酔っぱらいの戯れ言 一覧

その昔、会社帰りにコンビニでビールを買って、ちょうど夏だったので我慢できず、道半ばにしてプルタブをプシュっとやり、そして、「ビールといえば野球」なので、ワンセグで野球中継を見ながら歩いていたところ・・・。

慣れてる道とはいえ「さすがに盲人がこれやるのはちょっとなあ」と思いつつも、でもビールうまいし、野球は良い場面だし、とりあえず自宅へ向かって歩いていたわけだが・・・。そこで突然後ろから声をかけられた。

「あの・・・。いつもお見かけするんですが、どちらまで行かれますか?宜しければ一緒に行きます。」

若い女性の声であった。あぁ、なんと。聖母マリア様はおいでであった。マリア様は見ていらしのだ、堅実に仕事をこなす私のことを・・・。だから、このような形で褒美を与えてくれたのだ。

とまでは思わなかったけど、「あ、どうも、有難うございます、では○○まで・・・」と言いかけて、ふと我に返った。片手にビール、片手に携帯を持ち、ビールを飲みながら野球見てた俺は、どうやって手引きしてもらったらええのん?

女性の申し出はとてもありがたいことだった(まあ、サプリメントとか押し売りされるまでは)。ただ、暗がりで後ろからは見えなかったんだろうけど、白杖かかえながら、両手にビールと携帯を持って歩く人に声をかけてくれるなんて・・・。あぁ、いや、だったらこれからも歩きながらビールのもうかな(笑)。

そういう、昔の一場面。なぜ、そういうことを思い出したかというと、ぜんぜん関係ないんだけど、中学生のころメル友だった子とのやりとりを読んだら、なんか思い出したのである。かなりどうでもいい話。

で、なんでそのメールをほじくり返したかというと、メーラーを乗り換えようと思ってるんだけど、データの移動がぜんぜんうまくいかなくて、あまりにイラっときたので、ちょっと和もうかと思って、手近なところにあった中学生時代のメールを手を伸ばしたという次第。ああ、ガキだったわ、俺。女の子の方がませてるっていうのは、中学生ぐらいの年齢でも当てはまるらしい。書きながらちょっと面倒なこと思い出したわ・・・。東京に出てきてから「変わったね」とかメールきて、そのまましばらく返事こなくて・・・。あぁ、まぁ、いいや。

あ~あ。社会人にしては長い休みを過ごしてきたけど、それも明日までか。ま、特段悪いこともなかったのでいいのかな。・・・

すいません、一般論なので、特定の個人をいうものではないことをご了承頂きたい。

人間、手遅れになってからでは遅いので、問題が発生しそうなら、できるだけ事前策を考えるものだが、結果的に問題が発生してしまうことはよくある。

ハゲにならないために、若いうちから育毛剤を使っていても、悲しいことに「運命の日」は訪れてしまうことがある。努力が無駄になってしまうことがある。つまり、「ハゲてしまう」こと、は・・・ある。

というのも、最近実家で家族とテレビを見ることが多かった。で、いちいち「あの野球選手はヘルメをとるとピカピカだな」とか、「あのアナウンサーは普通にしてると分からないけど、頭を下げるとツルツルだ」とか「頑張ってサイドを寄せてるけどてっぺんはカバーできてないね」とか、無駄な情報が入ってくるのである。そうすると、こちらとしては「そうなったら、自分は困るなあ」と思うわけで・・・。

個人的には毛が多い方なので、美容院でも「お客さんは将来大丈夫ですね」と言われることが多いんだけど、でも、そんなのあと何年かしたら状況が一変するかもしれない。どこかのウミボーズは「30過ぎたら一気にくるんだよ!」と、切実に切れていたので、三十路を間近に控えた俺としては、何か今のうちから考えておけることはないかと思うのだ。

とりあえず、「ハゲ」を発見することはできるだろう。髪を洗うときに、どの辺がやばいかは分かる。

問題は、発見できた後、どうやってごまかすか、である。もちろん、ごまかさないのも手だけど、もし「若ハゲ」だったら・・・。彼女がもしそのときいたら・・・。もうすぐ結婚式だったら・・・。ハゲたまま、神父さんに愛を誓えというのか?というか、ハゲ全開でプロポーズとかしろというのか?それは・・・割と無理だろう。

それは、以前にもちょっと書いたけど、私のおばが「ハゲは嫌い」と言っていたので・・・。「髪型をセットしないのは気にしなくても、ハゲはさすがに厳しい」という女性も多いことだろう。

で、まあ、それだけじゃなくて、仕事で取引先に挨拶するときも、やっぱり、堂々とハゲを見せるのもちょっと、どうかなと思うし(自然現象なんだからどうしようもないんだけど)、全盲ならあれだけど、視線とか気になるかもしれんし・・・。

脱線してしまったが、どうやってごまかすかは、非常に難しい問題だ。そう、全盲にとっては問題である。

女性の化粧にも言えることかもしれないが、例えば髪型のセットとか、健常者が鏡をみてやるような作業は、全盲にはアウトプットを確認するのが困難な作業なので、ある程度ごまかし方を習ったとしても、ほんとにごまかせてるかどうかは、もうだれかに確認してもらうしかない。その場合、一人暮らしだったらどうしたらええのん?

髪がふさふさのときに、「ワックスつけてセットしても残念な感じ」ということであれば、まぁ、あきらめはつく。でも、ハゲをごまかすのにあれこれ髪をセットしても、あまりごまかせてなかったときや、逆に目立つ感じになってしまっていたとしたら・・・。いや、それを確認する手段は多くないんだが、気づいたときの精神的ショックは計り知れないことだろう。

いっそ、ズラを作ってしまえばいいんだが、あれはあれで維持が結構大変みたいだし、費用もかかる。必ずしもズラが良いとは限らないようだ。

ということなので、自分に降りかかってきたときのために、ハゲないよう努力すると共に、ハゲてしまったときの対処方法については、今後学習することにしたいと思います。

なお、ここからは予断ですが、一応ここでは「ハゲ」とカタカナで表記してきた。他にも「はげ(ひらがな)」とか漢字もあるが、あえてカタカナである。

これは以下の本に習った書き方である。

須長 史生 著: 「ハゲを生きる―外見と男らしさの社会学」

この本、ハゲた人の心理を社会学的に分析した書籍としては結構面白い。昔読了したが内容を忘れてしまったので、もう一度読もうと思う。

で、この本は点訳されているのだが、何故「ハゲ」がカタカナであるかが分かったかというと、以下の本に、上記の著者が「ハゲ」とカタカナで書いた理由について、ある人の解釈が記述されている。

と学会 編: 「トンデモ本 男の世界」
   >> [ファイル05 おっちゃんの世界] → かつらすだれも踏み越えて

本日は以上です。

ほんと、ごめんなさい。今からすごく無責任なこと書きます。

人間、何かを失ったときに「喪失感」を味わうのはごく普通のことらしい。「家族の死」みたいな、自分ではどうにもならん事象に対しては確かにそうだと思うんだけど、まさか自分で決めたことについて、しかも俺自身にそういう状態が起こるとは思ってなかった。

なんというか、喪失感というと少し違う気がするんだけど、今まで当たり前にしてきたことをしなくていいとなってみて、なんか微妙・・・。もちろん身体的にも精神的にも、とても楽なんだけど・・・。ほんとごめんなさいね、今更「これで良かったんだよね?」と、つい自問してしまったりする。

自分で決めた路なので、「良かったよ、だからつべこべ言わずに前へ進め」というのがおそらく答えなんだけどね。まぁ、それを否定も肯定もする気はないが、少なくとも否定はしません。わけわかりません。

で、そこは端っこにやったとして、じゃぁ、虚無感にも似たこの感情は何なのかと考えてみると、一つの答えにたどり着いた。「承認欲求」とか「存在証明」とか、そういった類のものだ。

会社では、どちらかといえば、俺は一人でもくもくと作業することが多かったので、仕事してるときは、直接的にリレーションシップを感じることはなかったんだけど、それは単に無意識なだけで、本当はいろいろな人と関わり、自分の存在を認識できていた。もちろん、「たぶん俺はそう必要とされてないな」と思わなかったかといえばうそだけど、結果的には、(必要か否かということは抜きにして)いろいろな人とつながってて、無意識のうちに俺はそれを自分の価値に結び付けていたことに、ほんと今更気づいた。

ここ数日、SNSへの俺の投稿頻度が上がっているのは、たぶんそれが関係している。ゆるい形に変容したとはいえ、これまでのリレーションシップが多少なりとも維持できる状態をSNS上で、これまでに作った。そして、それを本格的に維持するために、ここのところ、SNSへの投稿がアクティブになっている。そういうことだろう。

っていうか、こんなこと書いて、俺は何がしたいんかね?さっぱり分からんこともないけど、なんか、こういうことを書いてしまい、ちょっとためらいながらも、ポストしてしまう自分が、なんか微妙・・・。

まぁ、「自分はここにいるんだ!」ということを、自分で認識できる手段が、たまたまSNSだったので、そうしているだけなんだろう。そして、今はどうか知らないが、少なくとも、そういう感情を抱いたことを後で思い返して懐かしめるように、こうして文章を残しているんだろう。

ま、会社でのリレーションシップを保持しておきたい理由は他にもあるかもしれんけど、まぁ、分からん。まあ、いいや。個人n的なこととかもあるけど、まぁ、それなりに大きな会社から、だれも知らないような職場へ転職するんで、親戚に言うときもなんか・・・みたいなのは無いこともないけど。怒られちゃうね、そういうことで判断しちゃね。自分の仕事にプライドを持てることが、一人前の要素だと思うから、頑張ることにします。

言っておくけど、割と葛藤してんだよ、俺は(笑)。

そういや、「俺の思い出って、どういう形で残ってるんだろう?」とふと気になったので、思い出してみることにした。

たいてい、普通の人は思い出に写真を残すことだろう。旅行や観光、何かの記念、いろいろな場面で写真を撮る。そして、アルバムを作る。昔みたいに、1冊の本に現像した写真を張っていく人もいれば、電子端末にデジタルデータとして写真を管理している人もいるだろうけど、とにかく、写真で思い出を残すことが多いはず。それは、多くの人、そして多くの場面において、目に映った出来事が思い出になりうるものであり、かつ、最も鮮明な思い出たりうるからだ。

けれど、全盲の私としては、写真とかあっても、「何の写真だっけ、これ?」という、思い出とはかけ離れた感想を持ってしまう。いや・・・。今は携帯とかデジカメで写真撮って、タグを付けたりファイル名を工夫したりすれば、どんな写真かをテキストでも確認できるように保存できるけれども、正直、俺はそんな面倒なことはしたくない。してもいいんだけど、めんどい。

そういうわけなので、盲人が思い出を残すとなると、記憶するか、または音声を録音するかのどちらかということになる。盲学校にいたころは、先生が気を使って、保護者用に写真を撮るのと同時に、例えば修学旅行の様子を録音したりして思い出を残す工夫をしてくれていたものだ。ただ、当時、音声を録音するのにカセットテープが主流だったけれど、今、私の手元にカセットテープを再生できる機械がないので、実家をあさってそのカセットが出てきても、思い出を再生することはできないんだけど・・・。そういう風に考えると、昔の写真でも、端末に左右されず閲覧できていいなあ。

でだ。学校にいたときは、そうやって周りが気を使ってくれてたり、記録として録音するという文化が当たり前だったんだけど、健常者の世界に出てくると、当然そうではなくて、さっきも書いたように、思い出としての記録は主に写真である。で、俺的に写真撮っても、あとあと思い出を懐かしむ材料にはならないので、そういうものは自分で撮ろうと思わなかったし、他の人が撮ったものを焼き増しするというようなことも考えてなかった。

そういう感じで今まできたから、最近不安になることがある。俺は事実上、自分の記憶にほとんどの思い出を残している状態だけど、この記憶はいつまで持続するんだろうか?

まぁ、私の目が、将来仮に見えるようになったときのために、少しぐらい写真を残しておいてもよかったかもしれない。一般常識は外れるけど、事情を説明して、何かの様子を録音させてもらえばよかったかもしれない。そういう風に、自分の身体と切り離した形で、思い出を残しておいた方が、よかったかなあと、ちょっと、ここ2,3日思っているわけである。

特に、最近のソーシャルメディアの普及が、よけい俺にそう思わせるのかもしれない。写真をアップロードするのが目的のSNSもかなり普及しているし、Facebookなんかは、テキストも書けるけど、どちらかといえば [picture-based SNS] という感じ。これらは、自分の写真を他者と共有できるのが良い点であり、これまでは同じ「時」を共有している人たちが思い出を共有していた状態を、サービスベースで思い出を共有できる形へ変化させた。

ここで注目すべきは、普通の人のFacebookの利用方法と、盲人のFacebookの利用方法は、割と異なるということだ。普通の人は前述したように [picture-based] なんだけど、盲人同士の友人が多い人は、Facebookであっても、テキスト中心のコンテンツをアップする傾向が強い。また、盲人だけど周囲に健常者が多い人は、テキストを中心にしつつも、ときどき写真をアップすることがある。

で、いろいろ長く書いてきたけれども、Facebookの友達だって、比較的強いリレーションシップの人もいれば、弱いというかゆるいリレーションシップの人もいるわけで・・・。盲人コミュニティとは比較的強いものの、健常者コミュニティとは割とゆるい繋がりであると、自分自身のことを考えている俺としては、「うーん・・・。」という感じなわけである。

その、思い出を共有する形態がね、プラットフォームは同じでもコンテンツが違う故に、事実上共有できてないし、だからといってこっちから共有できるようなものもないし・・・。

できることなら、音声も共有できるようなSNSだったらいいんだろうけど、でも個人的にはそれだけじゃだめだと思う。それだけ、というか、写真も音声も共有できたって、そもそも普通の人と盲人は、視覚情報が有るか無いかの違いによる「感性の違い」が割と著しいから、技術的に音声コンテンツの共有が簡単にできても、コンテンツとしてアップする人たちは、前述のテキストベースの人たちが移転してくるだけになるんじゃないかな、と思う。

なんか、だんだん話が逸れてきたので元に戻しますけど・・・。俺の不安としてはですね、一義的には「形に残らない思い出を持続できるか怪しいことが不安」であって、他には、さっきみたいに他人と自分の思い出を共有できるプラットフォームがあるのにうまく共有できないことについて微妙な気持ちになったりするし、あとは、もしも結婚式とかを自分がやるときに、「スライドで流すような写真なんかねえなあ」ということも思ったりするのである。

まあ、一番最後の問題は、当分私は結婚しない予感がするので、対して心配することではないかもしれない。

結婚といえば「結婚するためにはいろいろな処へ出かけなければなりません。積極的になってください」と、つい先日アドバイスを頂きましたが・・・。まぁ、努力はしてみようと思うけど、結婚は、たぶんそう単純にできるもんじゃないと、俺は思うなあ。相手が盲人だったらそう壁はないかもしれんけど、運よく健常者の彼女ができても、ご両親が偏見の塊で破断になること、多いみたいだし・・・。いや、まあ、好きになったら、相手がどんな人だろうと関係ないかもしれんけど、好きになるまでのプロセスが、俺にとっては一番問題なんだよ。

まぁ、いいや。結婚については、もっと酔っぱらったときに気が向いたら書こう。自分の結婚感とか書いたら、だれとも結婚できなくなるかもしれんけど、まぁ、しかたないね。長期的な視点を持たず、こうやって酔っぱらったノリで文章書いちゃう時点で、もうだめだ。さようなら。あぁ、心が苦しいよ。

題名のとおり、「私事」という単語を、自分が自由きままに書いているブログで書くのは、ちょっと「どうかと思う」けれども、それはそれで、なんとなく奥深いというか、あほみたいなので、やっぱり書きます。、

私事ですが、本日、会社を辞めました。自分が他人の「退職告知」を読む度に「そんなもん書く人の気持ちは5割ぐらいしか分からん!」と常々思っていたけれど、今日、8割ぐらいは分かる気になったので、したためているということである。

さて、今の会社と言ってよいものか・・・。とりあえず、今日まで出社していた会社。相対的には、長く世話になったとは言えないかもしれない。が、初めて勤めた会社ということもあり、どっぷりその会社の文化にひたったのではないかと、我ながら思う。

文化とか、方針とか、個人的にどうかと思う部分はあったにせよ、こう言っちゃなんだが、俺はこの会社に拾われたと言ってもいい。大学院に進んだものの、なんだかんだで中退して、リーマンショックの影響が波及する前に運よく入社できた会社。全盲という、正直、俺自身も「どういう存在なん、それ?」と思うような人でも、雇う決断をした会社。

関係者が読んでいることを承知であえて書くが、この会社を私が「好きだったかどうか」と尋ねられれば、「Yes」とは即答できない。もちろん、それなりに大きな企業だったので、体裁は整っていたけれど、それなりに大きい故に、矛盾した側面もあったように思うし、それでも、きちんとした側面はあった。

様々な要素を内包していた会社。組織として見た場合の感じ方はそういうことなんだが、同僚、上司、仕事上で関係のあった人々、それぞれを個々に考えると、皆良い人であった。技術者としてのプライドを持ちつつ、もちろん技術職でない人も、自分の役割をきちんと果たすという意識を感じたし、相対的には優秀な人材がいた会社だったのかなと、今になって思う。

けれど、私は、会社を辞めることにした。それは、次の、全く違うステップへ進むためである。めんどくさいし、最近は物騒な世の中なので、詳細は書かないけれども、私は私の決断を正しいものと信じている。

新しいステップに対し、希望はある。自分の実現したい夢もある。同時に、現実を見れば、そのような綺麗事ではなく、もっとドロドロした財源とか政治的リレーションシップのような、ビジネスではあまり想像のつかない領域に、ひょっとしたら足をつっこまないといけないかもしれない。まぁでも、それはそれでありじゃないか。別に、それで失敗したなら、また、別のことを探せば良いだけ。

正直に書きますが、今朝までは、「今日で会社を辞めるんだな」という意識はほとんど持たなかったし、関係者へ挨拶しているときも、そんなに意識することはなかった。でも、飲んで帰って着て、割と酔っぱらっているけれどもうちょっと飲みたい気分でちょっと飲んだ今、今になっていろいろ思っている。

人間、自分は大してウェイトが高くないと思っていることでも、他人からすると、結構ウェイトが高いように言われることもあるし、逆のこともある。お世辞にも私は会社に利益を与えたと言えないが、・・・いや、そうではないと言ってくれる人もいるかもしれないが・・・。終わってみれば過去のこと、でも、感じている今は今なので今なんだ!

そういうことなので、最後の「ギュー!」は忘れません。

ところで、入社した当初にお世話になってた人のところへ挨拶に行ったときのこと。「メール送っておいたから」と言われて、席に戻ってメールを開いたら「真剣に結婚を考えろ」と書いてありました。まぁ、そういう年齢ですがね・・・。どういう意味ですか?「凪のあすから」を見て、「片思いが一番美しい」とかいう感想を述べる俺に、どうやったら結婚を現実的な人生のライフプランとして認識できるんだろうか?っていうか、「ギュー!」が忘れられなくて割と困っています。

そういうわけなんで、もう、何を書きたいんだか、さっぱり分からんね、これは。

では最後に。

なんだかんだ、この会社で良かったよ。人間、ないものねだりするのが常だから、在職中に思ったことは、真実であり願望であり希望であったが、今となっては、悪くない思い出です。

今後は、別に自分を高めるわけでもなく、とりあえず、いつ死んでもいいように、毎日を必死に生きて、余力があったら将来の自分と、それから、将来の子供たちへ、希望を繋ぐ仕事をしていきたいと思います。というのも、隣の部屋で、あかちゃんが「夜泣き」しとるもんだいね~。

それでは、また。とりあえず、仕事じゃなく遊びに、今度横浜行こう!確か、去年の終わり、シベリア鉄道だと思っていたら、ただの東横線だったとかっていう意味不明な出来事がおきたけど(笑)。

自己矛盾

会社からの帰り道、こんなご老人がいらした。

(電話しながら) 「え?!6万円通帳に入れただって!!それがばれたらどんなことになるか、お前分かっているのか?!?!」

ここ最近、こんなに自己矛盾した方に出くわしたことがなかったので、新鮮でありました。6万円を通帳に入れちゃったこと、公衆の面前でばらしちゃってますね、おじさま。

今日は投稿がツイートされるかテストしたかっただけなので、以上。

先日、飲み過ぎてノリノリになっているとき、暇つぶしに何か録画した番組でも見ようと思ってあれこれ探していたら、以下の番組をまだ見ていないことに気づいた。

「NHKスペシャル「みんなの夢まもるため~やなせたかし "アンパンマン人生"~」 - 2014念01月05日」

これを見て、酔っぱらっていながらも、いろいろ思うところはあったわけであるが、一番強く感じたのは「戦争を二度と起こしてはならない」ということである。アンパンマンは、作者のやなせ氏が中国戦線で戦っていたときにひもじい思いをしたことで「まずは食べることが重要だ」と思ったのが発端らしい。だが、それ以上に、特攻隊になった兄弟や、戦争で死んだ仲間がいるのに自分が生き残ってしまって、「何のために生きているんだろう」と思うときが多くあった、という点が、戦争の残酷さを印象づけていたと感じる。

上記の番組で戦争絡みの話は、やなせ氏を語る上でのエピソードに過ぎないが、「戦争はだめだ」ということ自体、大きな意味を持っている。

例え、第三国が戦争になったらぼろ儲けできるとしても、やっぱり戦争は悪いことだ。まぁ、戦争特需でおいしい思いをした日本人が言えたぎりではないでしょうが・・・。今まで、戦争が起きても、憲法を盾に大規模な要員派遣をせず、後方支援の名目で経済的に儲けさせてもらってすみませんでした。

そんな訳なので、日本が二度と戦争を起こさないように、そしてめんどくさいもめ事に巻き込まれないように、安全保障については次のとおり戦略を立てるべきと私は考えます。

まず第1に、防衛的軍備拡大をすること。防衛予算が上がっただけで「日本の軍国主義化が進んだ」とか「戦争へ日本が向かっている」とか言うよく分からない人がいるが、もうちょっと日本の軍事力を正しく理解してからものを言ってほしいものだ。

軍事ジャーナリストだった小川さんという人が、何かの本で書いていたことであるが、日本は海洋国家であるが故に、その防衛に当たっては、シーレーンの確保が先見事項である。第2次大戦中、日本海軍がシーレーンの防衛を軽視したために、南方からの補給路をずたずたにされて、結局本土には「油が無くて動かせない兵器」ばかり残って戦力にならなかった。現代に視点を戻しても、海上輸送路が制圧されれば、日本が立ちゆかなくなるのは明確である。石油が届かなくなっただけでも、原発が使えない現状では電力供給もままならなくなる。

従って、現在の日本の軍事力、すなわち自衛隊の得意分野の一つはASW(対潜水観戦)である。

私がいう防衛的軍備拡大とは、他国から日本が攻められないようにするための軍事力拡大を刺す。ASWはその一つだし、BMDももちろんそうだ。敵地攻撃能力は、とりあえず持つ必要はない。戦略爆撃機を持って変に周辺国を緊張させるぐらいなら、アメリカの核の傘に守ってもらっていた方がましだ。

それに加えて、防衛的軍備拡大において、「プロジェクション能力を不必要に向上させないこと」も重要である。これも小川さんの本に書いてあったけれども、プロジェクションとはすなわち輸送力のことである(厳密には違うかもしれないが、ここではそういうことにしておく)。つまり、いくら良い装備をたくさん持っていても、兵隊をたくさんかかえていて高い兵力を持っていても、戦闘地域へ兵力を展開する輸送力がなければ意味がないのだ。

その意味で、今の自衛隊はそんなにプロジェクション能力は高くない。東日本大震災の後、改善はされたのかもしれないが、少なくとも、当時は、米軍の方が被災地に早く到着できてしまうほどの輸送力しか自衛隊にはなかったということだ。地震を言い訳にしてはいけない。戦争だって地震と同じかそれ以上に過酷な状況なのだ。

だから、災害派遣目的で、国内に速やかに部隊を展開させることができるだけのプロジェクション能力は必要だが、それ以上に能力を上げて、他国に悪い印象を持たれてはいけない。まぁ、人質になった数十人の日本人を助けに行けるだけの装備と法律は必要だと思いますが。

長くなったが、抑止力の観点で軍備は拡大する必要があるというのが私の考えである。一般的な生存戦略として、相手を倒せるほどの能力は持たずとも、相手に「屈服させるには高くつく」と思い込ませることが必要なのである。

だって考えてみてくださいよ。国家間の問題は外交で交渉するのがルールだけど、その裏には必ず軍事力が存在していて、いざとなれば外交の場でどの国も軍事力をカードとして使う。想像してみてほしい。あなたが「金を出せ」と脅されたとき、丸腰でやせこけた男から言われるのと、ナイフを持った屈強な男から言われるのでは、どちらに命の危険を感じるだろうか?

国家という枠組みが維持され続ける限りにおいて、たぶんこれは変わらないだろう。最も、国家という単位がいつまで続く制度なのかは、微妙なところだが・・・。もしかしたら、Googleの方がアメリカ連邦政府より強くなる日は、そう遠くないかもしれない。

第1の主張が長くなってしまった。

日本が取るべき戦略の第2は、兵器の無人化である。アメリカではだいぶ進んでいるようだが、日本も、UAVとか陸上用の軍事ロボとか導入して、兵力を無人機械に置き換えていく必要がある。

ただ、どこか一方が兵器を無人化するだけでは、無人化されていない側が人的損害を被るので、世界的に兵器は無人機械に頼った方がいい。どうしても戦争しなきゃいけないようになったら、人ではなくロボット同士で決着をつけさせるような社会が現実的かも知れない。

ただ、ロボットだけで戦争して勝ち負けを決められるのであれば、ファミコンのストリートファイターで十分な気がしてきた。それではだめだから、重要拠点を攻撃して、意志決定できる人間を殺す必要があるのだ。その巻き沿いになった民間人は「平和とか正義のための尊い犠牲」であって、しかたのないこと。そういう考えなんだな、たぶん。

ということで、結論としては、怪しまれないように、日本は軍事力を拡大させてくださいな。あ、でもこれ、ヒットラー率いるナチス・ドイツと同じじゃないか。困った。

あぁ、だから今の総理大臣は、必死になってアメリカに取り入って、軍事力拡大を正当化してもらおうとしてるのか。でも、それにしては、靖国神社に行ったりして訳の分からない人だ(ケリーが千鳥ヶ淵へ行ったことは当然ご存じだろうに)。

まぁ、あべちゃんの気持ちは分かるよ。日ロ戦争までの「誇り高き大日本帝国」を取り戻したいんでしょう。タイムスリップして「シベリア出兵なんかやめろ!」と言いたいでしょう。アメリカに追従するだけの日本じゃ満足できないでしょう。だったらもっとちゃんとしてよね。

職場に、絵に描いたような「うだつの上がらないサラリーマン」って感じの人がいるのだが、なんであの人はうだつが上がらないんだろうか。聞くところによると、それなりに厳しい部署出身の人らしいのだが、今私が見る限り、どうも、うだつが上がっているようには見えない。

まぁ、「うだつの上がるサラリーマン」の方が珍しいのかもしれないが、その人を見ていると、自分ももたもたしていられないような気分になる。

正直なところ、メディアに取り上げられるような、経営的な考えを持っている人とか、社会公権的な活動をしている人の話を目にする度に、「自分は今のままでもいいのか?」と問いかけてしまう。権力欲というのだろうか、そういうのがないわけではないが、単に平凡に、人並みの人生を送っているだけで、本当に大丈夫なのかと心配になることがある。

冷静に考えれば、それはただの杞憂で、実際のところ、平凡な人生を送ることは間違っていないと思うのだが、いかんせん、メディアに取り上げられる人の生き方がまぶしくて・・・。自分は、社会にどんな価値を創造できる存在なのか?とか考え始めると、「え?価値を創造というか下落させているのでは?」ということが多くてへこむわけで・・・。

まぁ、価値とは相対的な概念であるから、深く考えなくてもいいのかもしれないけど・・・。

けれども、相対的であるからこそ、固定的な考えにとらわれず、社会の潮流にうまく乗れる形で、価値を体現できるような存在になることが、これからの時代、求められてくるのではないか、とも思う。

ぜんぜん話は繋がらないけれども、そういう革新的な方向に走りたい気持ちと、生活の安定を望む気持ちの両方に板挟みにされて、私は最近疲弊しているのだ。エッチなことがしたいけれど、ソープに金を払うのは気に入らないのでオナニーで我慢しているけれども、それはそれで寂しいので、やっぱりたまにはソープに行きたいとも思うが、でも、全盲であることを理由にエッチなことをさせてくれないのではないか?と想像すると、そう簡単に川崎まで行く気にもならない。

もうどうでもいいや。今日、ファミマよりもセブンの方が「ペペロンチーノはうまい」ことが分かったので、良しとする。

昔、彼女がいたころ、ときどき料理を作ってもらっていたのだが・・・。まぁ、おいしいことはおいしかったのだが、正直なところ、「なんかひと味足りない」って感じだった(読んでたらごめんなさい)。

で、たまに実家に帰ってご飯を食べると、やっぱりしっくりくる。「あぁ、これがお袋の味か」と思ったことは、無いこともない。

私のこの見解について適当に推論すると、たぶん母親が作る料理の味に舌が慣れているからだと考えられる。っていうか、お袋の味っていうものはだいたいそういうものだろう。料理の味にしても、労働に対する価値観にしても、親の影響は大きいものだから当然のことだ。

ところが、ちょっくらショッキングな事実が判明してしまった。どうもうちの親、調理師免許と栄養士免許を持っているらしい。え?うそでしょ?まさか・・・。学校給食(高校生のときの寮を除く)がすんなりなじんだのはそのせいか?

そうなると、大変困ったことになる。現場から大変遠ざかっていたとはいえ、免許を持っているということは、多少そのときに勉強した知識を元に料理を作っているはずなのだ、うちの親は。「それは違う」という主張を展開される方もおられると思うが、だいたい人間なんて自分の経験以外のことを思いついたり実行したりできないので、私は割と信じている。少なくとも、私の見立ててでは、うちの親は凡人だ。たぶん、突飛ではない。

ということは、多少なりとも知識を持った人手ないと、私は人が作った料理に満足できないのではないか?知識というか経験というか・・・。「ひと味足りない」原因を、私は免許の有無に求めてしまうかもしれない・・・。

まぁ、冷製に考えると、免許を持っているということは、ある程度均質な料理を作れるということであるから、万人受けする、すなわち「まずくない料理」を作れるだけの勉強はしたということであって、それが必ずしもおいしいかというとそうではないと思うのだが・・・。機械で作った冷凍食品も、ずいぶん味が良くなったしね。

そういうわけで、私がお嫁さんを探す場合、まず「調理師免許」の有無を条件に加える必要があるかもしれない。でも、そんな人が嫁さんになったら、やっぱり毎日「給食」なのかしら・・・。「料理は愛情!」というけれど、それはたまに作るからそうなのであって、毎日のルーチンワークに成り下がると「やっつけ仕事」になって、結局は「給食のおばちゃん」的なところに収束していく気がする・・・。ジレンマだ。

ちなみに、今かなり酔っぱらっていて、もう最初の方に何を書いたか覚えてない。北朝鮮は野蛮な国だ。日本が支配してやつらに人権を与えてやらねばならん。ウソピョーン!

でも、まぁ、身内を処刑するのはちょっとね。日本の戦国時代だって、辟易してた人はいっぱいいると思うよ。それが、「民主主義」とかいう文字が入ってるくせに独裁的な国家であるどこかのだれかさんが・・・。あああああああああああああ!Fuck!!

最近いろいろあったのよ。ちょっと、最後ぐらいは頑張らないとなって思うの。私は、「主任のためなら命をかけて戦う覚悟があります」と言いつつも、実際に死ぬか生きるかの場面になったら及び腰になって逃げるタイプの人間です!Yes, Sir!

以上。人妻最高!Yeah! Very good! Not, great! Yeah!

全盲が一般企業で働く際、困ることはいろいろあるけれど、今日はIT以外のことで・・・。

1. 人の在籍状況がよく分からない

だれかに用事があって話しかけたりしたいとき、その人が席にいるかどうかよく分からないときがある。キーボードを打ってたり、話をしていれば分かるけれども、じ~っと書類や画面を見つめている人までは認識できない。
外資系オフィスのようにパーティションで区切られて手、座ったままだと周囲の様子を見られないようになってれば、ためらわず内線をかけたりできる。けれども、「著しく生産性を低下させる」とどこかの新聞で揶揄された、オープンな、日本企業のオフィスだと、同じ島の席の人に内線を掛けるのはちょっと・・・。だからといって、同じ島でも、机二つ文ぐらい離れると、音だけでは在籍状況はよく分からないし、ましてや隣の島とか、普通だったら見える距離だけれども音でいろいろ判別するには微妙な距離となるとどうしていいのやら・・・。
まぁ、恥ずかしがらずに声を挙げて名前を呼べばいいのだが・・・。静まり返ったオフィスでは、私はあんまりやりたくない。
こういうときに、社内用のインスタント・メッセンジャーは便利そうだなと思う。うちの会社みたいに、メッセンジャーというだけで毛嫌いされてしまう敏感な会社じゃ、導入は無理だと思うけど。

2.電話の保留がわけわかめ

先進的というか、多くの会社では、部署単位または会社単位で、電話の保留バンクというのを持っていて、かかってきた電話を保留したときに自動的に空きバンクに保留するようになっている。保留された電話を取るときは、自分宛ての電話が保留されているバンクを選んで替わるわけだ。
この場合、他人が取った自分宛ての電話を取るのはそんなに難しくない。保留バンクの番号を教えてもらって、ボタンを押せばいいだけだ。
でも困るのが、自分が他人宛ての電話を取ったとき、どの保留バンクに保留されたか分からないのである。普通はランプでどの保留バンクか見るので・・・。そうすると、替わりたい相手に「保留何番にお電話です」と伝えなければならないところ、伝えられないということになる。みんな、どうしてるんだろう?
ちなみに、うちの会社の電話はそんな高機能ではなくて助かっている。保留バンクなど無くて、人に電話を替わりたいときは、単に替わりたい相手の内線電話に転送すればよいだけである。それか、受話器を渡すのだ(笑)。

3.席替えのときはほぼ役立たず

配置転換や担当業務変更などでチームが替わると、それに合わせて席替えすることがあるが、そのとき全盲はほとんど役に立たない。非常に居づらい。いっそ、席替えの日は遊休消化したいぐらいである。
手伝おうにも、だいたいそういうときはフロアがゴチャゴチャになるので、こちらとしても同僚としても「ちょっと動かないで!」ということになるのが通例だ。
フロアのレイアウト変更を伴うような比較的規模の大きい席替えならば、業者を入れたりするのであれだけど、仮にそうだとしても、移動した荷物の仕分けとかをみんながやっている間、自分の仕事をするというのもなんか・・・。あまり良い気分ではない。

4.自販機で飲み物を買うと、思っていたのと違うものが出てくることがある

最初に、自販機に点字ラベルを張ってもらうとか、どこに何があるか教えてもらったとしても、自販機というのは季節によってメニューが変わる。
冬はホットコーヒーだった場所が夏にアイスコーヒーになるぐらいの変更ならいいが、お茶のペットボトルだったところが、ある日炭酸飲料に換わっていたりすると悲しい気持ちになる。炭酸が飲めない人はもっと悲しいことだろう。
まぁ、これは別に会社にいなくても同じである。

5.会議中に何の話をしているか分からない

紙でもプロジェクタでもいいけど、資料を見ながら会議するとき、いったいどこの部分について議論しているのか追えなくなることがある。
同じ部署の場合だったら、なんとなく話の流れとかで分かったり、ちゃんと項目番号とかで話している場所を教えてもらったりすることもあるのだけれど・・・。話がはずむとだんだん普通のペースに戻ってきて、通常のように視線でのやり取りが始まる。
ましてや、他部署の、初めて打合せするような人とか、他社の人とかだと、一応配慮して欲しい旨伝えても、だいたい忘れられる。まぁ、これも、うまいこと逐次確認していくしか解決策はないのだけれど、なんとかならんもんか。

6.エレベータに遊ばれる

それなりのビルなら、エレベータホールに6機とか8機のエレベータがあるのが普通だろう。
そういう場合、どこかのボタンを押せばエレベータを呼べるけれども、どのエレベータを呼んだのか分かりにくい。ランプが点灯したエレベータが「ポーン」と音を出すタイプの機械もあるけれど、エレベータホールはそんなに狭くないため、方位を特定できないこともある。
で、そういうときに限って、手前側のボタンを押したのに一番奥のエレベータが来たりする。それを認知できた場合、すたすた奥に歩いていくのだけど、実際のところ一番奥なのか、それより一つ手前ぐらいなのかといった厳密な位置はまさぐらないとよく分からないので、恐る恐るいろいろやっているうちにドアが閉まって別の階へ行ってしまうことがよくある。加えて、こういうエレベータはホールの左右にエレベータがあるので、「これは右のエレベータが来たのだろうか、左のエレベータが来たのだろうか」ということも考慮せねばならず、まぁ、だいたい乗り遅れる。
しかも、これはうちのビルだけかもしれないが、しょうがないので乗り損ねたエレベータのところにあるボタンを押すと、今度はまたまた真逆のエレベータが来るのだ。そうして、エレベータホールを3,4回往復しちゃうこともしばしば・・・。最近、見かねた警備員さんが教えてくれるようにはなったけれど・・・。ボタンを押したときにどのエレベータを呼ぶか決定するアルゴリズムを、もう少し見直した方がいいと思う、なんちゃらビルシステムのエレベータは。

7.社員食堂はあるけど使いにくい

おいしいかどうかは別として、安い価格でご飯を食べられる社員食堂はぜひとも利用したいところであるが、そういうところはセルフサービスである。それをどうやって利用するかは重大な課題だ。
まず、「同僚と一緒に行く」という選択肢が思い浮かぶが、毎日というわけにもいかないだろう。同じ人ではなく、代わる代わる食堂へ行く同僚をみつければいいのかもしれんが、同僚がみんなコンビニのおにぎりや愛妻弁当を持参してくる人たちばかりだったらどうするのか?
とりあえずそれは置いておいて、独りでセルフサービスの食堂に行ったら何が困るかというと、まぁいろいろある。

  • メニューが分からない。普通の店みたいに、席やレジのところで聞くわけにはいかないからだ。意味が分からない人は、カフェテリアがどんな形式か調べてみるとよい。まぁ、だれかと行ったときに教えてもらって覚えればいいっちゃいいけど、メニューは変わりますので・・・。
  • 空いている席が分からない。セルフサービスであることから容易に想像できる通り、社員食堂にはほとんど人出がない。店員というか、(たいていは)おばちゃんにいろいろ手伝ってもらうのは、はばかられるほどの込み具合だし。お盆を持って白杖を使って、どうやって席を探せと?だいたい、お盆を持ってなくても、空いている席を探すというのは盲人にとって「働くのと同じぐらい神経を使う」ことなのだが・・・。

ちなみに予断だけど、全盲の人で、だれにも指図されずにお盆を水平に持てる人ってどれぐらいいるんでしょうかね?あるいは、晴眼者は、目をつむったらお盆を水平に持てるんでしょうかね?

あと、通勤中にも困ったことはある。

8.朝、うんこをしたくなっても「トイレはどこ?」状態である

平時にちゃんと通勤ルート上のトイレを確認しておけば、戦時にあわてることはないのだが、普通、通勤途中の駅を、トイレを探すためだけに利用することはあまりしないだろう。だから、いざというとき、必死に便意をこらえながら、漏れるか漏れないかのギリギリのラインで、駅員さんにいろいろお願いしなければならなくなるのだ。そのとき、たぶんすごい顔なんだろうと思う。
しかも、駅員さんに頼んでトイレまでたどり着けても、朝の駅のトイレにはだいたい先陣が個室を占拠しているため、すぐにリリースできないこともある。そういうときが、最も困る状況だ。

9. ババアがつっこんでくる

ババアでなくとも、最近はスマフォを使いながら歩く「たわけ」がたくさんいる。

10. ジジイにどなられる

てめえが死ね!馬鹿野郎!!点字ブロックの上につったってるお前が邪魔なんだよ、このハゲ野郎!

以 上。

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プロフィール

結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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