酔っぱらいの戯れ言 一覧

11月から無事働き始めた。ああ、ビールがうまい。

さて、働き始めて「ああ!」と思ったのだが、人間ドックって大変困るなあと思う。ただの健康診断とは訳が違うのである。

まあ、検査される内容についてはよく分からないのだが、最大の問題は「バリウム」である。バリウムそのものは最近おいしくなったらしいのだけれども、いやいや、その後ですよ。

「うんこ、どうするの?」

一般的に、バリウムを飲んだ後のうんこをどう処理するかはそれぞれだと思うけれども、気になる点は次のとおりである。

  • ケツから出てくるときはどんな感触なのか?普通とは違うだろう。なんか、こう、堅いものを産み落とすような、痔になりそうな、そんな感じなのだろうか?
  • 産み落としたうんこをどうやってすくい上げるのか。目が見えていれば、まあなんとかなりそうだけれども・・・。便器に排出されたバリウムうんこって、見なくても取り出せるもの??

間違ってもバリウムを飲んだあと、自宅ではトイレに行きたくないなあと思うのだが、だからといって、出るものは出ちゃうのだからどうにかしなきゃならん。一部には、「人間ドックの後はカフェで時間をつぶしてそこでしてくる」とか「百貨店へ行く」とかいろいろ解決策はあるようだが・・・。

まあ、人間ドックなら、会社のトイレでしてもいいかな、とは思う。けれど、いくら会社のトイレだからといって、流すわけにもいかない。となると、会社のトイレで産み落として、流さず放置するということになるのか?うちの会社のトイレは内側に扉が開くタイプなので、だれも入ってないときはオープンであり、流さないで放置しておくといろいろ不都合なのですが・・・。

何より、近年は個室でケータイを見る人が増加していることにりょり、常に会社トイレの個室は稼働率95%以上という、その辺の情報システムよりよっぽど利用率高いような昨今・・・。個室から人が出てくるのを、歯を食いしばって待っていた人が「ああ!やっと個室空いたわ!」と思って入ったとたん、目の前に広がるバリウムうんこを目にしたら、それはショックが大きすぎるだろう。そういう意味でも、あんまり、放置プレーはだめかなあという気もする。

結局もんもんとするだけで、バリウムうんこをどうやって解決したらいいのかはよく分からなかったけれども、みんなどうしてるんだろう?

こちらは久しぶりの更新となりますが・・・。

ひとまず、就職が決まったのでご報告します。ええ。11月から働きます。

思えば、2008年に大学院を辞めて、今年は2社も会社を辞めて・・・。振り返ると「自分には学習能力が欠如している」ということを身にしみて感じるのであるが、そうであっても、肝心なところでは運に恵まれている境遇だなあとしみじみ感じるわけである。こういうことは、この先ないだろうと思うので、まあ、正論はいろいろあると思うけれど、とりあえず、頑張っていきたいと、そう思います。

さて、Twitterでも一瞬言及したのだけれど、以下の記事を読んでいろいろ思うところがあったので、メモ程度に書いておこうと思う。

「同じ会社で定年まで勤め上げる」ことは、ただの自己満足です

これは、タイトルから想像できるように、「定年まで同じ会社で働く」ことについて批判的な論調を展開している記事えある。あまり正確で無い要約をすると、「同じところにいると価値観も固定されて何も変革できないし、新しい出会いもないから、いろいろな会社で働いた方がいい」ということのようだ。

私自身は、この意見に賛成である。同じ組織に所属して同じ空気ばかり吸っていると、考え方も保守的になるし、おそらく外界の動きにも疎くなってしまう。何より、記事の中でも触れられているように、リストラなど、意図せず会社を辞めなければならなくなったときに、食っていく手段を身につけられない。そうなったときに、「自分の何を売り込んで仕事を探せばいいのか」ということについて、考えすぎて眠れない日々を送ることになるだろう。

しかしながら、一般的には正しい意見だと思うのだが、障害者については、ちょっと当てはめるのはつらいかなあという印象である。

「障害者が働く」ということに関して、いつかこのブログでも書いた気がするけど、まずは「就職すること」がゴールになっているという現状がある。実はスタートラインに立つことなんだけど、すでにゴールなのだ。

その状況は、全体的にはここ数年で改善してきているようではあるが、障害別、及び、障害等級別で比べると、おそらく微妙だろう。端的に言えば、軽度障害者の就労は着実に進んでいるが、重度障害者の就労は水準を維持または悪化していると考えられる。これは統計的な資料に基づく意見ではなく、私がネット上の情報を読んだり、実際に就職活動してみて抱いた推測であることに注意して頂きたい。

事実はどうか知らないが、「私の推測は正しいだろう」という前提でこれからは書くことにする。また、本記事中、特に断らない限り、以降は「重度障害者」をさして「障害者」と呼ぶことにする。

さて、ここで検討したいのは、「障害者にとって次のどちらが良いのか」、ということである。

  1. 同じ会社で働き続ける
  2. 理由はなんでもいいが、転職や転社に積極的にチャレンジして自分を磨く

まあ、先に結論を言ってしまうと、どっちが良いのか分からないし、人それぞれ向き不向きがあるので、なんとも言えない。だけれども、考えるのである。無駄に考えることこそがこのブログの趣旨なので、考え得るすべてのことを(と言っても、酔っ払った私から引き出せることなど大したものでもないが)、無理矢理考えてみたいと思う。

まず1番目の「同じ会社で働き続ける」ということ。リンクした記事でこてんぱんにやられていたので、デメリットについての考察は控えるが、じゃあ「メリットって何?」という話である。

第1に、経済的には安定する、ということが考えられる。ただし、これは必ずしも正しくはないけれど、障害者を雇用することに取り組んでいる企業は、結構体力があるので、ほとんど正しいと思われる。というか、ある程度体力があって、コンプライアンスの締め付けがきついという事情がなければ、なかなか障害者雇用をやっている余裕は無いんじゃないだろうか。

第2に、障害者の社員は自分のペースで仕事がやりやすくなる可能性がある。人事担当者とか管理職の人には申し訳ありませんが、その会社で、ある障害種別の人を初めて受け入れたような場合、ほとんどのことはその「初めての障害者の人」が基準になるので、まあ、障害者からすると、いろいろごまかせる。すいません。ごめんなさい。

第3に、これはちょっとどうかな?と思うけれど・・・。順応してしまえば、いやな思いをすることが減るかもしれない。長いこと同じところにいれば、良い意味でも悪い意味でも周囲は障害者への理解が深まるはずだ(環境にもよるけど)。で、個人差はあれど、障害者自身も、生き抜く術を身につけてうまく立ち回ることができているはずだ。そういう前提が無いと、長く同じところで働くことは、たぶん難しいと思う。だから、これをメリットと言っていいのかどうか分からないけれども、そういうことである。ここらへんは、障害というよりは、単純に人として溶け込めるかという話なので、あまり障害の有無は関係ないかもしれないが・・・。

あと、なんというか、こういうことを書くと、私が怒られたり、あるいはショックで寝込んでしまう人がいるかもしれないので、この先を読むことについては慎重になって頂きたいのだが・・・。

企業が重度障害者を雇用する理由は、おそらく次の二つに大別されると思う。一つは「障害者の雇用数のカウントが大きい」ということ。もう一つは「結構マジで障害者を活用しようと思っている」ということ。もちろん、これは私個人の勝手な思い込みだし、こういう問題は白黒付けられるものではなく、むしろファジィであるから、このような二元論では片付かない。けれど、あえて書いている。

どちらの理由にしても、重度障害者を雇用することは、はっきり言ってリスクである。ぜったい怒られると思うけど、あえて書くけど、「動くかどうか分からない車を買わされる」のと、あんまり状況は変わらないんじゃないか?いろいろなところで障害者雇用について「障害の程度は千差万別なので、一人一人に合った配慮をうんぬんかんぬん・・・・」という説得がされるようだけれども、経営側からすれば、ROIが計算できないんだからそんなもんリスク以外の何物でも無い。

しかしながら、そこでリスクを取るということは、さっきのように、雇用率を引き上げるのに使えると思っているか、人事担当者が熱い思いを持っているかのどっちかなんだと思う(思い込み)。

で、これは実感であるけれども・・・。視覚障害者である私が就職活動していて、きちんと話を聞いてくれた企業というのは、ぶっちゃけ、ほとんどなかった。一応、それなりに名の知れた会社でそれなりの期間働いていたのに、である(まあ、そういった点は実力主義の世界ではどうでもいい話)。未だに「視覚障害者はお断り」という企業さえ有った(もちろん、文句はたれておいたが)。

私の場合、結果的には2社ほど良いお話を頂くことはできたものの、エントリーした会社は、合計すると30社以上。まあ、これでも少ない方だわね。余談だけれど、この数字、10年前の視覚障害者の就職事情を加味してもちょっと少ないと思うが、今では健常者の人たちも30社とか50社とか100社とか応募してもだめなことが多いというのは・・・。悲しい世の中だ。

そういうことも考慮すると、個人的な感情としては、今回拾ってくださった会社や職場の担当者の方々には、大変お世話になり、そして、感謝をしておりまして、もう、なんというか、個人的には、「骨を埋めるつもりで働かないといかんなあ」という気持ちであります。すいません、ごめんなさい。最初の就職のときは、こういうリスクとか、そういうのは、あんまり頭にありませんでした。これからは一生懸命頑張りますから、ごめんなさい、ああああああああああ!

おっと、なんか話が逸れてきた。まずい徴候だ。Next please.

話は元に戻って・・・。

今検討していることの二つ目、「理由はなんでもいいが、転職や転社に積極的にチャレンジして自分を磨く」ということはどうか。メリットについてはリンクした記事に書いてあるので省略。

で、デメリットなんだけれども、おおざっぱに言えば、「健常者に関する一般論を障害者に適用するのは危険」ではないかと思う。すべてがだめだということではなく、「前提条件とか現状に相違点があるから注意が必要」という意味である。

具体的には、まず、そもそも障害者が置かれている状況として、「実力や努力や意欲に適合する受け入れ先が少ない」ということが言えるのではないか。これはマッチングとは少し違って、歴史的なたとえで言えば「女性の普通教育」みたいなものだ。要するに、門戸が開かれていない。そういうと大げさかもしれないが、私なりの考察を付け加えて言い換えれば、「一般的な中途採用者に対する期待値に比べて、障害者を中途採用する場合の期待値は、どうしても下げざるをえず、結局受け入れる環境を整える方向に力が働かない」ということだ。

また、こういうことを書くと怒られるだろうし、ショックを受ける人もいるかもしれないので、読者の皆さんは慎重になって頂きたいのだが・・・。

一度でも障害者採用をやったことがあれば経験的に分かると思うけど、障害者の育成は大変難しい。育てる側に経験が無いというのもあるし、当事者にとっても、障害の内容によっては成長が難しい部分もある。例えば、全盲にUMLで設計書を書けと言っても無理だし、全盲に紙の伝票を仕分けしろと言っても無駄だ。それで、そういうことを経験的に学習した企業は、障害者採用に慎重になる。リスクを軽減させるために、より軽度の障害者を雇って、自分たちの管理がしやすい方向へ方針を切り替えることも想像に難くない。

これが、新卒だったら、会社で育てていく覚悟を、ある程度は持てるかもしれないが、中途採用の場合は即戦力として会社の利益向上に直接的に貢献することが求められるわけである。すると、中途での障害者採用を見送ったり、あるいは軽度の障害者をルーチンワークをやらせる目的で雇ったりする感じになるのは、まあ、会社の立場からは理解できる。

こんな感じで、障害者がキャリアチェンジする場合は、たぶん裾野が狭まっているんじゃないかと思っている。まあ、妄想かもしれません。

それから、障害者の立場から考えても、デメリットがあることに触れておきたい。

それは、環境に適応するためのコストが大きいということである。先に述べたことと重複するかもしれないが、何にしても、職場に配属されたときに、高い水準で周囲の理解が得られるケースは少ないと思う。簡単に言えば「慣れるのに時間がかかる」のだ。

それこそ「障害は千差万別」というのが、あながち嘘でもないような感じである。障害の有無以前に皆人間なんだから、障害に対する配慮についていろいろ意見が異なったりすると思うが、障害者はそういうことをいちいち職場の人に説明しなきゃならないし、説明したところで理解が得られる確証はない。さらに、建物の設備や支援機器の導入が新規に必要な場合、それをどの程度受け入れてくれるかは会社の考え次第。仕事の内容や待遇ばかりに目がいって、そういった環境面で失敗するリスクも、当事者は考慮すべきだ。

ああ。安酒を飲んでいたら、だんだん胃が痛くなってきた。

そういうわけで、ほら、言ったでしょ。どっちとも言えないのです。なんか、この文章の流れだと、「同じところで働くのが良い」という結論になりそうだけど、それは俺が今そういう考えだからであって、実際は人それぞれ、いろいろあるんだよ。きっとね。

だから、もう一度言います。ごめんなさい。ほんと、すいません。これからは真面目に働きます。疲れない程度に。作業の進め方については手を抜きますが、成果物の品質については妥協せず頑張ります。

なんか、「結局この文章はなんだったんだ?」と、小一時間問い詰めたくなるような感じではあるけれども・・・。もう酔っ払ってきて、どういう風に収束させたらいいんだか分からなくなってきましたから、もう終わりにするわ。すいません。真剣に読んでいた人ごめんなさい。僕はこういう無責任な人間なんだ。教育実習の担当だった先生に「今、私、夫と家庭内別居状態なの」とか言われても、今の俺ならもう動じない。昔の俺は腰が抜けました。ごめんなさい。

こんなの、載せていいのかしら。まぁいいか。一応匿名だし。現代では、そう思っていても、割と簡単に個人が特定されちゃうから怖いもんだ。まぁ別にいいけど。さらしたりしないでね♪

とても下らないことなのだが・・・。

「しこしこ」っていう擬音語は、どんな動作を表すのかといえば、基本的に答えは一つしかない。そう、それは「オナニー」だ。

では、何故「しこしこ」が「オナニー」なのか?別にオナニーのことを「しこしこ」と表現する合理性はないのだが、とりあえず「オナニー」と言ったら「しこしこ」だし、「しこしこ」と言ったら「オナニー」なのだ。

同じように、俺には納得できないことがある。小学校3年生の国語ドリルで、「次の擬音語を考えてみましょう」的な問題で、『蕎麦を食べる音』というのがあった。

この答えは「つるつる」だったのだけど、よく考えてほしい。あんたは蕎麦を食べるとき「つるつる~」って音を立てて食っているか?別に蕎麦に限らず、日本人が麺類を食うとき、俺は「つるつる」なんて音を聞いたことがない。麺を食べるときはもっとけがらわしい「ズーッ~」とか「シュルシュル~」とか、「つるつる」とは根本的に違う音だ。

文学的には「つるつる」なのかもしれんが、国語のドリルで「つるつる」を強制するのは、いかがなものだろうか?これじゃ、ハゲてる人に対して失礼だ。

そういうわけで、「しこしこ」だって別にオナニー一辺倒というわけじゃなくてもよさそうなのだけど、まぁでも、やっぱ、「しこしこ=オナニー」だな。

昨日、東京都内のマンションの一室から、缶ビールがカチンコチンで発見されました。カチンコチンになった缶ビールを発見したのは、この部屋に住む男性で、昼食を何にしようかと冷蔵庫の冷凍室をガサゴソやっていたところ、冷凍シュウマイの下から、カチンコチンに凍った缶ビールが出てきたとのことです。

通報を受けた警察が缶ビールの種類を特定しようとしましたが、その缶ビールには点字で「おさけ」としか書いておらず、どの銘柄の缶ビールか判明するまでには時間がかかるとのことです。なお、缶ビールの特定に「TapTapSee」という画像解析技術などを用いているとのことですが、「缶」という解析結果しか出ず、銘柄の特定には至っていません。確実に銘柄を判定するには、缶ビールを解凍して実際に飲んでみるしかないとのことです。

警察の事情聴取に対し男性は、「ちょっとしか飲まないつもりでちびちびやっていたところ、ハイテンションになってもっと飲みたくなったが、冷えていないビールしかストックがなかったので、とりあえず冷凍庫に入れておいたのを忘れていたのかもしれない」と供述しており、警察は、缶ビール遺棄の容疑で、さらに男性から事情を聴く方針です。

このマンションでは、以前にも、カチンコチンに凍った「プレミアムモルツ」などが見つかる事件が起きており、男性には余罪もあるとの見通しです。

先日、最近の学校教科書を閲覧する機会がありまして・・・。

討論をするときの形式や手順について記されていたのだが、その記述に絶句してしまった。厳密には忘れたけど、「多人数で行う討論会では、たくさんの意見が出て収集がつかなくなるので、多数意見に集約していくのがよい」とかなんとか書いてあった。

っていうか、そういうことを学校で教えることにもちょっとびっくりしたけど、「多数意見に集約しろ」とか意味不明だ。いや、なんというか、丸く収めるにはそれがベターですけど、その方針が日本の社会をだめにした要因な気がしている俺にとっては、結構衝撃的だった。そんなことを学校で教えてもらった子供たちが、大人になってグローバルな市場でまともな競争ができるとは思えない。

日本的な文化がイニシアティブを持っている現場では通用するかもしれないが、一般的なグローバル市場ではどうにも通用しそうがないこの「討論」、こんなんで将来の日本は大丈夫なのか?僕がおじさんになってしまったのか?

そういうわけでですね、さっきツイキャスやってた子がかわいかったなあ。She is so pretty, so not beautiful, Pretty! She is Pretty!

あのねのねのねのね~。壊れたよ。どうやら回路がショートしちゃったらしくてね・・・。ナイジェリアで女子高生がさらわれた事件を、NHKは昨日割と大きな枠で放送してたけど、それって1か月ぐらい前じゃなかったっけ?っていうか、「ボコハラム」はイスラム過激派の名前だったの?ナイジェリアの首都の名前だと思ってたよ、俺。BBCを聞いてると、ぶっちゃけ意味わかんないけど、とりあえず「ボコハラーム」的なあれが分かるけど、でも、やっぱり、BBCは難しい上に、どう考えても日本人には理解しにくそうなナイジェリアのニュースなんて英語で聞いてもわかんねえよ!!

あと、めっちゃどうでもええねんけど、ヘイトスピーチが意味不明すぎ。BBCでは英語の吹き替えがかぶってて聞き取れなかったけど、鶴橋のあれ、女の子がひどいこと言ってるよ。あれは、本人の意思か、言わされているだけかは分からないけど、ちょっとね・・・。ヘイトスピーチはだめだよ。心の中で「死ね!」と思うのはしかたないにしても、それ口にしたり、ましてや街頭でわめくのは、だめだろ!

昔から、あぁいうレイシストは日本に潜在的に存在したんだろうかね。とほほ。

今日は飲まないようにしようと思っていた。いよいよ明日から新しい職場でnext stepを踏み出すことになっているから。

でも、飲んでしまった。結構大量に。いや、最初は「明日に備えて飲まないようにしよう」と思っていたのだけど、だんだん「いや、変にペースを変えないで飲んだ方が良いのでは?」と思うようになり・・・。気が付いたら、このざまだ。「どうせ飲むんだから飲み行きましょうよ」と友達に言われたのをわざわざ断った意味がぜんぜんなかった。ごめんなさい。

それはさておき、まあ、明日からがらりと変わるわけで・・・。眺めの連休だというのに、酒を飲んだのと、Windowsサーバのイベントログにエラー出力された場合にメール送信されるツールをしこんだこと以外、これといって何もしてなくて、どうなんだろうと思う部分はあるけれど、まあ、とりあえず明日からは今までと違うのですよ。

準備のため鞄をごそごそやってて、いつも内ポケットに入れていた社員証が無くて「あれ?!俺ひょっとして貸与物無くした?」とか一瞬思ったけど、いやいや辞めたんだから持ってなくて当然だよ!俺のばーか。

ああ、もう酔っぱらっててまともなこと書けない。でも、なんか書いておかないと忘れちゃうから書くんだけど・・・。

俺もつくづく未練がましい卑屈な人間だなあと思うわけだけど、今更、「やっぱ前の会社でもうちょっと頑張ればよかったかな?」とか思っちゃうのよね。いや、まあタイミング的にここしかなかったので結果的に変わりはなかったんだけど・・・。ただ、大学院を辞めるときはそういうこと思わなかったなあ。「やっと解放される」という感覚が強かった。今思えば、なんで俺は大学院行ったんだろう。なんも考えてなかったなあ。それに比べて、とりあえず、表面的にも目的を持って路線変更できた今は多少進歩したということなのかしらね。

前の職場に未練があるのは、たぶん人間関係が、後半は良好だったからだと思う。前半についてはあえて触れまい。とにかく、退職時に在籍していた部門の人は、とても優しくて、感謝している。まぁ、たぶん会社の風土もあるし、いろいろな圧力だったり個人的な思い出あのような雰囲気になっていたとは思うけど、そいう面倒な話は抜きにして、ほんとに良い職場だった。あんな職場は、たぶん俺にとって二度と出会えないだろう。

新しい職場では、しばらくは地味な仕事になると思う。ひょっとしたら、政治的な力の兼ね合いで俺の思い描く方向にはならないかもしれない。そういう意味ではギャンブルだと思っているんだけど、そこらへんは、周囲の人たちの力も借りながら頑張ってみたいと思う。なんか、知らなかったけど、実は今度の業界には知り合いが多いようなので...。

ただ、一つだけ忘れないようにしたいと思っていることは、技術を追及することに力を入れること。それは業務面でもそうなんだけど、どちらかと言えば個人的な領域での話。前職は、新技術でイノベーションするというよりは、インフラストラクチャとしてのシステムを維持するという意味合いが強い職場だったので、個人的な興味・関心よりも、安定的なITシステムの運用という面を重視せざるをえなかった。しかし、今度の業界はIT関係じゃないので、少なくとも、個人的な時間をITの新技術なり、自分の興味・関心に振り分けることができる。具体的にはNVDAを改善するためのアドオン作ったり、まぁ、そういう細かいことで、別に大きなことじゃないけどね。ゆくゆくは「情報保障」の観点でアクセシビリティ技術を応用してコンテンツを提供するための技術的な基盤を整えたり、「コンテンツの活用方法」といった面で、プライベートでも業務でも関われるようになることがベストだとは思うけど、まずはね。そういう心掛けでいきたいと思います。

まぁ、実際のところ俺はそんな大層な人間ではないですけどね。「毎日を必死に生きる!」とか言っておいて、毎日夜遅くまで、というか、朝早くから、というか、そういう時間から飲んでですね、飲みすぎて1日無駄にすることが数日続いて、「あぁ、廃人だ、せめて最後は俳人でありたい」とか意味不明なこと思ったりするんだけど・・・。

では最後に。僕はね、Facebookのプロフィールの職業欄に「お花屋さん」って入力したいんだけど、できないよね?いや、できるかもしれんが、俺はネットの世界では「お花屋さん」でありたい!「仏壇販売業」とかでもいいけど・・・。やっぱり職業と言ったら、「お花屋さん」か「パン屋さん」か「パイロット」だろう。パイロットだとしたら、俺はF15Eのパイロットがいい。なんでEかというと、そりゃもちろん、ストライクイーグルだからだよ!いやまぁ、それはいいとして、お花屋さんとかパン屋さんとか、実際に経営するとどうなんかね?とある洋菓子店は、クリスマスになるとあほみたいな連中が次々とケーキを買っていくけど、普段はだれもいないっていう、「なんていうか、どうなの?」って状態だけれども、そういうのでもフランチャイズできるってことは、それなりになんとかなるってこと?うーん、分からん!SI企業の収益モデルはこの数年でだいたい分かったけど、個人店とか、季節感のあるチェーン店の収益モデルは今でもぜんぜん理解できない。

でもね、前は「ルーチンワークなんてつまんねえ」って思ってたけど、世の中のほとんどってルーチンワークだよね。というよりは、目に見える形ではルーチンなんだけど、ルーチンになるまではすごいんだろうなあと思う。豚骨ラーメンのスープを作る仕事にしても、車の製造ラインにしても・・・。もう、だめだ。世界がぐ~るぐる~!

こんなんで俺は明日7時に家を出て、ちゃんと仕事場にたどり着けるんかね?一応昨日確認しに行ってみたけどね。地震でプルプルだったけど、そこは我慢してあえて行ったら、いや、まあ、プルンプルンだったよ。コラーゲン万歳!大日本帝国万歳!

以上です。ああ、さっきからトイレ我慢してたの。じゃあ、行ってくるね。あ!?ジョロ~。

その昔、会社帰りにコンビニでビールを買って、ちょうど夏だったので我慢できず、道半ばにしてプルタブをプシュっとやり、そして、「ビールといえば野球」なので、ワンセグで野球中継を見ながら歩いていたところ・・・。

慣れてる道とはいえ「さすがに盲人がこれやるのはちょっとなあ」と思いつつも、でもビールうまいし、野球は良い場面だし、とりあえず自宅へ向かって歩いていたわけだが・・・。そこで突然後ろから声をかけられた。

「あの・・・。いつもお見かけするんですが、どちらまで行かれますか?宜しければ一緒に行きます。」

若い女性の声であった。あぁ、なんと。聖母マリア様はおいでであった。マリア様は見ていらしのだ、堅実に仕事をこなす私のことを・・・。だから、このような形で褒美を与えてくれたのだ。

とまでは思わなかったけど、「あ、どうも、有難うございます、では○○まで・・・」と言いかけて、ふと我に返った。片手にビール、片手に携帯を持ち、ビールを飲みながら野球見てた俺は、どうやって手引きしてもらったらええのん?

女性の申し出はとてもありがたいことだった(まあ、サプリメントとか押し売りされるまでは)。ただ、暗がりで後ろからは見えなかったんだろうけど、白杖かかえながら、両手にビールと携帯を持って歩く人に声をかけてくれるなんて・・・。あぁ、いや、だったらこれからも歩きながらビールのもうかな(笑)。

そういう、昔の一場面。なぜ、そういうことを思い出したかというと、ぜんぜん関係ないんだけど、中学生のころメル友だった子とのやりとりを読んだら、なんか思い出したのである。かなりどうでもいい話。

で、なんでそのメールをほじくり返したかというと、メーラーを乗り換えようと思ってるんだけど、データの移動がぜんぜんうまくいかなくて、あまりにイラっときたので、ちょっと和もうかと思って、手近なところにあった中学生時代のメールを手を伸ばしたという次第。ああ、ガキだったわ、俺。女の子の方がませてるっていうのは、中学生ぐらいの年齢でも当てはまるらしい。書きながらちょっと面倒なこと思い出したわ・・・。東京に出てきてから「変わったね」とかメールきて、そのまましばらく返事こなくて・・・。あぁ、まぁ、いいや。

あ~あ。社会人にしては長い休みを過ごしてきたけど、それも明日までか。ま、特段悪いこともなかったのでいいのかな。・・・

すいません、一般論なので、特定の個人をいうものではないことをご了承頂きたい。

人間、手遅れになってからでは遅いので、問題が発生しそうなら、できるだけ事前策を考えるものだが、結果的に問題が発生してしまうことはよくある。

ハゲにならないために、若いうちから育毛剤を使っていても、悲しいことに「運命の日」は訪れてしまうことがある。努力が無駄になってしまうことがある。つまり、「ハゲてしまう」こと、は・・・ある。

というのも、最近実家で家族とテレビを見ることが多かった。で、いちいち「あの野球選手はヘルメをとるとピカピカだな」とか、「あのアナウンサーは普通にしてると分からないけど、頭を下げるとツルツルだ」とか「頑張ってサイドを寄せてるけどてっぺんはカバーできてないね」とか、無駄な情報が入ってくるのである。そうすると、こちらとしては「そうなったら、自分は困るなあ」と思うわけで・・・。

個人的には毛が多い方なので、美容院でも「お客さんは将来大丈夫ですね」と言われることが多いんだけど、でも、そんなのあと何年かしたら状況が一変するかもしれない。どこかのウミボーズは「30過ぎたら一気にくるんだよ!」と、切実に切れていたので、三十路を間近に控えた俺としては、何か今のうちから考えておけることはないかと思うのだ。

とりあえず、「ハゲ」を発見することはできるだろう。髪を洗うときに、どの辺がやばいかは分かる。

問題は、発見できた後、どうやってごまかすか、である。もちろん、ごまかさないのも手だけど、もし「若ハゲ」だったら・・・。彼女がもしそのときいたら・・・。もうすぐ結婚式だったら・・・。ハゲたまま、神父さんに愛を誓えというのか?というか、ハゲ全開でプロポーズとかしろというのか?それは・・・割と無理だろう。

それは、以前にもちょっと書いたけど、私のおばが「ハゲは嫌い」と言っていたので・・・。「髪型をセットしないのは気にしなくても、ハゲはさすがに厳しい」という女性も多いことだろう。

で、まあ、それだけじゃなくて、仕事で取引先に挨拶するときも、やっぱり、堂々とハゲを見せるのもちょっと、どうかなと思うし(自然現象なんだからどうしようもないんだけど)、全盲ならあれだけど、視線とか気になるかもしれんし・・・。

脱線してしまったが、どうやってごまかすかは、非常に難しい問題だ。そう、全盲にとっては問題である。

女性の化粧にも言えることかもしれないが、例えば髪型のセットとか、健常者が鏡をみてやるような作業は、全盲にはアウトプットを確認するのが困難な作業なので、ある程度ごまかし方を習ったとしても、ほんとにごまかせてるかどうかは、もうだれかに確認してもらうしかない。その場合、一人暮らしだったらどうしたらええのん?

髪がふさふさのときに、「ワックスつけてセットしても残念な感じ」ということであれば、まぁ、あきらめはつく。でも、ハゲをごまかすのにあれこれ髪をセットしても、あまりごまかせてなかったときや、逆に目立つ感じになってしまっていたとしたら・・・。いや、それを確認する手段は多くないんだが、気づいたときの精神的ショックは計り知れないことだろう。

いっそ、ズラを作ってしまえばいいんだが、あれはあれで維持が結構大変みたいだし、費用もかかる。必ずしもズラが良いとは限らないようだ。

ということなので、自分に降りかかってきたときのために、ハゲないよう努力すると共に、ハゲてしまったときの対処方法については、今後学習することにしたいと思います。

なお、ここからは予断ですが、一応ここでは「ハゲ」とカタカナで表記してきた。他にも「はげ(ひらがな)」とか漢字もあるが、あえてカタカナである。

これは以下の本に習った書き方である。

須長 史生 著: 「ハゲを生きる―外見と男らしさの社会学」

この本、ハゲた人の心理を社会学的に分析した書籍としては結構面白い。昔読了したが内容を忘れてしまったので、もう一度読もうと思う。

で、この本は点訳されているのだが、何故「ハゲ」がカタカナであるかが分かったかというと、以下の本に、上記の著者が「ハゲ」とカタカナで書いた理由について、ある人の解釈が記述されている。

と学会 編: 「トンデモ本 男の世界」
   >> [ファイル05 おっちゃんの世界] → かつらすだれも踏み越えて

本日は以上です。

ほんと、ごめんなさい。今からすごく無責任なこと書きます。

人間、何かを失ったときに「喪失感」を味わうのはごく普通のことらしい。「家族の死」みたいな、自分ではどうにもならん事象に対しては確かにそうだと思うんだけど、まさか自分で決めたことについて、しかも俺自身にそういう状態が起こるとは思ってなかった。

なんというか、喪失感というと少し違う気がするんだけど、今まで当たり前にしてきたことをしなくていいとなってみて、なんか微妙・・・。もちろん身体的にも精神的にも、とても楽なんだけど・・・。ほんとごめんなさいね、今更「これで良かったんだよね?」と、つい自問してしまったりする。

自分で決めた路なので、「良かったよ、だからつべこべ言わずに前へ進め」というのがおそらく答えなんだけどね。まぁ、それを否定も肯定もする気はないが、少なくとも否定はしません。わけわかりません。

で、そこは端っこにやったとして、じゃぁ、虚無感にも似たこの感情は何なのかと考えてみると、一つの答えにたどり着いた。「承認欲求」とか「存在証明」とか、そういった類のものだ。

会社では、どちらかといえば、俺は一人でもくもくと作業することが多かったので、仕事してるときは、直接的にリレーションシップを感じることはなかったんだけど、それは単に無意識なだけで、本当はいろいろな人と関わり、自分の存在を認識できていた。もちろん、「たぶん俺はそう必要とされてないな」と思わなかったかといえばうそだけど、結果的には、(必要か否かということは抜きにして)いろいろな人とつながってて、無意識のうちに俺はそれを自分の価値に結び付けていたことに、ほんと今更気づいた。

ここ数日、SNSへの俺の投稿頻度が上がっているのは、たぶんそれが関係している。ゆるい形に変容したとはいえ、これまでのリレーションシップが多少なりとも維持できる状態をSNS上で、これまでに作った。そして、それを本格的に維持するために、ここのところ、SNSへの投稿がアクティブになっている。そういうことだろう。

っていうか、こんなこと書いて、俺は何がしたいんかね?さっぱり分からんこともないけど、なんか、こういうことを書いてしまい、ちょっとためらいながらも、ポストしてしまう自分が、なんか微妙・・・。

まぁ、「自分はここにいるんだ!」ということを、自分で認識できる手段が、たまたまSNSだったので、そうしているだけなんだろう。そして、今はどうか知らないが、少なくとも、そういう感情を抱いたことを後で思い返して懐かしめるように、こうして文章を残しているんだろう。

ま、会社でのリレーションシップを保持しておきたい理由は他にもあるかもしれんけど、まぁ、分からん。まあ、いいや。個人n的なこととかもあるけど、まぁ、それなりに大きな会社から、だれも知らないような職場へ転職するんで、親戚に言うときもなんか・・・みたいなのは無いこともないけど。怒られちゃうね、そういうことで判断しちゃね。自分の仕事にプライドを持てることが、一人前の要素だと思うから、頑張ることにします。

言っておくけど、割と葛藤してんだよ、俺は(笑)。

そういや、「俺の思い出って、どういう形で残ってるんだろう?」とふと気になったので、思い出してみることにした。

たいてい、普通の人は思い出に写真を残すことだろう。旅行や観光、何かの記念、いろいろな場面で写真を撮る。そして、アルバムを作る。昔みたいに、1冊の本に現像した写真を張っていく人もいれば、電子端末にデジタルデータとして写真を管理している人もいるだろうけど、とにかく、写真で思い出を残すことが多いはず。それは、多くの人、そして多くの場面において、目に映った出来事が思い出になりうるものであり、かつ、最も鮮明な思い出たりうるからだ。

けれど、全盲の私としては、写真とかあっても、「何の写真だっけ、これ?」という、思い出とはかけ離れた感想を持ってしまう。いや・・・。今は携帯とかデジカメで写真撮って、タグを付けたりファイル名を工夫したりすれば、どんな写真かをテキストでも確認できるように保存できるけれども、正直、俺はそんな面倒なことはしたくない。してもいいんだけど、めんどい。

そういうわけなので、盲人が思い出を残すとなると、記憶するか、または音声を録音するかのどちらかということになる。盲学校にいたころは、先生が気を使って、保護者用に写真を撮るのと同時に、例えば修学旅行の様子を録音したりして思い出を残す工夫をしてくれていたものだ。ただ、当時、音声を録音するのにカセットテープが主流だったけれど、今、私の手元にカセットテープを再生できる機械がないので、実家をあさってそのカセットが出てきても、思い出を再生することはできないんだけど・・・。そういう風に考えると、昔の写真でも、端末に左右されず閲覧できていいなあ。

でだ。学校にいたときは、そうやって周りが気を使ってくれてたり、記録として録音するという文化が当たり前だったんだけど、健常者の世界に出てくると、当然そうではなくて、さっきも書いたように、思い出としての記録は主に写真である。で、俺的に写真撮っても、あとあと思い出を懐かしむ材料にはならないので、そういうものは自分で撮ろうと思わなかったし、他の人が撮ったものを焼き増しするというようなことも考えてなかった。

そういう感じで今まできたから、最近不安になることがある。俺は事実上、自分の記憶にほとんどの思い出を残している状態だけど、この記憶はいつまで持続するんだろうか?

まぁ、私の目が、将来仮に見えるようになったときのために、少しぐらい写真を残しておいてもよかったかもしれない。一般常識は外れるけど、事情を説明して、何かの様子を録音させてもらえばよかったかもしれない。そういう風に、自分の身体と切り離した形で、思い出を残しておいた方が、よかったかなあと、ちょっと、ここ2,3日思っているわけである。

特に、最近のソーシャルメディアの普及が、よけい俺にそう思わせるのかもしれない。写真をアップロードするのが目的のSNSもかなり普及しているし、Facebookなんかは、テキストも書けるけど、どちらかといえば [picture-based SNS] という感じ。これらは、自分の写真を他者と共有できるのが良い点であり、これまでは同じ「時」を共有している人たちが思い出を共有していた状態を、サービスベースで思い出を共有できる形へ変化させた。

ここで注目すべきは、普通の人のFacebookの利用方法と、盲人のFacebookの利用方法は、割と異なるということだ。普通の人は前述したように [picture-based] なんだけど、盲人同士の友人が多い人は、Facebookであっても、テキスト中心のコンテンツをアップする傾向が強い。また、盲人だけど周囲に健常者が多い人は、テキストを中心にしつつも、ときどき写真をアップすることがある。

で、いろいろ長く書いてきたけれども、Facebookの友達だって、比較的強いリレーションシップの人もいれば、弱いというかゆるいリレーションシップの人もいるわけで・・・。盲人コミュニティとは比較的強いものの、健常者コミュニティとは割とゆるい繋がりであると、自分自身のことを考えている俺としては、「うーん・・・。」という感じなわけである。

その、思い出を共有する形態がね、プラットフォームは同じでもコンテンツが違う故に、事実上共有できてないし、だからといってこっちから共有できるようなものもないし・・・。

できることなら、音声も共有できるようなSNSだったらいいんだろうけど、でも個人的にはそれだけじゃだめだと思う。それだけ、というか、写真も音声も共有できたって、そもそも普通の人と盲人は、視覚情報が有るか無いかの違いによる「感性の違い」が割と著しいから、技術的に音声コンテンツの共有が簡単にできても、コンテンツとしてアップする人たちは、前述のテキストベースの人たちが移転してくるだけになるんじゃないかな、と思う。

なんか、だんだん話が逸れてきたので元に戻しますけど・・・。俺の不安としてはですね、一義的には「形に残らない思い出を持続できるか怪しいことが不安」であって、他には、さっきみたいに他人と自分の思い出を共有できるプラットフォームがあるのにうまく共有できないことについて微妙な気持ちになったりするし、あとは、もしも結婚式とかを自分がやるときに、「スライドで流すような写真なんかねえなあ」ということも思ったりするのである。

まあ、一番最後の問題は、当分私は結婚しない予感がするので、対して心配することではないかもしれない。

結婚といえば「結婚するためにはいろいろな処へ出かけなければなりません。積極的になってください」と、つい先日アドバイスを頂きましたが・・・。まぁ、努力はしてみようと思うけど、結婚は、たぶんそう単純にできるもんじゃないと、俺は思うなあ。相手が盲人だったらそう壁はないかもしれんけど、運よく健常者の彼女ができても、ご両親が偏見の塊で破断になること、多いみたいだし・・・。いや、まあ、好きになったら、相手がどんな人だろうと関係ないかもしれんけど、好きになるまでのプロセスが、俺にとっては一番問題なんだよ。

まぁ、いいや。結婚については、もっと酔っぱらったときに気が向いたら書こう。自分の結婚感とか書いたら、だれとも結婚できなくなるかもしれんけど、まぁ、しかたないね。長期的な視点を持たず、こうやって酔っぱらったノリで文章書いちゃう時点で、もうだめだ。さようなら。あぁ、心が苦しいよ。

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結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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