私は、人生って「線」だと思うのだ。いや、まぁ、哲学的な議論を始めれば、『人生は平面だ』とか『人生はcubeだ』とか、変な方向に走ってしまうんだけど、大まかに言って『人生は「線」』だと思う。(細かいけど、『』っと「」の使い方は意図的に間違えています)

人生に限らず、例えば[歴史]であったり、例えば[ビジネス]であったり、例えば[学問]であったり・・・。これらは、その瞬間、その瞬間は「点」であるかもしれないが、「史実や知識や経験の連なり」である。そのように考えれば、イメージ的にこれらも「線」だと考えて差し支えないだろう(集合・・・とかそういうことは言わないように)。

で、ここで仕事の話になる。私は前月まで勤めていた会社でいろいろ勉強したけど、根本的な概念としてこの「線」ということがあった。だれかがそういったわけではないが、会社で業務を遂行するために運用されている制度や手順は、~外圧もあるにせよ~過去の経験や実績を積み重ねたものの延長上にある。外圧にしても、突然湧いてきたのではなくて、それまでに何らかの経緯があって湧いてくるのであって、その時系列的な経緯をたどれば、それは「線」のイメージになる(例:Internal Controlとか)。

ところが、ここで『個人のストレス』について思いを巡らせると、必ずしも「線」であることが良いわけではなくて、「点」にしておいた方がいいこともある。っていうか、「点」にしておいて、とっとと頭の中から捨て去ってしまう方が、精神衛生上よろしいことの方が、たぶん多い。[座禅]のように、仏教的な思想はそのような考えのようだ。

でだ。問題は、今の私は、仕事で「点」を要求されているということである。この際、こういう微妙な話題になると、抽象的な思いを書くのにとどまり、第3社は何の事だかさっぱり分からなくなってしまう、ということは置いておいて、とにかく、「点」で考えることを要求されているように思えてならなくて、戸惑って、すごく迷っている。

今の仕事、私に言わせれば『その場しのぎのやり方』で、今までの仕事の進め方と相反しているがために、本当にこれでよいのか、と自問自答する毎日なのだ。

これは決して悪いことではないのかもしれない。生活のために働く、と割り切っている人にとっては、単純作業の繰り返しで良いかもしれない。でも、ゴールが見えない、というか無いので、ゴールを与えられるばかりの仕事をしてきた人間にとっては、つらい瞬間もある。いや、まあ、ゴールというかノルマというか、そういうのがあると、それはそれでプレッシャーだし、嫌なんだけれども、同じぐらい『ゴールが無いこと』も、結局は嫌。そうなると、すべてのことが嫌になってしまうんだけど、それは『ないものねだり』なのである。

だんだん支離滅裂になってきたのだけど、なんというか・・・。僕、どうしたらいいんだろう?

そうそう、さっき、前職を辞めてからの記事をなんとなく読み返していたんだけど、割と後悔し始めたのは早かったんだね。そうだね、遊休消化してるころから、若干迷ってた。転職の1日前には、前職を辞めたことを後悔している節もあった。そして、ここで暴露しますけど、ぶっちゃけですね、『前職の方が良かった』と、転職後、思ってしまった。

そりゃ、前職は前職で嫌だと思っていたことはたくさんあったけど、ね、こんなこと今更言ったってしょうがないんだけど、現職に比べれば前職はドライで良かった。職場の人たちは優しいにも関わらず適度に放置プレーだったし、業務内容も、まぁ、趣味とごっちゃになるぐらいには好きだったし理解はしていた。

今の職場はというと、それはもう、『ラーメン大』の醤油豚骨スープ並に濃厚な人間関係で、活版印刷並の職人芸が必要とされるもので、つまりそれは究極のルーティンワークで・・・。なんか、俺はそういう仕事じゃなくて、もっと、基盤づくりに携われるという話を聞いたつもりだったんだけど・・・。僕の勘違いだったんだろうか?

そういうわけで、ぶっちゃけ、今の方が前より疲れる。今は、仕事が終わるともうだれとも会話する気が起きない。前は、業後はもう少しものを考えたりするぐらいの気力はあったと思うのだが・・・。

ということで、『飲みを断ったくせにブログ更新しやがって』とか思っている皆様方におかれましては、誠に申し訳なく思っておりますが、少し、人と距離を置きたいというか、いや、そういう意味ではなく、文字コミュニケーションはOKなんですけど、その、face to faceな感じがあれなので、もう少し落ち着いたら、また声かけます。

最後に。家入さんという、この前都知事選に立候補したけど落選してしまった人がいるのだけど、その人の言葉。「死にたくなったら全力で逃げろ。」。文言がちょっと違うかもしれないんだけど、心にひびく。頑張らなくても、いいかな?