どうでもいい主張 一覧

Twitterでつぶやいたことで、あまりにもゴミ過ぎて、そのゴミっぷりをこっちでも残しておこうかと思ったので、加筆の上掲載しておく。

この時期になると、「24時間テレビのマラソンに何の意味があるのか」という意見を見かけますが、個人的には「意味無し」だと思います。

というのもですね・・・。アニマル浜口氏が、阪神大震災の後、「何かしなきゃならん」と思って、24時間ヒンズースクワットをやったそうです。この24時間ヒンズースクワットについてご本人は、自著の「「強い男になってみろ」p.28で次のように述べています。

何故スクワットなのか、それは俺にもよく分からない。男は馬鹿だ。

すなわち、24時間テレビのマラソンも、これと同じではないかと・・・。

24時間テレビの宣伝、存在意義の啓蒙、話題性で募金を集める・・・。目的はいろいろあるでしょうが、とにかく「何かしなきゃならん」ということで、マラソンなのです。何故マラソンなのかは、プロデューサーにも分かりません。プロデューサーが馬鹿かどうかも、これまた分かりませんが、別にマラソンである必要性は皆無に近いでしょう。それこそ、24時間ヒンズースクワットでもいいですね。ただ、100キロマラソンと24時間ヒンズースクワットのどちらが大変なんでしょうか。

話を元に戻すと、なにも体力で勝負する必要もありません。渋谷や新宿などの繁華街は「眠らない街」と言われることもあるぐらいですから、24時間街頭募金でもいいでしょう(これはひょっとしてやってますか?)。あと思いつくのは、あまり受け入れがたいかもしれませんが、100人ぐらいで24時間パチスロを打ち続けて、その利益を募金するとか。もちろん、客が勝てばその分は客のもの。客には、負けた分を募金するという感覚でパチスロをやってもらえばいい。お金のこともあるので、負けてすっからかんになった人はローテーションさせれば可能かと思います。

話は反れてしまいましたが、やっぱり、マラソンに意味などないのです。毎年走らされている芸能人の皆様方におかれましては、お体ご自愛下さい。きついときは車でこっそり距離を稼ぐのもOKだと思いますよ。

最近腹が出てきたので、ダイエットしなきゃならん。でも、そう言うものの、酒はだんだん飲めなくなってきているのですが・・・。ビールとか、2杯ぐらいで腹一杯よ。

ところで。乙武さんがイタリア料理店に入店拒否されたことについて、障害者の皆さんがいろいろな反応をしていらっしゃる。というか、俺の周りに反応してる人が多いということなのだが・・・。

これ、同じ障害者としては、やはり腹立たしい。普通の人と同じ権利が保障されないというのは、理由がどうあれ気分の良いことではないだろう。

一方、正直、店に入れなかったぐらいでこんなにいろいろな人が反応するのも、ソーシャルメディアが普及したおかげなのかもしれないと思う。なんか、入店拒否した店の人が、ブログで謝罪文を載せてたし。相手が乙武さんだったからこういうことになってるが、ただの車いすユーザだったら、話題にもならなかったことだろう。結局、力がある=有名、ということなのだ、短絡的には。

個人的には、好き放題したいので、軽率にいろいろ書いても、話が大きくならないよう、今の凡人っぷりを保ちたいと思う次第であります。

それにしても、有名な人ってのは不自由なもんだ。乙武さんは別にいいけれど、橋下さんとか。ぶっちゃけ、慰安婦のことで彼が発言したことは、現実問題そう誤りではないと思うし、実際同じように思っている人は多いはずだ。だが、メディアの前で言ったのはまずかったね。俺が「極右」だと思っている石原さんも、流石にフォローに困った様子で・・・。石原さんも石原さんで、露骨に朝鮮人差別っぽい発言を結構してたと思うが・・・。まぁ、あの人は、どっちかっていうと「謝っておけばいいや」って思ってる節はあるが・・・。

いずれにしても、言葉には慎重にならなきゃいけないということですね。でも、単純に慎重というのも、実は困ったりする。最近の技術者はリスクばかり取ってはっきり名言しなかったりするように思うのだが、もうちょっと自信持って欲しいと思う。あと、「自分は材料をそろえるので、後はお客様で決めてください」と言わんばかりに、メリット・デメリットや様々な可能性を並列に並べ立てるだけの人もいるが、これも、「そんなにたくさん選択肢を言われてもねえ・・・」と思ってしまう。結局、慎重になるべきではあるが、あまり慎重に成りすぎると逆に嫌われちゃうこともあるんだよ?と言いたいのよ。

そういえば、最近部屋探し中なのだが、メゾネットとかちょっといいなと思ったりする。マンションのくせに階段があるとかめんどくさいと思ったりするが、いや確実に面倒だと思うが、なんかお洒落っぽいじゃんね。酔っぱらったとき、ちゃんと上に上がれるか心配だけどさ。

じゃぁさようなら。「乙武」さんを読み上げソフトは「おつぶさん」って読むから最初だれのことだか分からなかったよ。「おつぶさん」ってちょとかわいい!オンp♪

面白い記事を見つけたので、私の見解も加えてメモとして残しておこう。

>> 「lapalette 偏見と差別と個性~ソン・ヘギョのヒール論争~|韓国 芸能 情報 まとめ」

上記は雑誌か何かの記事と、それに対するコメントの2パートから成っている。記事内容はともかく、コメントの部分には大筋で賛同できる。特に以下の文章には。

この記者さんは、平等を訴えて障害者への偏見が我々にあると言っていますが、その結論で「ソン・ヘギョがキレイに映らなければ」というのは全く論点が違っています。

だが、視覚障害当事者の私に言わせれば、やはり細かいところはなかなか理解してもらえないんだなと感じる。以下の文章は、別に上記サイトの批判をしたいわけではないのだが、たぶん批判めく。私のようなどうでも良い人間に批評されるのも、サイトの管理者は迷惑だろうが、「実際どうなのか」を記述する材料ぐらいに思って頂いて、そこら辺は寛容にお願いしたく。

さて、記事内容の論点は「視覚障害者がヒールを履くのが自然か否か」であり、コメントもそこを中心に記述されている。そして、コメントでは「ドラマの中でヒールを履いているシーンに違和感があるのであって、視覚障害者だってヒールを履く人は履くでしょう。偏見が違和感を作っている。」という趣旨のことが書かれている。まず、この点に関して異論は無い。

だが、一方でコメントでは以下のようにも記述している。

日本のドラマ『愛なんていらねえよ、夏』のリメイクだったら、新しい解釈を入れずに広末ちゃんが「ペタンコ」シューズで点字ブロックの上を歩いていたように、ソン・ヘギョちゃんもそこには忠実になるべきだったとも思います。

私は写真を見られないから、この人が書いている問題のシーンがどういうものか分からないが、少なくとも「視覚障害者は点字ブロックの上をペタンコシューズで歩く」のが忠実な姿ということだ。

実際そういうケースが多いのかもしれないが(私は男なのでよく知らない)、ただ気になるのは、やはりこの文章にも偏見は内包されているのである。ヒールを履いて点字ブロックの上を歩く全盲女子もいるし、でこぼこ道なのを知っていてもヒールを履いてきてよくつまずく全盲女子もいる。結局のところは本人の考えなのだ。自然かどうかは、受動する側がどう解釈するかという問題である。

この辺は、実はあまり重要ではなくて、いわば前座のようなもの。私が言及したいのは下記の点である。

コメントの著者は、全体を通して「違和感が偏見を助長している」という趣旨の意見を述べている。少なくとも私にはそのように見受けられる。が、実はそうした違和感を一般の人が持つことも、自然なことではないだろうか。その違和感を否定してしまうと、健常者と障害者の差はなかなか埋まらない気がする。

特にファッションなど見た目に関することは往々にして違和感があることが多い。「ヒールを履くか履かないか」と同じように、「本人が気を遣うか遣わないか」によるのだ。自らでその姿を確認できない全盲にとって、その辺のことは意識しにくく、全体的に違和感を生み出すことがある。もちろん気遣う人もたくさんいるが、逆にその気遣いこそが違和感の原因である場合もある。例えば、上下の洋服をトータルでコーディネートすれば自然な着こなしができるが、もっと格好良くしようとして別の店でアクセサリを買ったらぜんぜん似合わなかった、とかね。

だから、私としては、ドラマの1シーンが違和感のあるものだとしても、それが正当な違和感であればそのままで良いと思う。前述のように、スタイル良く見せたいがために不適当な道にヒールを履いてくる人だっているのである。

そうすると、「違和感を認めてどうするんだ?」と言われそうなので一応書いておこう。

理想的なのは、違和感を認めた上で、それを一般的な芳香へ修正するか、個性と受け取って受け入れるかを、受動した側が判断して接することである。ここで注意すべきは、「障害者だからしかたがない」という発想をしないこと。

「でこぼこが多いから、この道を通るときはヒールは履かない方がいい」と忠告したり、「そのチェーンはお前の顔に似合わない」と有人同士ふざけ会ったりすることを、「障害者だから」という理由の有無関わらずできるのが理想であろう。

もっとも、障害者としては、自分の意志や常識を恩着せがましく押しつけてくる健常者に辟易することもあるし、健常者からの指摘を「あの人は信用できない」という理由で受け入れない障害者もいたりして、簡単にうまくはいかないのだが・・・。

少し脱線してきたので最後にまとめておくと、「障害者を理解する上で感じる違和感はごく自然なもの」ということだ。これを是非知って欲しい。もちろん反論はあると思うので、私としては聞いてみたいものである。

ちなみに何故上記のサイトに辿り着いたかというと、最近韓国や北朝鮮の生活・文化などについて興味を持ち、いろいろな本を読む中で「韓国の障害者差別は酷い」という話があったので、ネットで検索していたらたまたま見つけたのである。障害者差別の問題そのものは、日本語だと中立的観点に基づく記事が多くないため、実際どうなのかは良く分からなかったが、儒教的な思想が強い韓国では、割と事実のようであることは推察できた。

題名の通り、人の感覚は千差万別。良いものを理解できない人種ってのはどこにでも存在するもんだ。

その一例がカルピス牛乳だ。原液のカルピスと牛乳を1対1、または1.3対1ぐらいの割合で混ぜると、超絶おいしい飲み物が完成するというのに、信じないやつが多い。うまいからやってみなさい。夏は特にお勧めだから。

夏と言えば冷やし中華。これにマヨネーズをかけるのは日本人として当たり前のことと思うが、何故かこの風習は全国的でないようだ。冷やし中華にマヨネーズをかけない連中は、人生の半分を損してると言っても良い。何故マヨネーズをかけないのか?ほら、ちりめんじゃこにネギをきざんで混ぜ、マヨネーズとからめて白ご飯に乗せると、非常に美味ではないか。それと同じ理屈だ。私はここに、「冷やし中華にマヨネーズをかける習慣を広める委員会」略して「ひやまよ委員会」を発足することとする。

逆に理解できない風習に、「味噌汁にカボチャを入れる」ってのがある。なんだこれは?!カボチャは煮付けが一番なのに、何故味噌汁に入れる?いや、それはちょっと間違っている。カボチャは、テンプラか煮付けが一番だ。どちらかというと、テンプラに塩を付けて食うのがうまい。それを味噌汁に入れるなんぞ笑止!

ということで、カルピス牛乳と、マヨネーズをかけた冷やし中華は、帝国臣民、いえ、日本国民であるのなら、食うべし。

俺が学制だったころ、盲学校に教育実習に行った。で、直接聞いたわけではないが、全盲の生徒が「回転寿司を自分で取るにはどうしたら良いか」について全盲の先制に訪ねたことがあるそうだ。その全盲の先制の答えは正直あっさりしていて「取ってもらう」だったらしく、生徒は結構落胆していたようだ。

その話を聞いて、俺もじつは同じ悩みを持つ全盲として何か解決策を提案できないかと思案した。そして、回転寿司を全盲でも利用できるシステムを考え出した。

このアイデア、確か前にも書いた気がするのだが、昔のブログを検索してもみつからないので、改めてここに書いておくことにしよう。NECとか日立で作ってくれないかね、このシステム。

まず回転寿司の定義であるが、以下のように定義する。

【回転寿司の定義】
  • 円形の皿に寿司を乗せて客に出す
  • 皿をベルトコンベアに乗せ、ベルトコンベアを回転させることによって皿を席まで運ぶ
  • 客は自席の周囲に来た皿に対し、、自分の食べたい寿司が乗った皿、または何らかの方法でその客用に握られた寿司であることが判別できる皿を取って食べる

この定義の下で全盲が結えの問題点として、以下が挙げられる。

  1. 皿に乗っている寿司のネタを識別できない。何故ならば普通ベルトコンベア上を回っている寿司のネタを識別するためには目視するが、全盲は目視できない。
  2. 仮に全盲がネタに触ることができるとしても、さらに次のような問題がある。
    • 触ったところで難のネタか判別することは困難である。マグロとサーモンの違いは触って分からない。サーモンにはタマネギが乗っているとか、店毎に統一されているとは考えにくい指標で判断するのは危険である。もしサーモンにはタマネギが乗っていることが常識だとしても、ブリとマグロは触っても分からない。
    • 不衛生である。他人が触った寿司なんぞ、食いたくもねえ。

以上のことから、全盲が回転寿司を利用するためには、以下の条件を満たすような仕組みが必要である。

【全盲が回転寿司を利用するための条件】
  • 触らなくても、自席の周囲を流れている皿に乗っている寿司のネタが何であるか識別できる。
  • その皿が自席から注文したものか否かを判別できる。

そこで、全盲でも回転寿司を利用するために、以下のシステム化構想を考えた。

【全盲が利用できる回転寿司のシステム化構想】
  1. 皿に非接触型ICチップを埋め込む
  2. ICチップには皿に乗っている寿司のネタの情報をインプットし、ベルトコンベアで流す。必要に応じて、席番号等の付加情報もインプットする。
  3. 客はICカードリーダを所定の位置にセットし、自席を通過した皿のネタを識別する。

たったこれだけだ。これだけのシステムを構築すれば全盲でも回転寿司を利用できる。ただし、現在普及している、タッチパネル端末での注文に対応することは別の問題だ。回転寿司を利用できることと、タッチパネル端末から注文できることは別の問題である。けれども、実際は両方できないと現代の回転寿司を利用できるとは言い難いが、ここではより本質的な「回転している寿司をどう識別するか」ということをメインテーマとして話を進める。

さて、単に上記のICチップシステムを組み込んでも、実際うまくはいかない。寿司を握る職人と、寿司を取る客がそれなりの運用を行わないと破綻する。

まず寿司職人の方である。その前に、皿にICチップを埋め込んで情報をインプットする手段としては大きく以下の2種類が考えられる。

  • 予め皿にネタ等の情報をインプットしておく
  • ネタの情報をベルトコンベアに乗せる直前にインプットする
    • ここで寿司職人の運用の話になる。前者の方法では、寿司を乗せる皿が予め定められているため、皿の色とか形とか、とにかくきっちりとICチップの情報に合致する寿司を乗せなければならない。だが、一般的に皿の色等は価格を表現するために用いられているし、皿と寿司のネタを1対1に対応させなければならないのは現実的でない。

      次に後者の方法であるが、これなら寿司を乗せる皿を選ばなくても良い。しかもベルトコンベアに乗せる時点で、ネタと、注文の品の場合は席番号等の情報も付加できる。寿司職人がシステムを操作する必要はあるが、運用としてはこちらが現実的だろう。

      続いて客の運用方法について考えてみる。

      よく知らないが、現在の技術では、ベルトコンベア上の皿の密度を考慮すると、非接触型ICカードリーダで識別できる皿は、リーダのすぐそばにあるもの、つまりはカードリーダの眼前を通過した皿ことになるだろう。ひょっとしたら1,2個前後の皿の情報も識別できるかもしれないが、できない前提で話を進める。

      そうなると、カードリーダが識別した後、たぶん音声とかで情報を知らせることになるが、客が情報を取得した時点で、識別した皿は既に通り過ぎていることになる。まぁ、ベルトコンベアの回転速度にも依存するので、実際の回転寿司で回転速度の平均値を計測するなり、店毎にカスタマイズするなりの対応でなんとかなる気もするが・・・。要するに、識別された皿を取るには、ちょっと先の皿をとる、という動作が客には求められるのだ。

      従って、全盲の客は、具体的に何皿分先行した皿を取れば目的の寿司を食べることができるか、どうにかして把握しておかなければならない。

      以上のような運用面をクリアできれば、技術的にはそう難しい話ではないはずだ。

      さっきも言ったが、NECか日立か三菱か、システム化して下さい。とりあえず、スシローに導入してくれればいいです。

知り合いから「障害者って男でも女性専用車両に乗れるんでしょ?いいよなあ」と言われた。これは断固違うと主張しておいたので、その具体的な内容について無駄に書いておくことにしよう。

障害者であっても男が女性専用車両に乗ってしまうと、次のような事象が発生する。結構高い確率で。

第1に、頭の悪そうな女子高生に「名にあいつ、きもくない?」とささやかれる。そいつらはたぶん頭が悪い。勉強はできても頭は悪いだろう。知性がないという意味においてだ。それはいいとして、馬鹿な女子高生でなくとも、女性専用車両だというのに男が乗っていれば、普通気持ち悪い。それは障害者うんぬんは関係ない、と思うのは自然なことだろう。まぁ、口にするか否かという点で若干差はありますが・・・。で、気のせいかもしれんが、そういうオーラをひしひしと感じる訳である、男の身で女性専用車両に乗ってしまうと。

第2に、駅員に「お客様、ここは女性専用車両です、降りて下さい!」と大声でどなられる。この事象は、視覚障害者に限っていうと、 (1)白杖を駅員の死角となる位置で持っているか、または折りたたんでいる (2)女性専用車両の位置に駅員が立っている駅に電車が停車する という、わりと頻繁に満たされてしまう条件の下で発生する。ちなみに「白杖が駅員の死角となる位置」と抽象的に書いたけれども、要するに、例えば進行方向から見て自分が右向きに立っているとき、普通なら白杖を胸の前辺りで構えていて、そこで進行方向左側のドアが開いたような場合である。そうすると、駅員から見て白杖が自分の身体に隠れてしまう。駅員にどなられたら、もう降りるしかない。それでも乗っていられるなら、その人は堂々と白杖を見せびらかして障害者ぶりをアピールしつつ、女性専用車両を常用すべきだ。

というわけで、障害者という理由で女性専用車両に乗れることに対しては、特にメリットはない。コロンの香りが充満しているわけでもなければ、目が見えないからと言って痴漢OKなわけでもない。いや、痴漢は犯罪です!やめて下さい。ときどき全盲だからといって女性の胸を触ったりする変なおじさんがいますので、ご注意を。変なおじさんはテレビだけの存在ではないのだ。

さて、以上のような事情から、俺自身意図的に女性専用車両に乗ることはないのだが、不慮の事故というのは、不慮の事故であるからして、起きるときには起きてしまうのである。俺は3回、その事故に遭遇してしまった。

1回目は、普段利用しない電車を通勤時間帯に利用したとき。ホームの階段を下りきったとたんに電車が入線してきて、あわてて乗った車両が女性専用車両だった。それはたまたま明らかに戦闘車両に乗ったことと、車内アナウンスで「戦闘車両は女性専用です」と言っていたので気づいたのだ。次の駅で一度降りて隣の車両に乗り移ろうとしたが失敗。それを見ていた駅員に「障害者の方は女性専用車両でもご利用頂けますので、遠慮なさらなくても結構ですよ」的なことを言われたが、いや、遠慮します。

2回目は普段通勤に使っている路線。朝の糞忙しいときに渋谷でうんこしていたら、予定の電車に乗り遅れそうになったので、おそるおそる駆け込み乗車したらそこが女性専用車両だった。このとき、頭の悪そうな女子高生にののしられ、駅員にどなられた。

3回目も通勤に使っている路線なのだが、少し事情が違う。たまたま親切な女性が改札から電車まで案内してくれたのだが、そこで案内されたのが女性専用車両だった。「いつもどちらの車両をご利用ですか?」と聞かれ「決めてないのでどこでもいいです」と、確かに俺は言った。その女性も、たぶんいつも女性専用車両を使っているから、そのノリで一緒につれてってくれたんだろう。でも、女性専用車両なのだ。私は男です。もちろん、駅員にどなられた。

こうして、実際に女性専用車両に乗ってことがあるものの、何も良い経験なんぞしたことがない俺としては、「障害者は女性専用車両に乗れていいなぁ」などという、全く持って意味不明な妄想は断固として否定したいのである。あんな息苦しい場所、乗るもんじゃない。

そういえば、ちゃーんと過去に体験を文章化していたではないか。俺もつくづく暇な人間だ。ここここを参照。

題名の通りだ。肉を食うやつらは、他の命を頂き自分の命を延ばせることに対して感謝しなければならない。そして、肉を提供する人々にも感謝しなければならない。

が、どうもみんな「肉は出てくるのが当たり前」と思っている。豚バラにしても和牛にしても。でもよく考えろ、肉はあぁして最初からパックに入っているのではない。もともとは動物なのだ。動物を殺して解体してパックに詰めるのだ。

肉に限らず、スーパーに売られている食品の多くはそのままの姿ではない。だから抵抗を感じぬままに平気で残飯と化したり期限切れで捨てられていくに違いない。それは、どうやって加工されたか、どんな苦労があるか知らないからに他ならないと俺は思う。それじゃだめだと思うのだよ。

この前知り合いに、「貴様がうまいと言って食っているその肉は、誰かが豚を殺して解体したものだ。端正込めて育てた豚をその手で殺す人の気持ちを考えて、噛みしめて食え!」と言ったら、とてもいやな顔をされた。

後、世の中を理解するために「高校生になったら普通科でも鶏の畜殺実習をやらせるべきだ」と言ったら、それも怒られた。何故だ?そうして殺した鶏をその場で料理して食って、命の尊さ、職業の尊さを学ぶべきじゃないのか?

「新鮮な肉や魚介類はおいしいよねえ」と言っている連中は、ただ新鮮なものを買うだけじゃなくて、自ら新鮮な肉や魚を捌くこともやった方がいい。それが究極の「新鮮」だ。殺した手の牛の肉はきっとうまいだろうに。

ま、ちょっと思っただけだ。ちなみに、畜殺のビデオとか見ただけで肉が食えなくなる連中は、一生肉を食うべきでない。自ら家畜を殺して、殺したことに罪を感じ、肉は「肉は食べない」と誓うのなら良いが。

ずいぶんと極端なことを言うもんだな、俺も。でも、俺はそう信じている。

ずーっと前から「可視化」とか「見える化」ってのはトレンドで、今じゃ「ビッグデータ」だ。もちろん、大量のデータを単に数値的に解釈するのは難しいし、全く直感的ではないけれども・・・。

データの傾向や、特定のパターンを見いだすのに可視化は大変有効だ。でも、数値的なデータをイメージとして可視化するならばともかく、論理的な要素も全部イメージで片付けるのは危険ではなかろうか。

というのも、私は目が見えませんので、なんでもかんでも言葉で説明して欲しいものですが。目が見える人は言葉よりも絵で説明することを求める。その方が直感的に分かり安いから。特に業務においてはそういう状況が多いと思う。そりゃ、ぐだぐだ言葉で説明するよりも絵を見た方が効率がいいので無駄な時間を削ることができますけれどもね。

絵で説明することは否定しない。だが、問題なのは、その絵の論理的な意味を理解して絵を描いているかどうかなのではないだろうか。別の言い方をすれば、絵を描く前に、ロジカルに物事を考える力が重要なのではないか。

俺自身は絵を描かないので回りの人を観察していて思うのだが、説明が下手な人っていうのは、言葉だろうが絵だろうが説明が下手なのである。逆に、説明がうまい人は、言葉だろうが絵だろうが分かり安い。その根底には、論理的にきちんと理解できているかどうか、という違いがあるように思う。

典型的なのは数学の世界。数学をやっているとグラフとか図形とかいろいろ出てくるが、そんなもんは表現の一種に過ぎない。式を形式的に操作することにより導かれる性質や論理的な意味を理解してこそ、初めてグラフや図形が描けるのだ。普通、関数 y=2x は右上がりの直線のグラフとして中学校で習うと思うけど、もっと本質的には線形の概念があり、そこまで理解して初めて直線となることが導かれるのである。いや、良く分からないけれども、とにかくだ。ロジカルに物事をみないといかんのだよ。

で、なんでもかんでも絵で説明させようとする文化は、このロジカルな考えを阻害する。SIみたいにトップダウンで0から物作りするときはいいが、既存システムの保守のようにボトムアップの作業が求められる現場ではなおさらだ。既にある物を理解するには、点と点を結んで直線にし、直線と直線から面を作っていく必要がある。具体的にいえば、既存システムを理解するにはデータの関連性やプログラムの動作をまずは形式的に理解し、形式を踏まえた上でその意味と、できれば設計者の意図をひもといていく必要がある。だが、絵を描くというのはまさに意味を形式的に表現する手法であり、ボトムアップのプロセスとは逆行する考え方と言える気がしないでもない。

なんか、だんだん支離滅裂な文章になりつつあるが、そんなことはどうでもいい。絵なんか使うのやめましょう。でも、よく考えたら、人類はまず象形文字の前に洞窟に壁画を描いたりしてたんじゃなかったか?実は、やっぱり絵でコミュニケーションすることは簡単でいいことじゃないか。そうだ、みんな原始人に戻って、絵でコミュニケーションしましょう。ねえ、ボビー。

人間が積み重ねてきた歴史は、地球の歴史に比べればほんの小さいものだという。数値的な比率だけでいえばそうだけれども、じゃぁ人類と一人の人間で比べれば、これについても同じことが言える。

その例が音楽だ。原始的な音楽は既に千年以上前から存在したと考えられており、現在我々日本人が耳にするような音楽は主にヨーロッパで発展してきたものがさらに変化したものと考えられる。本当かどうかは知りませんよ。

ただ、少なくとも、バッハに代表されるバロック時代の作曲家は、古代ギリシャやローマの旋法を引き継ぎ発展させたものには違いない。それにある種のアレンジを加え、メタルの構成要素として取り入れたのがネオクラシカルメタルであり、これは大変素晴らしい物である。

残念なのは、ネオクラシカルメタルは既に時代遅れの産物であるということだ。80年代のメタルブームならいざ知らず、アメリカでも日本でもメタルはぜんぜん流行ってない。これは悲しむべきことではないか。

とは言え、細々か大々的にか、まだメタルの潮流は続いているのだ。ただ、どうも、中には理解に苦しむ人たちがいる。

その前に、ネオクラシカルメタルも含め、今回の議論として区分するならば「正統派」に分類される人たちの名前を挙げておこう。

  • Impellitteri
  • Judas Priest
  • Yngwie Malmsteen
  • Deep Purple
  • Gamma Ray

他にもいろいろなバンドがあるが、まぁ、俺の中ではこんなもんだ。

さて、題名にもある「理解に苦しむ音楽」。これはXに代表されるように「逝っちゃってる感じ」なのと「文化背景的によく分からないもの」の二つに区分できる。

逝っちゃってるタイプは以下の通り。

  • Luca Turilli
  • この人は精神崩壊寸前としか俺には思えない。個人的にセンスはいいと思うのだが、何故こんな曲の構成を思いつくのか、感性が全く理解不能なのだ。チェンバロ(シンセだとは思うが)とオーボエで始まる物静かなクラシック調の調べと思いきや、いきなりアルトの歌い手が叫び散らしながらディストーションギターの奏でるメロディック・スピード・メタルへと変貌する。何がどうなってそうなったのか。最初からメロディックで良かったじゃないかという俺の疑問をよそに、終演を迎える曲はまたチェンバロとオーボエに収束していく。ぜんぜん有名じゃないけど、だからこその心地よさもある。是非お勧め。

    もう一人。文化背景的に良く分からない人は以下の通り。

    • Kamelot

    音楽性の面からも、日本には100%いないタイプなんですが、『The Black Halo』というアルバムはそれこそジーザスの教えをベースに、ダンテの作品についての造詣が深くないと理解できなさそうな感じに思える。「Marilyn Manson」のように分かり安くはないのだ。

    最後にそれらとは離れて、センスの良さとテクニックのすばらしさの両方に私が感動したアーティストと曲を紹介しよう。

    Paul Gilbert
    言わずと知れたギタリスト。「Get Out Of My Yard」というアルバムの12曲目「Haydn Symphony No. 88 Finale」と13曲目「Three E's For Edward」が良い。大変良い。涙がこぼれそうになる。そんなに指は動きません、凡人は。
    Majestic
    マイナーですが、だいぶ極端です。ジャンルとしてはネオクラシカル。で問題なのは「TRINITY OVERTURE」というアルバムの「Cadenza op.1 in A minor」。バロックはやはり素晴らしいという印象とともに「愛すべきはネオクラシカル」であることを再確認させてくれる。

    以上。

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