酔っぱらいの戯れ言 一覧

障害者雇用にはまだまだ問題がある。法定雇用率があるので、大きな企業は障害者採用をやっているし、むしろ「やらざるを得ない」という状況ではあるが、どちらかといえば「やらざるを得ない」という感じが、多くの場合であろう。

一昔前は、企業としてまずは「障害者を雇う」こと、あるいは障害者としては「入社すること」が目標だった。障害者の目標は対して変わらないが、企業側の目標というか目的というか方針は、だいぶ変化しているように感じる。それは、障害者採用が拡大する中で浮き彫りになってきた問題が原因だろう。

私は人事の仕事じゃないし、耳にした話を元に適当に書いているだけなのだが、浮き彫りになった問題とは、たぶん次のようなことである。

  • 雇用が定着しない(あるいは、障害者がすぐ辞めてしまう)
  • 障害者の品質が分かってきたので、選別基準も分かってきた

後者は企業にとって悪いことではないけれど、障害者自身にとっては大変悪いことだ。いや、「弊害がある」というのが正しいかもしれない。

とりあえず「雇用が定着しない」という問題だが、もはや「どこに行っても聞く話」である。採用が目的のころは、何にしてもまずは会社に適合しそうな障害者を採用しなければならないが、ある程度採用数をこなしていくうちに、どこの会社も直面する問題だと思う。

これについては、Webとかでもいろいろ言及されているので、ここであえて説明することもないだろう。後で触れるかもしれないけど。

で、どっちかっていうと個人的には「障害者の品質が分かってきたので、選別基準も分かってきた」という方が重要だ。

書き方があれだけれども、企業の人事担当者で障害者採用に携わっている人は、このように感じている人もいるんじゃないかと思う。障害者採用をしたことがなければ、どんな役割を与えるべきかとか、いろいろ分からないこともあるだろうけど、すべての仕事がそうであるように、経験を積めば、それなりに処理の方法は確立できるものだ。

どこの企業とは言わないけれど。契約社員でも雇用率にカウントされるから障害者は契約社員でしか雇わないとか、研修生という建前で契約社員を雇って雇用率を引き上げたりとか、法律を守る手段は前からある。そして、最近は手段だけでなく、障害者採用の方針とかターゲットも固定されつつあるのではなかろうか。

もっと直接的に言うと、乱暴な言い方だが、「障害者には雑用させておけばいい」とかっていうようなことを、会社として決められるだけの材料はそろいつつあるということだ。それは流石に極端かもしれないが、少なくとも、障害の種別や部位による選別基準ぐらいは作れるだろう。例えば、全盲はイニシャルコストが高いから雇わないとか、車いすの人はイニシャルコストは高いけど生産性は健常者と同じだから雇える、とか。知的障害者には社内便の仕分けをやらせればいい、とか、いろいろ考えられる。

ただでさえ、健常者でも就職が難しい昨今、こんな風に基準に沿って判断したり、型にはめるような感覚を採用担当者が持つと、障害者の就職はますます困難になる。だから、有能な障害者がいても、企業としてはチャンスを逃してしまうことになるのだ(もっとも、有能な障害者はそう多くないし、今の障害者の働かされ方ではそんなに有能な人が育つようにも思えないが)。

まぁ、単なる私の妄想かもしれないので・・・。あまり気にしないで下さい。というか妄想でござんすよ。

ちなみに、最近の障害者求人には「オープンポジション」というのが多いらしい。「立場を限定せず幅広く可能性を期待する」ということらしいのだけれど、私に言わせれば本質は変わってない。「障害者は雇わなければならないが、雇ったところで何をさせればいいかよく分からない」という担当者の思いを表す、使い勝手の良い言葉ができただけだ。

で、いつもだったら、ここで問題を課題に変換したり、解決策を考えたりするわけであるが、今日はめんどくさい。だいたい当事者の俺が考えることだ、会社に原因を求めるだけで自分を顧みない対策になることは必至なので、考えなくてもいいかと・・・。

ただ、かなり批判的に書いてきたけれども、上記の選別基準とかっていう話は、良い方向に働く場合もある、かもしれない。

例えば、ITシステムの製造ラインだと、「1日何ステップのコードを書けるようになれ」とか「1日何件の試験項目を消化できるようになれ」とか、人材に求める生産性が規定されていることがある。もし、そういう数値目標があるのなら、障害者としては「私はその作業を、同じ時間で80%しかできないけれども、別の作業は120%の効率でできるから雇ってくれ」という言い方もできるし、定量的には劣っていても定性的に上回っている、というような趣旨の理屈を使いやすい。

まぁ、選別基準が「偏見」に基づくものではなく、「成果」に基づくのであれば、ということなのだが・・・。そして、過去に失敗したことがなかったり、まだ障害者採用の事例がない企業だったら、ということなのだが・・・。一度障害者採用で失敗すると、それが実績になってしまって障害者採用が停滞することもあるので・・・。

でも、企業の担当者からすると「そう言われてもどうしろっていうんだ!」って感じだと思う。言っちゃなんだが、行政は無駄に雇用率を上げるだけで具体的なことはぜんぜんやってくれないし・・・。事例集とか公開もされているが、あれは事例であって、実際に障害者を雇ったときには「ほとんど役に立たない」。企業側も、障害者側も、本当はもっと細かいレベルのノウハウを必要としているのだ。だって、もしあなたがコンピュータに詳しくないのであれば、インターネットに繋がらないときに「コンパネで設定確認して」だけ言われても、何を確認したらいいんだかさっぱり分からないことだろう。それと同じだ。

あと、なんか思いついたので書くけど。障害者採用のターゲットが「採用」から「定着」に変わってきたという話の延長で、仮に定着ができるようになると、次はどういう変容が起きるのだろうか。

「定着」の問題が解決するには具体的な仕事のメソッドなどをコンサルする会社などが登場しないといけないが、じゃぁそのなれの果てはどうか。障害者の雇用が定着するようになるということは、土台が健常者と同じになるということだ。ノウハウが充実すれば充実するほど、障害者に関する人材派遣やコンサルの市場は狭くなってくる。つまり、障害者の雇用定着に関する仕事で飯を食ってる人たちは、彼らの目標が達成できたとき、仕事を失う。

この構造はIT業界の構造と似ている。もし人間が完璧なシステムを作れるんだったら、人はいらなくなる。不完全な人間だからこそ、人出で運用しなければならないシステムしか作れないし、バージョンアップだなんだとメンテナンスが必要になってくる。これらに対応できるシステムを開発できる人間がいたら、その人間は仕事を達成したと同時に仕事を失う。

っていうか、仕事ってそういうもんだよな。あぁ残念。

会社の健康診断があるのだが、それのために検尿用機を渡された。渡されたのはいいが、なんだか先進的な検尿用機で、どうやって使ったらいいのかよく分からない。

一応、採取方法についての紙ももらったのだが・・・、以下のように書いてある。

(5)採尿の手順(ピー・ポールⅡの使用方法)
  1. ・キャップをねじらず真っ直ぐ抜き取り、採尿容器とカバーに分けます。
  2. 採尿しやすいように、キャップの上部にカバーの口部分をあわせて持ち手を長くします。
  3. 放尿中の尿に、キャップ側の中央にある採取口(かけた部分)を当てて尿を採ります。
  4. 尿を採取後、持ち手として差し込んだカバーを抜き取り、元の位置に戻します。戻すときは、カチッと音がするまでしっかり奥まで差し込んでください。

問題は三つ目の手順、つまり「放尿中の尿に採取口を当てる」方法である。

変な話、私の「ネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲」と同じ太さの容器であれば、弾着計算などせず、標的に砲身をぶち込んでファイアすればいいのだが、容器の太さはネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲よりも細い。従って、AAAでターゲットを捕捉する必要がありそうだ。

ここで問題が二つある。

第1に、「放尿中の尿」をどうコントロールするかということである。タンSAMミサイルならレーザーやGPSで終末誘導できるところだが、あいにくそのような技術は使えない。放たれた尿は有線というか、流体なので、ネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲の砲身を直接手動操作して発射方向をコントロールするしかないが、だからといって完全にコントロールできるわけではない。

第2の問題はまさに「under control」の問題。砲身を手動操作することで、ある程度のコントロールは可能だが、ネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング方から放たれる尿は、その日の体調によって、勢いが良い日もあれば、いまいち切れが悪い日もある。そして、地球上に存在する重力(gravity)により、一定の距離で地面へ落下していく。この一連の尿の動きをどのように捕捉するかを考えなければならない。目視できれば軌跡が分かるのだが・・・。

いろいろ小難しく書いているが、というか、実は上記二つの問題は本質的に同じ問題なのだが、とにかく「放尿中の尿にうまく採取口を当てるにはどうしたらええのん?」ということなのである。

で、健康診断担当の人(女性)は「採尿のことで分からないことがあったらなんでも聞いてくださいね」と笑顔で言っていたけれども、では尋ねていいですか?「どうやって採取口を尿に当てたらいいですか?」と。

でも、「教えて君」ではあるまいし、多少なりとも手段を検討した上で「そういう採取方法は問題ありませんか?」と尋ねる方がいいと思ったので、考えてみよう。

【手段A】 ネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲の砲身を採尿容器に密着させ発射する。安全そうに思えるが、ネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲の口径の方が容器の口径より小さい場合、溢れる。というか、それができる形状じゃないんですけど、この容器。

【手段B】 紙コップやペットボトルなど、より採取しやすい容器に尿を貯め、それをストローなどの細い管で移し替える。やれないこともなさそうだけど・・・。そこまでしてやるか?

【手段C】 っていうか受付で放尿する。それが一番簡単だ。

だいたい案も出揃ったところで、これを健康診断の担当者(女性)に確認した方が・・・いい・・・ですよね?いや・・・しなくていいですか?

いやまぁ、なんとかして採取できるっちゃできるけど。お風呂場とか、どうにでもなるところで放尿して、なるべくネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲を床に向けて角度がつかないようにすれば・・・いいのかも・・・しれないが・・・。

いや、とりあえず、尿の初速を計測して、地面に対してπ/4(ラジアン)の確度にネオアームストロング・ジェットサイクロン・アームストロング砲を向けて、いろいろガチャガチャ計算すればいいのかもしれないが・・・。

昔のように、紙コップに貯水したのを空気圧でボワーっと容器に吸い込むタイプの検尿用機に、戻って欲しいものだ。紙コップがゴミになるとか、採取方法が面倒だとかで、今の、なんだっけ、オナホールみたいな名前の採尿容器に変わってしまったんだと思うけれどね。

重い話になるが・・・。

「神様は試練を乗り越えられないひとには試練を与えたりしない。」

このようにおっしゃる方は結構大勢いる。私自身、生活していていろいろサポートしてもらったときに、そう言われることがある。なお、この場合の試練とは「障害を負うこと」である。

まぁ、言いたいことはいろいろあるが、神の存在とかは認めるとして、「何故試練を与えるのか」ということと「乗り越えられる、乗り越えられないはどういう基準なのか」ということがすごく問題だ。

人間、生きていれば多かれ少なかれ、だれだって辛いことを経験する。そして、それは自身が引き起こした必然的な事象もあれば、他人や、もしくは自然のように人間が介在できない要因で引き起こされた事象もある。例えば、不注意で地面の石につまずいて転んで骨折することもあるだろうし、地震で倒壊した建物の下敷きになることもあるかもしれない。上司からパワハラを受けて自殺したくなることもあるかもしれない。

これ以降、しれんを、このように「一般的に辛いこと」として話を進めていく。

で、「神様は試練を乗り越えられない人に試練を与えない」という言葉について。

まず、「何故試練を与えるのか」という疑問。試練とは辛いことなのだから、宗教的な観点では「罰を与える」ということになる。すると、試練を与えられた人間は罪を犯したということか?殺人犯が障害者になるならともかく、生まれながらの先天性の障害者も何か罪を犯したというのか?そんなことはないだろう。だから、「罰を与える」という意味での試練は筋が通らない。

ただ、セクトというかカルト教団なら、「前世で犯した罪が現世に影響しているから清めなければならない」とか、訳のわからない理屈をこねて金をむしり取ろうとするのだろうが・・・。そうやって、金を納めたのに息子が死んでしまったお母さんはどうしたらいいんだろう。自業自得といえばそれまでだが、健常者の息子を持つ親が客観的に思うよりもずっと重く、障害を持つ親は悩み苦しみ助けを請う手いるのだ。「自業自得」の一言を持ちだして「耐えろ」とか「甘えるな」とかいう人がいたら、まずはその人自身が、子供を失ったりしてみたらいい。人の気持ちを想像できない人間に生きる価値はない。

話が反れてしまった。

「罪」が理由でないのなら、試練を与える理由を他に求めなければならないのだが、私が暇にまかせてつらつらと書いている範疇では、理由が思い当たらない。めんどくさくなってきたので次にいこう。

次に「試練を乗り越えられるか否かの基準」について。「試練を乗り越えられない人には試練を与えない」のなら、神様には(きっと)何か基準があるはずだ。気まぐれで割り振られてるとしたら今すぐ神を殺しに行きたいと思うが、神様なので、(きっと)ピッコロ大魔王のように点から地上をのぞき見していろいろ考えて下さっていることであろう。

でも、次のようなことを考えると、本当にそんな基準があるのか、非常に怪しい。

これは、少し冒涜的なことを書くことになるが。例えば人間として生まれてきたのに、先天性の障害を持っていて、身体も動かせず言葉もしゃべれず、人間の尊厳が存在する状態かどうか怪しい子も、世の中にはいる。例えば、津波がきたときに同じ場所で何かにしがみついていても、流されて死ぬ人と流されず生き残る人がいる。これはいったい何の違いによるものなのか。

ただ、思った。もし、先に述べた「罰を受ける」という観念を持ちだすと、あっという間にこの難題は解決する。「重罪犯は生きながら苦しめ」、「それなりの罪を犯したのなら今すぐ死ね」、「罪を犯していないのなら救ってやる」。なんともキリスト様様な観念だ。あれあれ、なんか、もやもやしていたのがすっきりしてしまったぞ。

というわけで、かな~り酔っぱらいながら考えた結論。「試練はやっぱ罰を与えることです」。なんか、すごく残念だなあ。

だったら今すぐ神を殺しにいこう。神を殺せばこっちが法だ。神が決めた法は、神がいなくなれば法で無くなるはず。よし。世界に革命を起こそう。革命の同志たちよ、プロレタリア革命実現のために、今すぐこの赤の布を腕に巻いて決起しようではないか!!

⇒非常に危険な思想。なんか、書き始めたときはぜんぜん予測していなかったのだけれど、意外なところで新左翼の人たちの思考が分かってしまったよ。そういう意味では、俺だけにとって有意義な文章だった。

あぁっと、最後に一応本筋に戻っておきたいのだが・・・。

いろいろ考えて、演繹的?に結論は出したけど、私の感情としては、「こんなもんただの言い訳だ」。「神様は試練を乗り越えられない人に試練を与えたりしない」というのは、どうしようもない状況に合理性を持たせるための呪文に過ぎない。または、相手を励ますための定形的な文言以上の意味はないと考える。

この辺は、障害を持ちながら生きている人や、被災した人などの話を見聞きしていて感じることだ。重要なのは、試練を乗り越えたか、あるいは現状乗り越えたように見える人が露出しているのであって、乗り越えられずに自殺してしまう人も、自殺でなくても亡くなってしまう人も、大勢いるということだ。もちろん、うそかもしれない、私は統計を見て話しているわけではないので。

ただ、実際、乗り越えられた人なんかいるのだろうか。少なくとも、被災したり、中途で障害を負った人が、それらの試練を乗り越えてなどいない気がする。割り切っているか、意図的に忘れているか、どちらかではないのか?先天性の障害を持っている人についても、その障害が壁になることを認識したその日から、乗り越えられない壁の前で立ち止まることになり、う回路を探す必要性を感じることだろう。

なので、やっぱこの文章は特段有意義でもなかったかも。まぁ、時間を浪費できたということで良しとするか。ちなみに、エレン・イエーガーを思い浮かべながら最後の部分は書きました。

ちょっと前、プライムニュースを見ているときに聞いた話で「確かにそうだ」と思ったことがある。

イデオロギーの話。

まずテレビで言っていたことから書こう。だれが言っていたかというと、たまにプライムニュースで見かける評論家の人。名前を忘れてしまったが「西なんとかさん」だったような気がするし、そうでない気もする。結構お歳を召した方である。

で、その人が言っていたこと。「右翼、左翼っていうのは、今と昔で意味が変わっちゃった。昔は、右翼が保守で左翼が革新。ところが今は右翼が革新で左翼が保守だ。」と。そういう趣旨の発言である。

これはちょうど大阪市長と元東京都知事がタッグを組んだ頃の話だったと思う。違うかもしれないが、違ったとしても、そういう「左右がどうのこうの」という話だ。

で、前述の発言はどういうことかというと、まず一般的に左翼と言われている「共産党」や「社会民主党」は「国民生活を守れ」とか「憲法改悪反対」とか主張するので、これは日本の現状を維持しようとするものであるから[保守的]である。一方、一般的に右翼と言われている「日本維新の会」や、過去に存在した「たちあがれ日本」といった政党は、「憲法改正」だとか、現状の日本を変えていく方向の主張をしているので[革新的]である。

ここからは私の考えである。言われてみればその通りだ。本来、左翼と呼ばれていた人たちは、革命によって権力を妥当し、新しい社会に変革するのが主たるイデオロギーだったはず。対して右翼は、日本の伝統や制度(もっと直接的には天皇制)を守っていこうというイデオロギー。ものすごく簡素化するとそういうことであると私は理解しているのだが、現在の日本を見ると、確かに逆だ。根本的な思想は変わっていなくても、やはり過去の右左とはまた違ったイデオロギーがそこにはあるような気がする。

まぁ、イデオロギーとか政治の話は人それぞれ考え方があるので、別にこれに関して私は善悪を語るつもりはない。

ただ、一つだけ面白いことがあった。このイデオロギーの左右逆転現象は、何も政治家だけのことではなくて、割と一般市民にも当てはまるようだ。というのも、知り合いの考え方が、そっくりそのまま上記のように、左なのに保守的だったもので・・・。ただそれだけ。それ以上何も意味はありませぬ。

今日は自分の思いをぶちまけるだけです。何かを主張したり、意見を述べるものではなく、単に自分が考えていることをだらだらと書くだけの、糞の役にも立たない記事です、これは。

今まで何もしなさすぎたので、何かやろうと思って、3,4個のことに同時に手を付け始めたところなのである。詳しくは省略するが、CPLGのこと。どれも中途半端になってしまっている気がする。

Cについては漠然とした思いしかなく、これから方向性を決めて行かねばならぬところであるが、人生を生きる上で将来的なCは重要なので、真剣に考えなければならない。

Pについては、別に取りかからなくても良いことであるが、12月にPをupdateする必要があり、updateかchangeかということで、現状はchangeを選択しているところであるが、今のPよりも高いクオリティのPがなかなか見つからず・・・。いくつかNewPは見ているが、気に入るものがない。今のPに不満はあるものの破滅的な要素は特にないので、ひょっとしたらPはupdateすればいいのかもしれないが・・・。

Lは要するにlanguageであって、英語が分かれば「終戦のエンペラーには吹き替えがないの?どうやってマッカーサーの台詞を理解したらいいの?」的な疑問が解決するからして、頑張ろうと思っているが・・・。

Gは楽器のことであって、いや楽器という総称ではなくもっと具体的に「弦楽器(GGK)」のうち特定の方式で音を鳴らす電気的なデバイスのことを言っている。要するに、シングルコイルとハムのどっちが良いかといわれると、どっちも良いわけで、甲乙付けるのは難しいため、今持ってる、「シングルにもハムにもなりますよ」的なこのESPの楽器はいいのであって・・・。でも、楽器が良くても奏者が良くなければ力は発揮できないため・・・。練習しなきゃと思うのである。

以上、CPLGについていろいろと書いてきたが、さっぱり分からない。俺も、ぜったい後で読み返しても分からないと思う、特にCPは。

なんか、文明的な生活を放棄して、「山で芝刈りをしたり、河で洗濯をしたりする生活」を送りたいものだ。ザーメン。あ、間違えた、アーメン。

英語の教材にキャロリンさんという女性が出ていることが多いのだけれど、キャロリンさんがかわいい。日本人だったら間違いなくファンレターを書いているレベルである。キャロリンさんはたぶん30代後半であると思われるが、西洋人と東洋人のその辺のプロパティがどういう風に違うのかよく分からんので、きっとキャロリンさんは若いんだと思って、キャロリンさんでシコシコしながら英語を勉強しております。

ところで、今日知り合いの書き込みで、第2次対戦中、徴兵検査で不合格になった盲人が、敵機のエンジン音から機種を特定して防空に役立てる「防空監視員」という役目があったということを知った。なるほど、電車のモーター音で車両の系統が分かるぐらいだから、当時としては、エンジン音からレシプロ機の機種も分かったのかもしれない。

で、今戦争が起こったら・・・。さんざん「ソナー員なら全盲でもOKかもしれない」と言ってきたけれど、その「防空監視員」というのも軍人として責務を果たすには良いのかもしれない、と思ったわけだが・・・。

だが現代戦でこの仕事はほぼ役立たずだ。そもそも音に比べて光の方が進行速度が速いので、目視の方が早期に敵機を発見できる。

それ以前に、現代ではレーダーサイトがあるので、ステルス戦闘機でもない限り領空内に進入してくる飛行機は捕らえられるし、だいたい音が聞こえた時点で対処していたのでは、現代の飛行機を相手にするには間に合わない。

しかも、対戦中とは違って、摘記の襲来より先に、地対地ミサイルや巡航ミサイルなどによる攻撃が先行して行われるはずで、レーダーサイトでミサイルを捕捉できたとしても対処できるか怪しいのに、盲人が気づいたところで、どうしようもない。

結局、B29ぐらいなら対処できた音源よる防空監視も、現代では無駄なことである。やっぱ潜水艦しかないか、俺たちには。それか、あれだ。自爆テロ。

本日居酒屋にて。

臨席の女性が「童貞は夢見過ぎなんだよ!」とほざいておりました。その件に関して異論はないけれども・・・。処女は夢見ないのかな?ちなみに、俺はあの女とはやりたくありません。

ところで、酔っぱらったときに腹が空くと、何故ラーメンを食べるのかについて、電車で会った見知らぬ大学生と熱い議論を交わしていたのだけれど、結論としては「麺類はつるつるっと入っちゃうからじゃないですかね。別に蕎麦でもいいんですが、夜遅くに蕎麦屋はやってないですし。」ということになった。しかし、一口にラーメンと言っても、豚骨、醤油、塩など、スープがいろいろあるし、太麺か細麺かという違いもある。で、酔っぱらったときは「豚骨がいい」ということで、フィナーレを迎えたのであった。

さて、ここでもう一つ疑問が沸いてくる。「ギリシャ」と「ギリシア」のどっちが正しいのかということだ。「ペルシャ」と「ペルシア」も同様である。どっちやねん?紛らわしい。もう両方ともイカロスでいいよ。太陽に向かって飛ぶなんて、羽がろうそくだろうが更迭だろうがいずれは溶けるんだから関係ねえっつうの!

だいたい、地球から太陽を目指す理由はいったい何なのか。探査機ならともかく、イカロスである。太陽じゃなくて月に行った方が良かったんじゃないのか?ひょっとして脱獄したのはいいけど世間に絶望して自殺しようとしたのだろうか、イカロスは。タコロスだめだったのだろうか。

最後に。イカロスが出てくる歌って、あれ「走れメロス」ですよね?ですよね~?ね、メロスっすよね~?メロ~ス!!

ツイッターでフォローしている人たちの間で、「バリバラという番組で障害者とお笑いについて放送する」という話題があったので、初めて見てみた。ちょうど良い加減に酔っぱらっていることだし、全盲としての感想を、書いてみることにしよう。暇なのでね。

とりあえず、バリバラとは、こういう番組らしい → ホームページ。実際に見てみた感想としては、まず「NHKが変わったってほんとだったんだ」ということ。まぁそれは本題から外れるので深くは追求しませんが、あんなにお堅い国営放送だったのに、近頃は社員の権利とか規則みたいなのが民放より自由だとあちこちで聞いていたのは本当だったんだなと思いました。

で、中身の話。本日7月5日は「障害をどこまで笑いにできるか」というテーマだった。個人的には、面白いと思いました。まぁ、私は全盲なので、そもそも笑いの壺が健常者と若干ずれているかもしれないが、個人的には、広めていってもOKだと思った。

私が思いっきり笑ってしまったのは、前半に脳性麻痺の人とお笑いのプロの人がコンビになってやっていたコントと、後半に全盲の落語家が義眼ネタでやっていたコント。

前者は「子供のころにどんな遊びをしたか」というのでコントをやっていたのだが、ドラクエのバトルを再現する場面。お笑いのプロの人は健常者(だと思う)なので普通に自分のターンは攻撃するけれども、脳性麻痺の人はデフォルトで麻痺ってるから攻撃できないというパターンである。いや、普通に面白いでしょ。

後者は、全盲の落語家が義眼を外して、外した義眼といろいろ会話するという話。ぶっちゃけ、そんな顔でテレビ映ったら普通の人は気持ち悪いと思うだろうなと思ったんだが、なんか、他のネタも併せて一番評価が高かった。個人的には「これから夏やろ。お化け屋敷いくやろ。こんな顔でお化け屋敷行ったら、脅かす方の人がびっくりしてまうで。」という趣旨の場面が受けた。いやあ、台詞はもうちょっと違ったかもしれないけど、結構、そうだなあと思って(笑)。会場の人も「最初は衝撃的だったけど、途中から見慣れて目玉親父に見えてきた」と言ってる人もいて、まぁそんなもんなんだなあと・・・。

さて。基本的にはこういうのも有りだと、私は思う。ただ、あくまで「お笑いとしてやっている」という前提があるから面白いのであって、通常の生活の中でこういうことをやっても、受け入れられるかどうかは怪しいというのが私の正直な感想。漫画家の江川さんも出演していて、「演出が良いから面白いんだ」というようなことを言っていたけれど、まさにそうなのではないか。一般的なお笑いと同様にネタが面白い面白くないというのはあるが、それに加え、見る側にそれらを受容するだけの準備ができているかいないかは、結構大きな要素だと思う。

あと、「お笑い」という点では、同じ日本の中でも、地域によって差があるように思う。今回の番組は大阪で収録していて、会場にきていた人もきっと近畿圏から来ている人が圧倒的だったと思われるが、個人的なイメージとして、近畿とか関西の人は、お笑いに理解があるというか、割と日常生活になじんでいる気がする。だから、「お笑い」という前提条件の下でこうした企画は成り立つかもしれない。が、関東圏ではどうかというと、結構怪しい。関東の人は、こういっちゃなんだが、大阪の人に比べると礼儀正しいが、それ故にどことなく冷めていて、かつ、利害の有る無しを基準にする人が多い気がする。当然人工が多いので相対的にそう感じるだけかもしれないが・・・。だから、本当のところ、関西以外の地域でどういう反応があるかというのは気になるところである。

最後に。漫画家の江川さん。TVタックルで政治や外交の話をしているときは「とんちんかんな人」と思っていたけれど、芸術のことになると、やっぱり専門家なんだなということを思いました。それが今日の一番の収穫かもしれん(笑)。

今日は何も書くつもりは無かったけど、なんか思い出したらむかついてきたから、書いてしまおう。

日本は、自国の歴史をあまりにも自虐的に教えている。学校教育で。とりわけ19世紀後半から20世紀にかけての近代史において。

要するに、日本の植民地支配をかなり悪いものとして教えているということだ。いや、植民地にするというのは、今の時代の感覚で語れば悪いことなので、今の時代の人間に教えるなら「悪いことをしたんだよ」というのは正しいのかもしれない。しかし、学校教育における歴史、とりわけ近代史においては、コンテキストが完全に無視されている。つまり、当時、植民地を作って大国への道を歩いていかねば、逆に自国が植民地になってしまうような時代だった、という前提がすっかり抜けている。

もう一つ。欧米列強の植民地支配と日本の植民地支配のあり方が、割と同列に扱われているのではにか?実態はぜんぜん違うのに。ヨーロッパのどこの国が、アフリカの植民地に鉄道作りましたか?欧米のどこの国が植民地の経済を発展させて被支配国の国民を豊にしましたか?

そりゃ、独立運動してた人を弾圧するとか、戦時下に強制労働させたとか、そういうことはあるので、反省しなければなりません。しかし、無理矢理兵隊に取られたり無理矢理働かされたのは、別に朝鮮人だけじゃなくて本土の日本人だってそうだったのではないですか?

で、なんでこんなことを書くのかというと。最近また韓国人が書いた親日的な本を読んでいるのもあるのだが、学校で教わった日本の歴史とかがあまりにも酷すぎるなと思って・・・。いや、どちらかというと、教えていた先生がちょっとやばい、日教組だったなあぁと、思って・・・。あれじゃ子供たちが誤った認識を持ってしまうと、切実に思ったのである。

ちょっと特殊な学校で私は育ちましたのでね。小学校6年生のときの社会と、中学校3年生のときの英語を同じ先生に教えてもらったのです。その先生、戦争以外のことは全く持って普通だったのだが、戦争のことになるとマジやばかった。

どれぐらいやばいかというと、例えば英語の教科書に、大戦中のネタがあったとする。確か季節でいうとちょうど今頃、すなわち6月ぐらいにそのネタをやった。で、来る日も来る日もその戦争ネタから派生した英語の文献とか英字新聞とか持ってきては、戦争の愚かさを中学3年生に言い続ける。そして、最後には、日本国憲法の英訳をテストに出題してしまった。そんなこんなで、6月に戦争ネタの英語の授業が始まってから、10月まで戦争関連の授業は続いた。あの、受験生に英文法とかボキャブラリとか教えないで、戦争の愚かさを伝える英語の文章とかばっかり教えるのは、やめてくれませんか?

あとで聞いたんだけど、その先生。他の教員を休日に誘って、憲法とか、戦争のことについて熱心に勉強会をやってたみたいだ。今思うと、日教組だったんだろうなあ、あれは。

おかげで俺は、「韓国に行ったら日本人は殴り殺される」と、ずっと思っていた。それについては、実際に韓国に行ったときそうではなかったと気づき、逆に、おじいさんは割と普通に日本語で話しかけてくるということも知ったのでまあいい。それに、歳を取って、教科書には載ってない日本の歴史に触れることが、幸いにもできたので、考えを改めることができた。俺は幸せ者だ。

だって、97年ごろだっただろうか。ガイドライン法案だったか、とにかく有事の際は自衛隊がでれます出れますよ、みたいな法案が通っただけで「とんでもないことになったね」とかいう、社会党と大して変わらない主張をする先生に教えられたんだよ。あぁ。そういえば高校の世界史の先生も、革命とか戦争のことをよく話していたけれど、やっぱあの人も考え方は左だったんだろうか?いや・・・どうかな。世界史の先生は、左右どっちかっていうと、そういうのはあんまり関係なく、純粋に歴史学者として関心があるような雰囲気だったかなあ・・・。でも、小学校の社会と中3の英語の先生はやばかった。

ということで。明治・大正・昭和前半の歴史を、学校の教科書でしか学んだことがない人は、もうちょっと、きちんとした本を読んだ方がいい。

ときどき会社で感じる「感覚のずれ」はなんだろうか、とよく思うことがある。

「だれのために物を作るんだ?」という問いかけに対し、普通は「社会のため」とか「お客様のため」とか言うに違いない。そして、一般の技術者はそうあるべきである。

ところが。俺は、そうは分かっていても、そうはなれないと思う。プログラム言語を使うのが好きだ。環境を構築するのが好きだ。良い音で音楽を鳴らすのが好きだ。

まず、プログラム言語。これには諸説あるが、会社員でプログラム言語を使いこなす人間は、たいてい何か目的があって、プログラム言語でプログラムを書くはず・・・。でも、俺は、ただプログラム言語を勉強して、リファレンス通りに動くことを確かめたいだけなのだ。

次に環境構築であるが・・。普通はWebページを公開したいとか、PCでテレビ録画したいとか、そういう思いがあって何かしらの環境構築をする。しかし、俺はただどうやって環境を作るかが分かればいいのだ。環境を作る作業が実践できればいいのだ。作った環境で何かしようとは特に思わない。何か新しい環境を作るのが好きなのだ。例えるなら、料理を作るのは好きだけれど、いざ作り終わると、なんか食べる気がしない、ってやつがいるが、それと同じだ。ただLINUXのCDをぶち込んで環境を作っても面白くないので、ネットブートだとかなんだとかをいろいろやって、環境が作れることが分かれば、それでいい。

最後にスピーカー。俺は音楽を楽しみたいからスピーカーを買い換えたいわけじゃない。別に好きではなくとも、良い音で音楽が鳴らせるスピーカーを探求したい。なんというか、音楽としてのバランスとか出来具合とか、そういうのはあんまり気にしないというか、どうでもいい。スピーカーとして、生楽器をどれだけ再現できているかとか、解像度はどうだとか、そういうことなのだよ。

これらは、言ってみれば手段の目的化である。完全に目的と手段が入れ替わってしまっている。でも、これでいいのだ。これでいいのだ。人間、目的なんて持ってもだめだ。流されるままにだらだらと生きていくことこそが人間に与えられた贅沢である。その贅沢を味わうことの何が悪い!

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結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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