいけど、それはまぁ無理なんだよなあ。仕事ないし。となると、やっぱり関東近辺で仕事するんだけど、東京もね~・・・。そろそろ故郷に帰りたいよ。複数拠点間で仕事をするような会社だってあるだろうから、その、実家に近い地方の支店とかで働けないもんかな。

と、まあ、愚痴でした。以上。

持久戦へ

  • 葛藤

本日、我が軍が攻勢を開始したものの、敵軍の防衛線付近で膠着状態となった。敵味方、共に損害は甚大であり、今後は持久戦に移行する見込みである。

ただ、我が軍は、善戦でばらまかれた敵の宣伝ビラに惑わされ、戦争目的を見失った。戦闘の継続は困難を極める。

今後は、戦略的撤退をするのか、あるいは戦術予備軍を投入してあくまで防衛線突破を試みるのか、政治的判断が必要である。戦略的撤退を選択する場合、いかにして有利な条件で撤退できるかも検討がひつようである。

以上で戦闘概況の報告を終了する。正直言って、我が軍には「絶望」というネガティブな感情が蔓延しており、これを排除するにはかなりの努力を要するとみられる。

人生に迷う(マジ)

今回は、本当に迷っている。「水樹奈々のレコードをどの店で買おうか」みたいな適当な悩みではなく・・・。

ツイッターではさんざん文句をたれているんだけど、5月に入社したばかりだというのに、その会社の雰囲気と前職の雰囲気が違い過ぎて、戸惑い、パワーを吸い取られている。ここ数日も、もんもんと布団の中で毎日17時間ほど思考を巡らせていた。

あれこれと即断するのはよくないし、そういう、もんもんとした気持ちを黙っているのは誠実でないので、とりあえず、明日、頑張って自分の思いを伝えてみようかと思っている。たぶん、全面的に今の仕事を否定することになるが、言いたいことは言わなきゃいかん。入って間もない下っ端が言ってどうにかなることじゃないし、生意気だと思われるかもしれんが、それならそれで相手の考え方も分かるというものだ。決めるのは、それからでも遅くないかな。

職場は悪くないんだと思う。待遇(=給料)は前より良いし、まぁ福利厚生は前の方がいいけど、人間関係も悪くはない(ただ、肯定的な見方をすればアットホームなんだけど、おせっかいで俺としてはめんどくさいこともある)。

問題は業務内容。内定をもらう前に、もっと掘り下げて聞いておくべきだった。なんとなく職場見学で「こんなもんか」と思ったり、アルバイトで経験がある仕事だったからそんなにきちんと見なかった。それに、面接のときはもう少し別のことも聞いていたんだけど、どうもそれも影が見えない。

ただ、業務内容については、「聞いた話とまるで違う」ということはざらのようなので、あまり文句は言えないんだけど・・・。でも、もっとちゃんとやってるかと思いきや、生産物のプロセス管理や品質管理なんか「概念すら存在してない」状態で「え?」ってなったし、デザイン定義書もないし、情報共有インフラもないし、製作プロセスが手動で、成果物の品質が悪すぎだし・・・。

挙げ始めたらきりがない。「だから流せ」とも言われたけど、なんというか、今まで培ってきた、俺の「業務に対する認識とかプライド」みたいなのが、「これは流しちゃいかん!」と思わせている。長いものには巻かれろ、という言葉でいうなら、甘んじてこの「いい加減な状態」を受け入れるのがもっともなのだろうけど、それじゃ俺は納得できない。

少なくとも、これらを意識する気があるのかないのか。それから、生産プロセスを見直して、将来の変革に対応する準備があるのかないのか。これだけは問いたださないと、俺の気が収まらない。それで嫌われてもいいや。もし、何も考えていなかったり、必要のないことという返事だったら・・・。決断しよう。

ま、ここまでは俺のちょっとした思い、なんだけど・・・。

結局、俺の人生って、なんなんだろう。大学までは順調に卒業したけど、大学院では在籍する意義を見出せず辞めて・・・。その後運良く就職できて、途中いろいろあったけど、それなりに業務経験も積んだ。そして、「さて、新しい場所で俺の夢を!」と思った矢先、思わぬところで躓いて・・・。

まぁ、転職については、夢は当然あったけど、でも、ぶっちゃけ、「今の仕事の方が楽かな」と思ってた面はあった。ところが、とんでもない。ITの業務でいえば『工程管理』に当たる部分がいい加減なのもあるけど、何より担当作業が半端なく神経使う。前の会社で「席がプリンタの横だとうるさくない?」と気を遣ってくれていた優しい方々がいましたけど、プリンタの音なんてとんでもない!1日中プリンタがガーガー用紙を吐き出してる横で作業する方が17倍ぐらいましです!

まぁ、俺の場合は、自分で自分を追い込んでるだけ、というのもあるので、あまり同情されるような悩みではないと思うけどね、個人的には。だからこそ、俺にとっては死にたくなるほど悩ましいことなのだ。

ちなみに、今の作業内容が永遠に続くようなら、僕は発狂して何かしでかすかもしれない。そうならないように祈りたいもんだ。

線と点

私は、人生って「線」だと思うのだ。いや、まぁ、哲学的な議論を始めれば、『人生は平面だ』とか『人生はcubeだ』とか、変な方向に走ってしまうんだけど、大まかに言って『人生は「線」』だと思う。(細かいけど、『』っと「」の使い方は意図的に間違えています)

人生に限らず、例えば[歴史]であったり、例えば[ビジネス]であったり、例えば[学問]であったり・・・。これらは、その瞬間、その瞬間は「点」であるかもしれないが、「史実や知識や経験の連なり」である。そのように考えれば、イメージ的にこれらも「線」だと考えて差し支えないだろう(集合・・・とかそういうことは言わないように)。

で、ここで仕事の話になる。私は前月まで勤めていた会社でいろいろ勉強したけど、根本的な概念としてこの「線」ということがあった。だれかがそういったわけではないが、会社で業務を遂行するために運用されている制度や手順は、~外圧もあるにせよ~過去の経験や実績を積み重ねたものの延長上にある。外圧にしても、突然湧いてきたのではなくて、それまでに何らかの経緯があって湧いてくるのであって、その時系列的な経緯をたどれば、それは「線」のイメージになる(例:Internal Controlとか)。

ところが、ここで『個人のストレス』について思いを巡らせると、必ずしも「線」であることが良いわけではなくて、「点」にしておいた方がいいこともある。っていうか、「点」にしておいて、とっとと頭の中から捨て去ってしまう方が、精神衛生上よろしいことの方が、たぶん多い。[座禅]のように、仏教的な思想はそのような考えのようだ。

でだ。問題は、今の私は、仕事で「点」を要求されているということである。この際、こういう微妙な話題になると、抽象的な思いを書くのにとどまり、第3社は何の事だかさっぱり分からなくなってしまう、ということは置いておいて、とにかく、「点」で考えることを要求されているように思えてならなくて、戸惑って、すごく迷っている。

今の仕事、私に言わせれば『その場しのぎのやり方』で、今までの仕事の進め方と相反しているがために、本当にこれでよいのか、と自問自答する毎日なのだ。

これは決して悪いことではないのかもしれない。生活のために働く、と割り切っている人にとっては、単純作業の繰り返しで良いかもしれない。でも、ゴールが見えない、というか無いので、ゴールを与えられるばかりの仕事をしてきた人間にとっては、つらい瞬間もある。いや、まあ、ゴールというかノルマというか、そういうのがあると、それはそれでプレッシャーだし、嫌なんだけれども、同じぐらい『ゴールが無いこと』も、結局は嫌。そうなると、すべてのことが嫌になってしまうんだけど、それは『ないものねだり』なのである。

だんだん支離滅裂になってきたのだけど、なんというか・・・。僕、どうしたらいいんだろう?

そうそう、さっき、前職を辞めてからの記事をなんとなく読み返していたんだけど、割と後悔し始めたのは早かったんだね。そうだね、遊休消化してるころから、若干迷ってた。転職の1日前には、前職を辞めたことを後悔している節もあった。そして、ここで暴露しますけど、ぶっちゃけですね、『前職の方が良かった』と、転職後、思ってしまった。

そりゃ、前職は前職で嫌だと思っていたことはたくさんあったけど、ね、こんなこと今更言ったってしょうがないんだけど、現職に比べれば前職はドライで良かった。職場の人たちは優しいにも関わらず適度に放置プレーだったし、業務内容も、まぁ、趣味とごっちゃになるぐらいには好きだったし理解はしていた。

今の職場はというと、それはもう、『ラーメン大』の醤油豚骨スープ並に濃厚な人間関係で、活版印刷並の職人芸が必要とされるもので、つまりそれは究極のルーティンワークで・・・。なんか、俺はそういう仕事じゃなくて、もっと、基盤づくりに携われるという話を聞いたつもりだったんだけど・・・。僕の勘違いだったんだろうか?

そういうわけで、ぶっちゃけ、今の方が前より疲れる。今は、仕事が終わるともうだれとも会話する気が起きない。前は、業後はもう少しものを考えたりするぐらいの気力はあったと思うのだが・・・。

ということで、『飲みを断ったくせにブログ更新しやがって』とか思っている皆様方におかれましては、誠に申し訳なく思っておりますが、少し、人と距離を置きたいというか、いや、そういう意味ではなく、文字コミュニケーションはOKなんですけど、その、face to faceな感じがあれなので、もう少し落ち着いたら、また声かけます。

最後に。家入さんという、この前都知事選に立候補したけど落選してしまった人がいるのだけど、その人の言葉。「死にたくなったら全力で逃げろ。」。文言がちょっと違うかもしれないんだけど、心にひびく。頑張らなくても、いいかな?

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結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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