酔っぱらいの戯れ言 一覧

ときどき会社で感じる「感覚のずれ」はなんだろうか、とよく思うことがある。

「だれのために物を作るんだ?」という問いかけに対し、普通は「社会のため」とか「お客様のため」とか言うに違いない。そして、一般の技術者はそうあるべきである。

ところが。俺は、そうは分かっていても、そうはなれないと思う。プログラム言語を使うのが好きだ。環境を構築するのが好きだ。良い音で音楽を鳴らすのが好きだ。

まず、プログラム言語。これには諸説あるが、会社員でプログラム言語を使いこなす人間は、たいてい何か目的があって、プログラム言語でプログラムを書くはず・・・。でも、俺は、ただプログラム言語を勉強して、リファレンス通りに動くことを確かめたいだけなのだ。

次に環境構築であるが・・。普通はWebページを公開したいとか、PCでテレビ録画したいとか、そういう思いがあって何かしらの環境構築をする。しかし、俺はただどうやって環境を作るかが分かればいいのだ。環境を作る作業が実践できればいいのだ。作った環境で何かしようとは特に思わない。何か新しい環境を作るのが好きなのだ。例えるなら、料理を作るのは好きだけれど、いざ作り終わると、なんか食べる気がしない、ってやつがいるが、それと同じだ。ただLINUXのCDをぶち込んで環境を作っても面白くないので、ネットブートだとかなんだとかをいろいろやって、環境が作れることが分かれば、それでいい。

最後にスピーカー。俺は音楽を楽しみたいからスピーカーを買い換えたいわけじゃない。別に好きではなくとも、良い音で音楽が鳴らせるスピーカーを探求したい。なんというか、音楽としてのバランスとか出来具合とか、そういうのはあんまり気にしないというか、どうでもいい。スピーカーとして、生楽器をどれだけ再現できているかとか、解像度はどうだとか、そういうことなのだよ。

これらは、言ってみれば手段の目的化である。完全に目的と手段が入れ替わってしまっている。でも、これでいいのだ。これでいいのだ。人間、目的なんて持ってもだめだ。流されるままにだらだらと生きていくことこそが人間に与えられた贅沢である。その贅沢を味わうことの何が悪い!

障害があるというのは、不便というか不幸というか。感じ方は人それぞれ。それは当事者にとっても、周囲で見ている人にとってもである。

障害当事者からすると、普段はなんとなく生活しているけれども、実際はいろいろな人に助けられているものだ。例えば、盲人であれば、普通に道を歩いているときでも、「大丈夫ですか?どこへ行きますか?」と声をかけてもらい、助かることもある。

ただ、その瞬間は助かっても、後々微妙なこともある。以下に例を示す。

  1. 目が悪いのはビタミン不足だからだとマジで思っていて、ブルーベリーを強烈に勧める人と出会ったとき。すいません、網膜剥離はブルーベリー食べても治りません。当然、勘違いしてる人にそんな理屈っぽい説得は効果がない。俺は一度「ブルーベリーを食べたらきっと良くなるわよ」とおばあさんに言われ、自宅までつれていってもらった数日後、郵便受けに何か分からないサプリメントらしき容器が投函されていたことがある。
  2. ハンドパワーで病気が治るとマジで思っている人と出会ったとき。いや、これマジ。思っている人は本当に思っている。そもそも、ハンドパワーなるものが実在するかどうか怪しいが、「私の知り合いにハンドパワーで病気を治している人がいるんですけど、一度来てみませんか?」とかなりマジで言われたことがある。秋葉原駅だったので、なんていうか、そういう意味では信憑性を感じた(笑)。
  3. 病気で目が見えないのは神様が与えた試練だとマジで思っている人と出会ったとき。アメリカ人はみんなそう思っているかもしれないが、日本人にもそういう人はいる。出家して集団生活を勧められたり、神を信じる人たちと共に共同生活をすることを強く勧められたことは、結構ある。全部断ったが。

いや、行為や気持ちは有り難いんですよ。助けてくれようとする。けれど、なんというか・・・。俺自身、そんな精神論とか科学的根拠の薄いことで障害が克服できるものとは、経験的に思ってないし・・・。息子の病気は自分のせいだと思っていろんな宗教をやったけれども、結局息子が死んでしまってどうしようもなくなってしまったお母さんも見たことあるし・・・。

あぁ。なんか、思い出したら切なくなってきたよ。障害児を産んだ母親は、やっぱり自分を責めて、自殺しようとしたりとかするのかな。うちの親もそうだったのかな・・・。たまたまなのにね。

でもさ、ぶっちゃけ、障害を持っていることは、俺は大学生までは不便だと思っていて、社会人になって不幸だと感じるようになったけれども・・・。障害者なんぞよりよっぽど不幸な人はたくさんいるよね。それを思うと。すいません。生きててごめんなさい。

こういう心の奥底に眠っている感情を主任に聞いて欲しいと思ったりするのは邪悪だろうね。だってね、そうしたとたんに・・・。いろいろ不都合な真実が明るみに出てしまうから・・・。すいません、すいません、すいません、すいません、すいません、すいません。

本日、会社の上司がセミナー発表するというので、聴講してきた。某有名高級ホテルが会場だったのであるが、そこで感じたこと。

流石に高級ホテルは、トイレットペーパーも高級である。あぁ、なんと、尻に心地よいトイレットペーパーであろうか。女性の肌のようにしなやかで柔らかなその触感は、まるでルルドの奇跡で病気が治った人の晴れ晴れしい気持ちを彷彿とさせる。

一方、会社に戻ってきて、うんこをしにトイレに行ったとき、目にしたトイレットペーパーのなんと粗末なことか。再生紙とも思えるその粗雑な紙で尻を拭こうものなら、たちまち痔を悪化させる最大の要因になることは不可避だ。

ところで。全く関係ない話であるが。

「すごい」というのは形容詞である。意味など説明する必要はないだろうが、「すごい」という言葉の概念としては、相対的と言える。すなわち、普通、あるいは一般的な事象があって、それに比べて優れているとか劣っているとか考えられないと言ったことである。

で、ここからが本題。障害者が何かすると、だいたい「すごい」という見解を、健常者が持つ。「目が見えなくても電車に乗れるんですか、すごいですね」とか「目が見えないのにインターネットができるんですか、すごいですね」とか。この現象は、酔っぱらいのおっちゃんと偶然電車で出会ったときも、かわいい女子高生が(極めて低い確率ではあるが)話しかけてきたときも、仕事の場面でもほとんど発生する。いや、知識のない健常者は思うことがある、という表現が正確だな。まぁ、そういう細かいことはいい。

けれども、障害当事者からすると、「すごい」と言われることの9割は大してすごいことでもない。だって、それが普通だからだ。どちらかというと、そのような結果になるまでには、普通の人があまり想像できない努力をしている場合があり、そっちの方をすごいとたたえて欲しいものだ。

盲人には盲人にしか分からないことがあるので、盲人の例を示す。例えば、割と自由自在にあちこち歩き回っている全盲。何故か柱も避けるし、エスカレーターにも逆方向ではなく正確に乗るし、停車中の車も避けるし・・・という人が、たまにいる。これ、目が見える人の常識では超人的と思うかもしれない。端的にはすごいかもしれない。けれど、やってる本人からすると別に普通なのだ。柱や車が目の前に近づいてくると、周囲の音の反射率が変化して音の響き方が変わるので認知できるとか・・・。そういう能力は、結果的には現在普通に身についているが、それを身につけるまでには結構な努力をしているのだ。尤も、それを努力と思ってない人間も大量にいるわけだが・・・。ただし、本人が弱視なのに杖を携帯しているとか、手動以上の視力があるとかいう前提条件はないものとしますがね。

でだ。ここで考えて欲しい。普通の人だって、例えばパソコンの組み立てができない人は、パソコンの組み立てができる人に対してすごいと思うことだろう。そして、パソコンを組み立てられる人は、初心者で説明書片手に部品を取り付けているレベルにしろ、様々なパーツを組み合わせてパソコンを組み立てた経験があるにしろ、そこには努力がある。

だから、障害者だからすごいと思われていることの大半は、障害者にとってみればぜんぜんすごくないこと。本当にすごい障害者は、凡人障害者には到底できないことをやる障害者だ。パラリンピック出るとかね。まぁパラは、金があれば・・・出られるかもしれないけど・・・。

そして、ここが一番重要なのだが。仕事において障害者を活用する気があるなら、なんでも「すごい」で片付けないので、障害特性に応じて、作業量や作業品質に対する指標値を定めることが肝心である。

障害者を雇った企業がまず困るのは、どんなことをやらせればいいか。次にやることは、どれぐらいの量をどれぐらいの期間でやらせればいいか。こんなことを書くのもあれだが、障害の種別毎に、最初に雇った障害者はモルモットとして作業上の指標値作りに充当することが良いかもしれん。付き合わされた障害者は気の毒だが、それでその指標値が業務上許容できる範囲内であれば、その後の障害者雇用は明るいかもしれない。

このように障害者に求める作業量や作業品質を定量化、あるいは明確化することで、「入社したけれど、ソフトの使い方が分からないから研修に行かせてくれ」という、金のかかる障害者を排除できる。別の言い方をすれば、会社が費用を負担しなくても、外部で指標値を満たすだけの技能を修得した障害者を、企業は野党ことができるようになり、今までの障害者採用みたいに無駄金を使わなくて済むようになるかもしれない。

まぁ、その場合の訓練所のメニューとか、考えることはいろいろあるけれど。今日は、なんか、もういいや。

最近、公私共に、障害ってことについて考えることが多くて、なんかそういう話題が多くなっているけれど・・・。どうしてだろう。気持ちは晴れないね。宝くじ当たらないかな。

ちらっと昨日書いた、乙武さんの入店拒否問題が結構盛り上がっているみたいなので、草葉の陰から眺めてみた感想をば。あくまで感想ですから、論点がはっきりしないとかいうことは、気にしないで。

改めて書いておくけれども、私は全盲です。車いすは使っていないが、障害者である。障害者の立場で乙武さんの心情を思うと、むかつくとか腹立つ気持ちは分かる。障害者だから食べたいイタリアンも食べられないというのは、差別だと思う気持ちは、重々承知。

話は脱線するが、別の例でも似たようなことはある。例えば障害者が独り暮らしをするために部屋探しをしていると、大家さんに断られて契約できないケースが多い。私も何回か断られたことがあり、それはそれは腹が立った。

話を戻して。一方、店側の言い分も当然のことであろう。人手が少ない上に、いきなり「車いすと人間を運んでくれ」と頼まれると、まぁ、普通は戸惑う。事前に連絡があれば、段取りを考えておくこともできるが、そうでもなければ、断る店側の気持ちも分かる。

これをさっきの部屋探しの例で言い換えると、どうやって生活しているかも分からない障害者に部屋を貸したら、普通ではないことが起きるのではないかと、大家さんが思っても、そんなに不思議でも不自然でもないことだ。全盲の場合、火の始末(ガスコンロとか)をどうするかということを、90%ぐらいの確率で尋ねられるのだが、普通は疑問に思うだろうし、「何か解決策があるのかもしれないからリスクを取るのはやめよう」と思う人もいるだろう。

で、私としては、どっちが善でどっちが悪かということはどうでもいい。どっちもどっちだからだ。っていうか、乙武さんのブログしか読んでないので、事実関係に基づく判断は、公平な立場ではできないというのが本当のところである。

けれども、彼のブログに書いてあることについて、いろいろとつっこみたいことがあるので、それは暇つぶしに書いておこうかな。

まず、乙武さんは店舗に対して車いす利用であることを連絡したことがあまり無いとのこと。ちょっとこれは、普通の障害者には想像ができないのではないか?いや、これは俺個人とか全盲の発想かもしれない。多人数の盲人で押しかけるときとか、事前に予約が必要な店に対しては、事前にその旨を連絡して了承を得るのがマナーだと思っていたのだが、俺は。いや、流石にスーパーとかコンビニとかマクドナルドには事前連絡したことはないけれども・・・。それにしても、連絡無しでよく車いすユーザに対応してくれたなぁと思うのは、俺の知識が足りないだけなんだろうか。

と思ったら、普段は事務所のスタッフとか有人が面倒見てくれてたようだ、乙武さんは。あぁ、事務所のスタッフかよ。了解しました。あと、行けそうなところは自分でも階段上がって行くそうで・・・。

さて、次につっこみたい箇所。ホールの男性スタッフは、どうも乙武さんを運ぶために階下へ降りようとしたらしいのだが、それを店主が止めたそうである。え?何故止めるの?ホールスタッフが対応できるんだったら、それをわざわざ止めなくてもいいのでは?

まぁ、乙武さんがブログ内で書いているように、料理を出すタイミングとかがあってホールスタッフを止めたのかもしれないが・・・。でも、そこは店主自らが料理を運ぶぐらいのことはできなかったのかなと思う。シェフが独りのようなのでしかたないかもしれんが、シェフが自ら客に料理の説明をするサービスでもすれば、それはそれでいいと思うし、そうしている間、ホールスタッフが料理を作るわけでもないだろうから、そういうふうにタイミングを合わせるやりかたもあるだろうに・・・。と、実はこの議論は全部後付け論であって、当時その場でそんなこと思いつくはずはありませんね。

では次に参りましょう。実際、お店の中でスタッフとやり取りしていたのは同伴していた女性だったようなのだが、店主から「対応できない」と言われて女性が乙武さんの待っている外へ戻ったあと、店主が階段を下りてきたそうな。それで、「事前に連絡しろ」とかいろいろ言ってきたそうなのだが・・・。そこで乙武さんは「そもそもそういうこと(事前連絡)をせずとも外食を楽しんできた」という趣旨の発言をしたということである。

ここでつっこみたいのは、一つに、何故店主がわざわざ降りてきて本人にいろいろ言ったかということ。まぁ、店は狭いみたいだったし、やり取りは店の客にも丸見えだっただろうから、「ばつが悪いからとりあえず店を出て」、「本人がまだいたから思っていることを言った」ということなのかもしれない。事情はどうあれ、最低でも、店主の人は「申し訳ありません、次回からは連絡頂ければ対応しますから」ぐらいは言ってもよかっただろう。ぶっちゃけ、建前でもいい。本音は「この常識知らずが!ぼけ!」と思っていたとしても、サービス行やってんだったら建前の一つでも使ってその場はやりすごして欲しいものである。

そして、もう一つの突っ込みは乙武さんの発言。はっきり言って、そんな事情、言われた方にしてみれば知ったこっちゃない。あ、でもこれを言ったらおしまいかも・・・。それを言ったら、サービス行は「そんなもん知ったこっちゃない」で終わってしまうなあ。うーん、個人的にはこの発言、客からするのはちょっと・・・。というか、そうか、言い方が少しあれなんだな。もっと丁寧に、最初に「これはクレームです」と断っておけば良いかもしれん。俺はあまり気に入らないのだが、そういうと「他店でも1円より高い場合はスタッフにお知らせ下さい」とアナウンスしてる電気屋のサービスを否定することになってしまうなあ。

と、ここまで書いて。しまった、俺も似たようなことを、たまに言ってることに気がついた。PC周辺機器を買ったとき、ファームウェアのダウンロードに本体に張ってあるシリアルナンバーが必要だったのだが、当然全盲にそれは読めず、サポセンに事情を説明したのだが、「シリアルナンバー無しではダウンロードして頂けないシステムになっております」の一点張りだったメーカーがあった。別メーカーの類似商品でも同じくファームのダウンロードにシリアルが必要だったことがあったが、そのときは「今回は特別にダウンロードできるように致します」と言ってもらえたことがあったので、そのときは「○○さんでは対応してくれましたけどね」みたいに、サポセンのおねえちゃんに言ったことが・・・。そういえばあったなあ・・・。

すいません、なので、前言撤回。ブログに文字を残したまま前言撤回というのもなんだが・・・。まぁ、「一度発した言葉は消せないのだよ」ということの照明です。

とりあえず突っ込みたいことは終わったので、最後に言いたいこと。

結局、今回の入店拒否問題。声を上げたのが乙武さんじゃなければ、せいぜい2CH掲示板でスレが立ったり、ツイッターで該当の発言に対するコメントがちょいちょい書き込まれたり、ひっそり店が謝罪文を掲載して収束していく問題だと思う。ポイントは、知名度の高い人の発言は影響力があるということなのだ。

乙武さん、確か4月の朝まで生テレビで、ツイッターの良い点と悪い点について自身の解釈を偉そうに述べていたと思うのだが、結局、メディアの性質を理解できてなかったってことなんじゃないかと思う。ソーシャルメディアのせいで炎上した個人や企業はたくさんあるんだから、今後はその辺の事情も学習してものを言ったらいいと思いますよ(上から目線)。

ぶっちゃけ、入店拒否とか、盲導犬連れてる人なんかもよく経験するんじゃなかろうか。イスラエルの爆弾テロみたいに、日常的なことのように感じるが・・・。

まぁ、いろいろ感想を述べてきたけれども・・・。みんな同じように利用できるサービスが一番なんだけどね。個人が店に改善を訴えたところで効果はほとんどないんだけどね。ネットで名前晒す方が効果的なんだけどね。さっきからずっと、うんこを我慢しながら書いていて、そろそろ限界だから、トイレに行って寝ます。さようなら。

【参考】 乙武さんのブログ
イタリアン入店拒否について | 乙武洋匡オフィシャルサイト

「数学は嫌いだ」と言う人は世の中にたくさんいる。私の考えでは、そういう人々はだいたい以下のいずれかの理由で数学が嫌いなのである。一つは様々な数式の意味が理解できていない。もう一つは数式変形の過程が理解できていない。そして、数学は結果より過程が大事なことを知らない。一番最後のは純粋数学について言えることだが、応用数学、特に工学の場合は必ずしも正しいとは言えない。ただ、数学が嫌いな人の気持ちも分からないではない。何千年か何百年か知らないが、それだけ前に暇な人たちが生涯をかけて考え抜いた数学の問題を、たかが二十歳にも満たない頭で全部理解することは、結構付加が高いのかもしれない。

一方、「数学は答えが必ずあるから好きだ」という人もいる。これはこれで困ったことだ。何故ならば、高等学校までに教わる数学は、答えが用意されているだけであって、実際に数学を勉強していくと、解けない問題もあるし、なんでその結果になるのか分からないこともたくさんある。

答えがないということにフォーカスしてみると、高等学校で教わる範囲でいうと、いわゆる文系の学問には正しい答えなんぞちんぷんかんぷんなことがある。例えば、国語の教科書に載っている物語の一場面で、「登場人物や作者の信条を考えてみよう」、あるいは「その登場人物は何故そのような行動をとったのでしょう」といった問いかけである。

前者は、本人でないのにそんなもん分かるわけがない。問いかける方としては、人の気持ちを察することを学んで欲しいのかもしれんが、実際に社会に出てみると、子供のころに先生の前で一生懸命考えて導いた結論は、だいたい間違っていたことに気づかされることが多い。だいたい、蛍の墓を書いた作者、あんな物語を書いておいて、娘の学校で「(蛍の墓の)この場面での作者の気持ちを考えてみよう」っていう授業があったらしいのだが、家で娘に同じ質問をされて「締め切りに追われてヒイヒイ言いながら書いた」と答えたらしい。現実はそんなもんだ。

後者の「何故そのような行動をとったのでしょう」パターンも似たようなものだ。学校で取り上げられるような話題は、一部を除いて、非日常的なシーンが多いので、想像してもあまり役に立たない。だって、母親を殺した少年がその動機について「殺人をしたのでおやが悲しむと思ったから殺した」ということを言うことだってある。あ、これもまぁ非日常的なことだが・・・。お母さんは隠したはずのエロ本を見つけるのが何故うまいのかとか、女の子に「あんたは生理的に受け付けない」と言われたときに何が原因なのかとか、そういうことを考える方がよっぽど有意義だ。

また別の話で、歴史認識というのも答えがない話題の典型例だ。日本と近隣諸国の主張の違いを見ていれば一目瞭然だろう。ただ、学校教育に限っていえば、歴史教科書が結構左寄りの内容であることは嘆かわしい。もちろん、直接的に過去の日本の行いを否定するような記述はないものの、記載されている事実がどうにも「日本は悪かった」という方向性に持っていこうとしているように感じられる。ほら、私はこう考えるが、そうは考えない人も当然いるだろう。

その一例が韓国併合である。韓国人がこれを悪いというのは当たり前だが、日本人にもこれを悪かったと思っている人は大勢いるだろう。ちなみに私は、一部統治の仕方に問題はあったものの、韓国併合により朝鮮半島の近代化が促進されたことは事実であると認めるべきと考える。当時のインフラ整備や教育制度の策定は多くの朝鮮人に近代的な暮らしをもたらした。もちろん、日本人の差別感情やら、まぁ諸々で、苦渋を嘗めた人たちもたくさんいたことは否定しませんが。

そして、植民地という言葉を使うことが適当であるかは別として、欧米列強の植民地支配と対比すると、大日本帝国の朝鮮統治は、どちらかといえばましな部類に入ると思う。考えてみれば、イギリスなんて、中国にアヘンを売りつけて、どんどん国がやばくなってきたことに気づいた中国がアヘンを禁止すると、「アヘンを買いやがれ!」と言って戦争をしかけるような国だったのだ。少なくとも、韓国に対する併合政策はそんなもんではなかった。なお余談だが、中国についてはまた話が違う。1938年からの日中戦争は韓国併合と異なり侵略戦争だ。

ところで、似たような経験をしてる地域に台湾がある。台湾も第2次大戦までは日本の統治下にあったが、多少朝鮮との統治方法に違いはあったものの、戦後の台湾人の日本人に対する印象は、結構ポジティブである。韓国の反日感情と比べて不思議でならない。まぁ、その辺りの説明はネットを検索すればごろごろ出てくるのだが・・・。これも、本当の答えというものは分からないものだ。

余談だが、以前、「日本統治下の朝鮮で行われた日本語使用の強制は許せない」と言っていた有人が、「アメリカが日本を占領したとき、公用語を英語にしてくれればよかったのに」と言っていて驚いた。この有人、一応本人にも指摘したが、完全に自己矛盾している。「日本の公用語を英語にしろ」というのは、現代において結果的に英語が世界の共通言語として定着しているから便利なだけであって、彼の考えである「朝鮮における日本語強制使用」と本質的には変わらないことだ。まぁ、それだけじゃなく、朝鮮の場合は、学校では日本語を使い朝鮮語もきちんと語学として教えていたことを踏まえれば、彼の認識に間違いがあったということも補足しておく必要はあるし、フィリピンはこれと類似して学校の授業は国語以外英語で行う方式らしいことも付け加えておかなければならないだろうが。

で、数学の話にやっと戻そう。実は、数学だってこれと似たようなもんなのである。例えばフェルマーの定理(詳細はググれ)を照明するのに、様々な数学者がそれぞれの見解で照明法を考えた。照明が発見されるまでは正しいかどうかも分からないことで論争が起こっていたのだ。また、答えの有る無しとは反れるが、ニュートンとライプニッツの「微分法はどっちが先に発見したか」という論争も有名である。

また、少し踏み込んで話をすると、主に物理の世界で表れる非線形微分方程式の中には、解析的に解けないものがある(例:2重振り子、振り子の先にもう1個振り子を付けて運動させたときの動きを表す方程式)。こうしたものは、数値解析とか数値積分といった手法で近似解を求めることはできるが、厳密に一致する答えは得られない。

※すいません、偉そうに書いたけど、物理はよく分からないので、2重振り子の微分方程式は解析的に解けないというのは間違いかも・・・。

ただ、今までに挙げた国語や歴史の問題と違って、数学的に照明された事実はだれにとっても一つの意味しか持たないということだ。もちろん、照明された結果をどう解釈するかで見解が分かれることはあるが、ある命題に対する照明が与えられたとき、その照明、すなわち論理的な考えはだれもが認めるものなのである。逆に、照明そのものが複数の解釈を持たれるようなものでは、照明として成立しない。故に結果は正しいとは言えない。

じつは、今書いたこと、ほんとは順序が逆である。照明に複数の解釈がある場合は帰結が変わる場合があるし根拠が不十分であることがあるので、一義的な照明でなければ照明としての効果がない。故に、照明はだれにとっても一つの意味しか持たないのである。先の記述では結論を先に言いたかったがためにあえて逆順で書いた。

と、まぁ、酔っぱらっていますからね、そこはそういうつもりで読んでもらいたいのだが、結局何が言いたいのかというと、いつまでも半日半日言ってないで、半日に向ける力をもっと別の芳香に向けたらどうかということなのだ。どこの国とは言いませんが、財閥のせいで大多数が貧乏人に成り下がってしまったどこかの国なんかは特にね。「金こそすべて」の拝金主義に溺れてしまった国とかね・・・。あの、どうしようもないマルクスの教えはどこへ行ったんだい?

まぁでも、隣人なんて、だいたい仲悪いよね。お隣さんと土地の境界線でもめることだって日常的に起こりうることだし、それが国レベルで起こると領土問題になるだけの話だ。領土問題になると軍事力が表に出やすいのが少し違うところだが。

なんか最近は北朝鮮がなんか、かまって欲しい子供みたいにゴチャゴチャ言ってますが、万が一にも南進するようなことがあれば、第2次朝鮮戦争勃発だ。まぁそう簡単にならないとは思うが、今回は、残念ながらアメリカが日本に参戦するようしつこく言ってくるでしょうからね、戦争特需は期待できないでしょうな。

みんな、きちんと覚えておくべきだ。戦争すればだれかが儲かる。だかれ戦争はなくならない。そして、人間は損得勘定だけではなく、感情でも動く。腹が立ったら村人全員虐殺して、それが戦争の引き金になることもある。

戦争になれば普通では思いつかないことも起こる。おもしろ半分にアパッチで非武装の民間人を射殺してみたり。村を襲って女をレイプしたり・・・。どこかの国は、慰安婦のことで日本に謝罪を要求するなら、ベトナムにちゃんと謝罪して下さいね。

WBCで日本がアメリカでの決勝ラウンド進出を決めたため、良い気分である。なので、社会的・政治的に微妙な話題だけれども、書いちゃおうかな。

題名にもあるとおり、日本の学校で学ぶ歴史教科書の、特に東アジアに関する近代史の記述は、極めて左寄りの記述であり、日本が行ったことが悪かったことのように書かれている。これは問題だ。NGと言ってもいい。

問題の一つとして、近代の大日本帝国が行った植民地支配は、全面的に悪いことだという概念の元に教科書が編集されていることである。一般に現代では植民地支配は反省すべき歴史として各国から認識されているものの、第2次世界大戦までは強い国が弱い国を支配するのが当たり前なのであって、本来はそうした構造の中で支配国がどのような政策を行い、被支配国がどのような社会だったかを論ずるべきなのである。

しかしながら、ヨーロッパではわりとそういうことを客観的にやってる気がするのだが、日本と韓国・中国については、あたかも日本が韓国や中国の人々に悪いことばかりしていたような記述が、教科書には見受けられる。まぁ、中国に関しては、全面的に日本が悪いのだが、満州事変以降は。

驚くべきことは、草紙改名などの同化政策を批判的に記述した内容は多いものの、朝鮮半島のインフラを日本が整備したことなんかほとんど書かれていないこと。台湾については、もちろんレジスタンス運動はあったが、親日的な感情が多かったこと、それより何より、20世紀初頭には、大陸から孫文などたくさんの留学生が日本にやってきて、日本をモデルに自国の近代化を促進させようとした立派な人たちについて書かれている量よりも、戦争で苦しんだ民衆のことについての記述が多いことは嘆かわしい。

幸いなことは、戦争の是非とか、戦争の本質についてはあまり記述されていないことだろう。もちろん、東京裁判の極めて人種差別的結果についてなど、餓鬼が理解できるわけもないしね。

要するに私が言いたいことは、日本が犯した戦争犯罪や、戦争中の庶民の暮らし、そしてそもそも何故戦争に至ったかという経緯も含めて教科書に掲載するとともに、開国から明治時代にかけての世界情勢を加味すれば欧米列強の支配を免れるために周辺諸国を植民地化することは合理的な政策であり、当時の価値観としては当たり前だったことも一緒に教科書に書いて欲しいものだ。

あと、細かい話になるが、治安維持法ができる過程を記述した部分では、共産主義者を取り締まるためという名目は書かれていたものの、なんで共産主義者が悪者なのかがよく分からない記述となっていた。この部分は、「ソ連の共産主義者のように革命(すなわち政府転覆)のためには血を流すことも必要だ」などと馬鹿げた考えをしている連中をのさばらせておくわけにはいかず、日本でも社会主義・共産主義を信仰する連中が増えてきていたからである。これ書かないと、なんのこっちゃ分からないでしょう。

もっといえば、日本では数すくない五・一五事件とか二・二六事件 のような軍事クーデターの背景もきちんと説明しないとね。

はっきりいって、これは近代東アジア史だけに限ったことじゃないけれど、西暦何年に何が起きたかだけ覚えたって何の役にも立たない。本当の意味で歴史を覚えるためには、史実とともにその因果関係もきちんと勉強せなあかんですとよ。

だもんでね、最後にいうわ。教科書はもっと日本に愛着を持つような内容にしてください。日教組はもう関わらないでください。以上。

「CNN Student News」の12/7のPodCastを見ていたら、1941年のその日、パールハーバーが奇襲攻撃を受けた日だというニュースがあった。ああ、アメリカだと真珠湾攻撃の日は12/7なのね。日本では12/8と教わるが。まぁ、今更言う話でもないが、確か帝国海軍の機動部隊が攻撃を行った時刻は日本時間1/28のA.M.1:30ぐらい、ハワイでは12/7のA.M.5:30ぐらいだったと思うので、そうなるよねえ。それにしても、当時のルーズベルト大統領は「卑怯なジャップのだまし討ち(注:「卑怯なジャップ」は俺が代弁)」とののしったのに、71年経つと「surprised attack(奇襲攻撃)」となってしまうんだから、これも時代は変わったということか。「だまし討ち」と「奇襲攻撃」。言葉というのは不思議なものだ。

ところで、そのニュースで思い出したが、最近読んだフィクション作品で、太平洋戦争の開戦から山本五十六の戦死に至るまでの史実を元に「ルーズベルトもトルーマンも山本五十六もフリーメーソンだった」的な帰結に達するものがあった。ま、フィクションなんでとやかくいうことでもないけれど、おいおい、また陰謀説かよ!

なんでも、1941年当時、ルーズベルトは日本の暗号を解読して真珠湾攻撃を事前に知っていたのに、ヨーロッパ戦線への参戦を正当化するために手を打たなかったとか。開戦に当たって山本五十六大将は「1年半はあばれます」と言ったとか。ブーゲンビル島で山本五十六が前線視察するときに、当時はリスク回避するために使用していなかった無電で通信したとか。山本五十六の乗った零戦が撃墜された後、密林で遺体を発見した軍医が検死したときの貫通銃創が、戦闘機の機銃で撃ち抜かれたにしては不自然だとか。いろいろ理由を挙げたあげくに、「山本五十六はアメリカに亡命予定だったが、アメリカの路線変更で殺害された。やつらはフリーメーソンだったのだ。」となってしまうのだから・・・。いや、フィクションなんでね・・・。

あえて本のタイトルは書かないことにするが、現代の記者が当時の資料からなんらかの陰謀があったのではないかと推測するというストーリーはOK。でも、そこで、大国間の利害関係云々ではなく、ユダヤ陰謀説にいってしまったのだ残念でありました。

最近俺のアイデアをパクったとしか思えないアニメとか小説によく出会う。

俺は「伝説の勇者の伝説」を見ていたときに「魔法使いと現実世界の軍隊が戦争するストーリーは面白いかもしれない」と思いついた。かれこれ2年前の話。そうしたら、「絶園のテンペスト」って、そんな感じでは?俺のアイデアではもう少し国家権力動詞の戦争って色が強いが、まぁ似たようなもんだ、一部は。これは俺のアイデアの盗作、とは言わないが先に思いついたのは俺だ。そんな、ハムレットなんぞ取り入れるつもりはなかったがな。いやでも、「絶園のテンペスト」は面白いと思う。

それと「時空断裂!蒼空燃ゆ」という小説。内容は近未来的な自衛隊が、過去からやってきた米軍とか、何故か時空を操作できる技術を身につけちゃったSS(ナチス親衛隊)と戦争する話だが、はっきり言って駄作。設定にも突っ込みどころはいろいろあるが、何せキャラクターの無駄な回想や思考をグダグダと何ページも書いてあるかと思えば、戦闘シーンなんてほんの数行しかない。科学高尚はそれなりだが、細かすぎてときどき「難の話だっけ?」と考え込んでしまうこともしばしば。読んだらがっかりする小説である。

しかし、この駄作にも俺のアイデアのパクリが存在している。それは「FCS搭載の小銃」だ。本作ではアサルトライフルにFCSを付けている。俺のアイデアではアサルトライフルにFCSを付けてもCQBにはほとんど役に立ちそうにないから、スナイパーライフルに付けるのがいいかなと思っていたのだが・・・。どうでもいいが、本作、歩兵携帯用の小銃にFCSが付いてしまったり、人間の子供を改造して対テロ舞台に仕立て上げちゃうような技術水準なのに、F15に搭載されてる空対空ミサイルがAIM7ってどういうこと?もう少しすごいミサイルとか開発しなかったの?

と、上記のようなあほらしい『妄想』をいだく人間はきっと他にもいるでしょうね。思いついただけじゃなんにもならんし、作品化されてたとしても、どうにかして流通してなきゃ、結局最初に人目につくようになったもんが「初めてのもの」なんですよ。

関係ないけど「日本朝鮮戦争」っていう小説は良策。長すぎるのがたまに傷ですが、現在私は3サイクル目です。続編なんだかパラレルワールドなんだか分からない「新日本朝鮮戦争」はだめだったけど・・・。

あの、まず先に断っておきますが、私はだいぶ酔っぱらっています。理性は微妙に保ちつつ本能を解放しています。あぁ、寒い。

前座として俺の通勤ルートのほんの一部について説明しよう。要するに小学生の通学路なのだ。朝の7:30~8:30は車は通行禁止、通行禁止区間の端と端にはPTAみたいな人が立って見張っている。

で、今朝の話。

俺が通勤する芳香と小学生が通学する芳香は逆なのだ。いつもウザいと思いつつ、前からやってくる小学生の群れをやり過ごして、駅へ向かって歩き始めたところ。後ろからこんな声が聞こえました土佐。

「あの人目が見えないんでしょ。でもなんで目が開いてるの?あ、そうか、目が腐ってるんだ。」

これは小学生の言葉。これを聞いてどう思うかは人それぞれだろう。さて、私はどう思ったかというと・・・。

殺す!よく聞け糞餓鬼、視神経とか網膜が行かれると眼球の有無に関わらず見えなくなるんだよ。貴様は手足切断の上、皮をはいでフォークで眼球を串刺しにしてやろう。言葉の重みを噛みしめろ、FUCK!

まぁ、後半は単なる妄想というか、憂さ晴らしですがね。私は大人ですから、いくら腹が立っても理性を働かせて、平穏に歩き続けますよ。心の中ではその糞餓鬼を17回程惨殺しましたがね。

糞餓鬼どもは思ったことを根拠も無しにストレートに言いやがる。これじゃいじめは無くならないよ。人を思いやることもできない餓鬼がいる限り、いじめはなくなりません。

それに特にうちら辺というか、関東の餓鬼どもは教育がなってない。

前に、朝の通行禁止時間帯に通学路へ進入してきた車がいた。この辺に住んでる人はそんなこと当たり前だろうから、たぶん、たまたまこの辺を通った人なのだろう。当然路の端でPTAに止められて「通学時間帯は車両通行禁止だから注意して下さいね」と言われる。ここまでは普通だ。

だがその後、その様子を見ていた糞餓鬼が運転手に向かって「犯罪者!」と一言。もちろん子供の言うことだ、ぶち切れしたら大人げないけれども、その運転手の人は心の中で、俺と同じようにその子供に憎悪を抱いたに違いない。

だいたい、今の小学生、中学生の親って、30代後半から40代でしょ。その世代は糞みたいなもんだ。さんざん自分たちは学校で暴れ回っておいて、自分が親になっても学校の先生に馬鹿な主張を繰り返すファッキン・ペアレンツだ。そんな出来損ないの大人に育てられた餓鬼がまともな育ちな訳ねえよなあ。あぁ、FUCK!

あぁ、思い出したらまた腹立ってきた。昨日は昨日で犬のうんこ踏むしよ~。なんか、もう、いやだ。だれかの目をつぶして障害者にしてやりたい。そうして、苦しみを味わって欲しい。金じゃ解決できないこともあるんだと知って欲しいね。FUCK!

あぁ、おしっこしたいので、トイレ行ってくるね。じゃぁ、おやすみ。ちなみに今週の金曜日は休みなんだ、俺。

  1. 日曜日の夜に居酒屋でとにかく飲む
  2. 飲み終わったら家に帰らず会社に行く
  3. 会社で寝て朝を迎える。

もし自宅のそばで飲んでいて家に帰りたくなってしまうようなら、会社のそばで飲め。

書いてて思うけど、これじゃだめだね。まず、よっぱらった状態で会社へ行こうとは思わない。仕事帰りに飲んでて家に帰れなくなったとかなら別だけれども・・・。楽しい気分のときに普通しょんぼりする場所へは行かねえべなあ。

んじゃ別の方法を考えるとですね・・・。

  1. 1週間取り貯めたアニメを日曜日の夜から見始め、朝を迎える。
  2. 見終わったら名にも考えずにスーツをきて出勤。朝の5時だろうが、機械的にこなす。

これは、昼間ものすごく眠くなるという問題、または、朝までにアニメが終わらなくて結局月曜日の昼までかかってしまうという、二つの問題が想定される。だめだ。

  1. 女主任に罵倒される夢をみる

一部の人間はこれでOKかもしれないが、大半は無理だな。

結局月曜日は憂鬱です。

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結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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