障害があるというのは、不便というか不幸というか。感じ方は人それぞれ。それは当事者にとっても、周囲で見ている人にとってもである。

障害当事者からすると、普段はなんとなく生活しているけれども、実際はいろいろな人に助けられているものだ。例えば、盲人であれば、普通に道を歩いているときでも、「大丈夫ですか?どこへ行きますか?」と声をかけてもらい、助かることもある。

ただ、その瞬間は助かっても、後々微妙なこともある。以下に例を示す。

  1. 目が悪いのはビタミン不足だからだとマジで思っていて、ブルーベリーを強烈に勧める人と出会ったとき。すいません、網膜剥離はブルーベリー食べても治りません。当然、勘違いしてる人にそんな理屈っぽい説得は効果がない。俺は一度「ブルーベリーを食べたらきっと良くなるわよ」とおばあさんに言われ、自宅までつれていってもらった数日後、郵便受けに何か分からないサプリメントらしき容器が投函されていたことがある。
  2. ハンドパワーで病気が治るとマジで思っている人と出会ったとき。いや、これマジ。思っている人は本当に思っている。そもそも、ハンドパワーなるものが実在するかどうか怪しいが、「私の知り合いにハンドパワーで病気を治している人がいるんですけど、一度来てみませんか?」とかなりマジで言われたことがある。秋葉原駅だったので、なんていうか、そういう意味では信憑性を感じた(笑)。
  3. 病気で目が見えないのは神様が与えた試練だとマジで思っている人と出会ったとき。アメリカ人はみんなそう思っているかもしれないが、日本人にもそういう人はいる。出家して集団生活を勧められたり、神を信じる人たちと共に共同生活をすることを強く勧められたことは、結構ある。全部断ったが。

いや、行為や気持ちは有り難いんですよ。助けてくれようとする。けれど、なんというか・・・。俺自身、そんな精神論とか科学的根拠の薄いことで障害が克服できるものとは、経験的に思ってないし・・・。息子の病気は自分のせいだと思っていろんな宗教をやったけれども、結局息子が死んでしまってどうしようもなくなってしまったお母さんも見たことあるし・・・。

あぁ。なんか、思い出したら切なくなってきたよ。障害児を産んだ母親は、やっぱり自分を責めて、自殺しようとしたりとかするのかな。うちの親もそうだったのかな・・・。たまたまなのにね。

でもさ、ぶっちゃけ、障害を持っていることは、俺は大学生までは不便だと思っていて、社会人になって不幸だと感じるようになったけれども・・・。障害者なんぞよりよっぽど不幸な人はたくさんいるよね。それを思うと。すいません。生きててごめんなさい。

こういう心の奥底に眠っている感情を主任に聞いて欲しいと思ったりするのは邪悪だろうね。だってね、そうしたとたんに・・・。いろいろ不都合な真実が明るみに出てしまうから・・・。すいません、すいません、すいません、すいません、すいません、すいません。