どうでもいい主張 一覧

ここ数日、お酒を飲むと、肋骨と胃がすごく痛むので、何日か酒を飲むのはやめようと思う本日。

さて。鳥インフルエンザの関係で今年も殺処分の話題が出ている。毎年毎年思うのだけれども、家畜の殺処分のニュースについては、どうにもやるせない気持ちになる。

理屈は理解できる。確かに、他所へ病気が感染拡大するのは好ましくないし、そういった観点では、既に感染している可能性のある家畜を全部殺した方が効率的で確実だ。

ただ、人間の食料として頂くならともかく、本来の目的とは違う形で、意図的に命を奪われる動物たちのことを思うと、あまり良い気分にはなれない。まあ、動物に感情があるかどうかとか、そういう面倒な議論はあるだろうが。

しかしながら、僕は確実だと思っているのだけれど、家畜の飼い主と、殺処分する保健所の職員は、どうにもならない不条理に苦しんでいるのではないだろうか。

飼い主はいうまでもない。経済的な面もあるだろうし、いくら家畜とはいえ手間暇かけて育てているのだから、殺処分が合理的な対処策で有ることを認識していたとしても、そう簡単に納得はできないんじゃないか。

一方、保健所の職員だって、ほとんどの場合は気分の良いとは言えない仕事だろう。別に動物愛護にとりわけ関心があるわけではなかったとしても、自らの手で動物を殺すのだから。ごく希に、そういう仕事に高揚感を抱く人がいるかもしれないけど、そういう人は警察へどうぞ。まあ、伝染病に限らず、犬猫の処分についての問題もあるので、いずれにしても「どうなんだろう?」という問題である。

残念ながらそんなことを僕が思ったところで何も解決しないわけだけれども、人間の都合において正当な理由で奪われる命もあれば不条理な理由で奪われる命もあることを認識し、少なくとも正当な理由で奪われる命には感謝をし、不条理な理由で奪われる命には、せめてもの敬意と、やはり感謝を送らねばならない・・・。という気持ちで日々を過ごしたいと思う。

ところで、殺処分の当事者たちのことって本になってないんだろうか?探せばあるかもしれないね。

でも無いかもしれない。以前、死刑執行人の苦悩について書かれた本を読んだことがあるが、著者によれば、彼らは自分の心境について話すことを、かなり強く拒んでいたようだ。その本は苦労の末に得られた数人の証言を元に構成されていたのだが、まあ、農家や保健所職員に取材したところで、そんなに状況は違わない気もする。

何にせよ、僕がどう考えようが、伝染病が出たら家畜は殺されるし、通常通り塗擦された家畜も食肉加工されて商品になり売れなければ廃棄されてしまうし、結局何も変わらない。なんかねえ・・・。そういうことを考えるのは、それこそ無駄の境地であるように思うけど、悪いけどそういうことを、そう高くはない頻度でもいいからちゃんと考えて、私たちがどれだけ豊かであっても、その犠牲になっている命があることを認識しなければならないと思う。

まあ、いいや。ここ最近、酒を飲むと胃が痛くなるのもそうだけど、普通に食事しただけでも胃が痛いのよ。ああ、残念。

こちらは久しぶりの更新となりますが・・・。

ひとまず、就職が決まったのでご報告します。ええ。11月から働きます。

思えば、2008年に大学院を辞めて、今年は2社も会社を辞めて・・・。振り返ると「自分には学習能力が欠如している」ということを身にしみて感じるのであるが、そうであっても、肝心なところでは運に恵まれている境遇だなあとしみじみ感じるわけである。こういうことは、この先ないだろうと思うので、まあ、正論はいろいろあると思うけれど、とりあえず、頑張っていきたいと、そう思います。

さて、Twitterでも一瞬言及したのだけれど、以下の記事を読んでいろいろ思うところがあったので、メモ程度に書いておこうと思う。

「同じ会社で定年まで勤め上げる」ことは、ただの自己満足です

これは、タイトルから想像できるように、「定年まで同じ会社で働く」ことについて批判的な論調を展開している記事えある。あまり正確で無い要約をすると、「同じところにいると価値観も固定されて何も変革できないし、新しい出会いもないから、いろいろな会社で働いた方がいい」ということのようだ。

私自身は、この意見に賛成である。同じ組織に所属して同じ空気ばかり吸っていると、考え方も保守的になるし、おそらく外界の動きにも疎くなってしまう。何より、記事の中でも触れられているように、リストラなど、意図せず会社を辞めなければならなくなったときに、食っていく手段を身につけられない。そうなったときに、「自分の何を売り込んで仕事を探せばいいのか」ということについて、考えすぎて眠れない日々を送ることになるだろう。

しかしながら、一般的には正しい意見だと思うのだが、障害者については、ちょっと当てはめるのはつらいかなあという印象である。

「障害者が働く」ということに関して、いつかこのブログでも書いた気がするけど、まずは「就職すること」がゴールになっているという現状がある。実はスタートラインに立つことなんだけど、すでにゴールなのだ。

その状況は、全体的にはここ数年で改善してきているようではあるが、障害別、及び、障害等級別で比べると、おそらく微妙だろう。端的に言えば、軽度障害者の就労は着実に進んでいるが、重度障害者の就労は水準を維持または悪化していると考えられる。これは統計的な資料に基づく意見ではなく、私がネット上の情報を読んだり、実際に就職活動してみて抱いた推測であることに注意して頂きたい。

事実はどうか知らないが、「私の推測は正しいだろう」という前提でこれからは書くことにする。また、本記事中、特に断らない限り、以降は「重度障害者」をさして「障害者」と呼ぶことにする。

さて、ここで検討したいのは、「障害者にとって次のどちらが良いのか」、ということである。

  1. 同じ会社で働き続ける
  2. 理由はなんでもいいが、転職や転社に積極的にチャレンジして自分を磨く

まあ、先に結論を言ってしまうと、どっちが良いのか分からないし、人それぞれ向き不向きがあるので、なんとも言えない。だけれども、考えるのである。無駄に考えることこそがこのブログの趣旨なので、考え得るすべてのことを(と言っても、酔っ払った私から引き出せることなど大したものでもないが)、無理矢理考えてみたいと思う。

まず1番目の「同じ会社で働き続ける」ということ。リンクした記事でこてんぱんにやられていたので、デメリットについての考察は控えるが、じゃあ「メリットって何?」という話である。

第1に、経済的には安定する、ということが考えられる。ただし、これは必ずしも正しくはないけれど、障害者を雇用することに取り組んでいる企業は、結構体力があるので、ほとんど正しいと思われる。というか、ある程度体力があって、コンプライアンスの締め付けがきついという事情がなければ、なかなか障害者雇用をやっている余裕は無いんじゃないだろうか。

第2に、障害者の社員は自分のペースで仕事がやりやすくなる可能性がある。人事担当者とか管理職の人には申し訳ありませんが、その会社で、ある障害種別の人を初めて受け入れたような場合、ほとんどのことはその「初めての障害者の人」が基準になるので、まあ、障害者からすると、いろいろごまかせる。すいません。ごめんなさい。

第3に、これはちょっとどうかな?と思うけれど・・・。順応してしまえば、いやな思いをすることが減るかもしれない。長いこと同じところにいれば、良い意味でも悪い意味でも周囲は障害者への理解が深まるはずだ(環境にもよるけど)。で、個人差はあれど、障害者自身も、生き抜く術を身につけてうまく立ち回ることができているはずだ。そういう前提が無いと、長く同じところで働くことは、たぶん難しいと思う。だから、これをメリットと言っていいのかどうか分からないけれども、そういうことである。ここらへんは、障害というよりは、単純に人として溶け込めるかという話なので、あまり障害の有無は関係ないかもしれないが・・・。

あと、なんというか、こういうことを書くと、私が怒られたり、あるいはショックで寝込んでしまう人がいるかもしれないので、この先を読むことについては慎重になって頂きたいのだが・・・。

企業が重度障害者を雇用する理由は、おそらく次の二つに大別されると思う。一つは「障害者の雇用数のカウントが大きい」ということ。もう一つは「結構マジで障害者を活用しようと思っている」ということ。もちろん、これは私個人の勝手な思い込みだし、こういう問題は白黒付けられるものではなく、むしろファジィであるから、このような二元論では片付かない。けれど、あえて書いている。

どちらの理由にしても、重度障害者を雇用することは、はっきり言ってリスクである。ぜったい怒られると思うけど、あえて書くけど、「動くかどうか分からない車を買わされる」のと、あんまり状況は変わらないんじゃないか?いろいろなところで障害者雇用について「障害の程度は千差万別なので、一人一人に合った配慮をうんぬんかんぬん・・・・」という説得がされるようだけれども、経営側からすれば、ROIが計算できないんだからそんなもんリスク以外の何物でも無い。

しかしながら、そこでリスクを取るということは、さっきのように、雇用率を引き上げるのに使えると思っているか、人事担当者が熱い思いを持っているかのどっちかなんだと思う(思い込み)。

で、これは実感であるけれども・・・。視覚障害者である私が就職活動していて、きちんと話を聞いてくれた企業というのは、ぶっちゃけ、ほとんどなかった。一応、それなりに名の知れた会社でそれなりの期間働いていたのに、である(まあ、そういった点は実力主義の世界ではどうでもいい話)。未だに「視覚障害者はお断り」という企業さえ有った(もちろん、文句はたれておいたが)。

私の場合、結果的には2社ほど良いお話を頂くことはできたものの、エントリーした会社は、合計すると30社以上。まあ、これでも少ない方だわね。余談だけれど、この数字、10年前の視覚障害者の就職事情を加味してもちょっと少ないと思うが、今では健常者の人たちも30社とか50社とか100社とか応募してもだめなことが多いというのは・・・。悲しい世の中だ。

そういうことも考慮すると、個人的な感情としては、今回拾ってくださった会社や職場の担当者の方々には、大変お世話になり、そして、感謝をしておりまして、もう、なんというか、個人的には、「骨を埋めるつもりで働かないといかんなあ」という気持ちであります。すいません、ごめんなさい。最初の就職のときは、こういうリスクとか、そういうのは、あんまり頭にありませんでした。これからは一生懸命頑張りますから、ごめんなさい、ああああああああああ!

おっと、なんか話が逸れてきた。まずい徴候だ。Next please.

話は元に戻って・・・。

今検討していることの二つ目、「理由はなんでもいいが、転職や転社に積極的にチャレンジして自分を磨く」ということはどうか。メリットについてはリンクした記事に書いてあるので省略。

で、デメリットなんだけれども、おおざっぱに言えば、「健常者に関する一般論を障害者に適用するのは危険」ではないかと思う。すべてがだめだということではなく、「前提条件とか現状に相違点があるから注意が必要」という意味である。

具体的には、まず、そもそも障害者が置かれている状況として、「実力や努力や意欲に適合する受け入れ先が少ない」ということが言えるのではないか。これはマッチングとは少し違って、歴史的なたとえで言えば「女性の普通教育」みたいなものだ。要するに、門戸が開かれていない。そういうと大げさかもしれないが、私なりの考察を付け加えて言い換えれば、「一般的な中途採用者に対する期待値に比べて、障害者を中途採用する場合の期待値は、どうしても下げざるをえず、結局受け入れる環境を整える方向に力が働かない」ということだ。

また、こういうことを書くと怒られるだろうし、ショックを受ける人もいるかもしれないので、読者の皆さんは慎重になって頂きたいのだが・・・。

一度でも障害者採用をやったことがあれば経験的に分かると思うけど、障害者の育成は大変難しい。育てる側に経験が無いというのもあるし、当事者にとっても、障害の内容によっては成長が難しい部分もある。例えば、全盲にUMLで設計書を書けと言っても無理だし、全盲に紙の伝票を仕分けしろと言っても無駄だ。それで、そういうことを経験的に学習した企業は、障害者採用に慎重になる。リスクを軽減させるために、より軽度の障害者を雇って、自分たちの管理がしやすい方向へ方針を切り替えることも想像に難くない。

これが、新卒だったら、会社で育てていく覚悟を、ある程度は持てるかもしれないが、中途採用の場合は即戦力として会社の利益向上に直接的に貢献することが求められるわけである。すると、中途での障害者採用を見送ったり、あるいは軽度の障害者をルーチンワークをやらせる目的で雇ったりする感じになるのは、まあ、会社の立場からは理解できる。

こんな感じで、障害者がキャリアチェンジする場合は、たぶん裾野が狭まっているんじゃないかと思っている。まあ、妄想かもしれません。

それから、障害者の立場から考えても、デメリットがあることに触れておきたい。

それは、環境に適応するためのコストが大きいということである。先に述べたことと重複するかもしれないが、何にしても、職場に配属されたときに、高い水準で周囲の理解が得られるケースは少ないと思う。簡単に言えば「慣れるのに時間がかかる」のだ。

それこそ「障害は千差万別」というのが、あながち嘘でもないような感じである。障害の有無以前に皆人間なんだから、障害に対する配慮についていろいろ意見が異なったりすると思うが、障害者はそういうことをいちいち職場の人に説明しなきゃならないし、説明したところで理解が得られる確証はない。さらに、建物の設備や支援機器の導入が新規に必要な場合、それをどの程度受け入れてくれるかは会社の考え次第。仕事の内容や待遇ばかりに目がいって、そういった環境面で失敗するリスクも、当事者は考慮すべきだ。

ああ。安酒を飲んでいたら、だんだん胃が痛くなってきた。

そういうわけで、ほら、言ったでしょ。どっちとも言えないのです。なんか、この文章の流れだと、「同じところで働くのが良い」という結論になりそうだけど、それは俺が今そういう考えだからであって、実際は人それぞれ、いろいろあるんだよ。きっとね。

だから、もう一度言います。ごめんなさい。ほんと、すいません。これからは真面目に働きます。疲れない程度に。作業の進め方については手を抜きますが、成果物の品質については妥協せず頑張ります。

なんか、「結局この文章はなんだったんだ?」と、小一時間問い詰めたくなるような感じではあるけれども・・・。もう酔っ払ってきて、どういう風に収束させたらいいんだか分からなくなってきましたから、もう終わりにするわ。すいません。真剣に読んでいた人ごめんなさい。僕はこういう無責任な人間なんだ。教育実習の担当だった先生に「今、私、夫と家庭内別居状態なの」とか言われても、今の俺ならもう動じない。昔の俺は腰が抜けました。ごめんなさい。

こんなの、載せていいのかしら。まぁいいか。一応匿名だし。現代では、そう思っていても、割と簡単に個人が特定されちゃうから怖いもんだ。まぁ別にいいけど。さらしたりしないでね♪

とても下らないことなのだが・・・。

「しこしこ」っていう擬音語は、どんな動作を表すのかといえば、基本的に答えは一つしかない。そう、それは「オナニー」だ。

では、何故「しこしこ」が「オナニー」なのか?別にオナニーのことを「しこしこ」と表現する合理性はないのだが、とりあえず「オナニー」と言ったら「しこしこ」だし、「しこしこ」と言ったら「オナニー」なのだ。

同じように、俺には納得できないことがある。小学校3年生の国語ドリルで、「次の擬音語を考えてみましょう」的な問題で、『蕎麦を食べる音』というのがあった。

この答えは「つるつる」だったのだけど、よく考えてほしい。あんたは蕎麦を食べるとき「つるつる~」って音を立てて食っているか?別に蕎麦に限らず、日本人が麺類を食うとき、俺は「つるつる」なんて音を聞いたことがない。麺を食べるときはもっとけがらわしい「ズーッ~」とか「シュルシュル~」とか、「つるつる」とは根本的に違う音だ。

文学的には「つるつる」なのかもしれんが、国語のドリルで「つるつる」を強制するのは、いかがなものだろうか?これじゃ、ハゲてる人に対して失礼だ。

そういうわけで、「しこしこ」だって別にオナニー一辺倒というわけじゃなくてもよさそうなのだけど、まぁでも、やっぱ、「しこしこ=オナニー」だな。

これは自問自答の記録である。

新しい職場の業務内容は、例えれば「毎日同じように豚骨スープを作って客にラーメンを出す」ような、ある種職人芸的な要素が強いと、入ってから知ったので、とにかく今はルーティンを覚えたり、基準を見直したり、基準と適合するか否かを精査するための材料を整理したり、そういうことに手一杯で、余計なことを考える暇がない。

とは言え、さすがに通勤電車の中とか、こうして家に帰ってきたときは、思う存分無駄なことを考えられる。まあ、そう考えることもないんだが、毎日通勤してれば、道中、「どうしたもんかね?」と思ってしまうことは、一つぐらいあるものだ。

で、本日の問題である。

【問】 駅で視覚障碍者を案内してくださる方には感謝すべきだと思うが、無言で、後ろから腕をひんづかむ(より一般的には「ひっつかむ」)のはやめて欲しいんだけど、それをどうやって丁寧に伝えればよいか?

ここで「ひんづかむ」と書いたのは、ただつかむだけでなく、強力な握力で二の腕をギューっと握りしめられたり、すごい手際の良さで腕を強力に絡みつかされたりすることを、総称している。「ひんづかむ」って下品に聞こえるけど、実際にそうされたら一番ピンとくるのが「ひんづかむ」だと思う。「ひっつかむ」は、まあ悪くはないが、俺的にまだ弱い。

さて。一応、私は男だから「もうちょっと優しくして!」とか思うだけなんだけど、女の子の視覚障碍者がこれやられると、たぶん心理的に微妙だと思う。「この人痴漢です!」という最終奥義はあるものの、いちいち奥義を発動していたら、週に数回警察署で事情聴取されるはめになるだろう。

で、まぁ、女の子に限定せずとも、ひんづかまれるのは、正直あまり気分がよろしくない。そこで、このサポート方法をやめて欲しいことを、どうやって伝えたら良いんだろう、ということになったのである。

ここで、世間話できるほど気さくな人で、かつ、手引きの方法についてさりげなくお願いできるぐらいに目的地まで距離があれば、さほど問題にならない。問題なのは、エスカレーターに乗る瞬間とか、電車に乗る瞬間とか、そういう一瞬の出来事についてである。

このような場合、サポートしてくれた人がどこにいるんだかよく分からないし、「有難うございます」以上の会話はなかなかできない。仮に、エスカレーターとか電車で近くにいることが判明しても、いちいち、手引きの作法について説明するのは、まぁ、するに越したことはないんだろうけど、面倒でもある。でも、説明しなきゃしないで、これからも彼らは僕たちをひんづかんでサポートすることだろう。

で、そこから本来はあと30行ぐらい話は続くのであるが、長いので省略。

最終的な結論としては、「せっかく盲人団体があれこれ啓蒙活動しているんだから、手引きの方法をもっとちゃんとやればいいのに」ということになった。なんか、本当なのかどうか俺は信じがたいのだけど、今、そっち系の団体が、白杖を上にしてグルグル回しているときはヘルプ要請のサインであると、キャンペーンしているらしい。そんな、周囲にとって危険で、かつ、恥ずかしいことはやめて、もっとシンプルにやることはできないんだろうか?いや、まあ、絵的なインパクトはあるかもしれんが・・・。

っていうかですね、白杖の振り回すのは、酔っぱらってたまらなく楽しい気分で帰路についているとき、あまり街灯の無い道に差し掛かって、だれも歩いていないことをしばらく耳をそばだてて確認した上で、「ちゃんばらごっこ」するときだけです。覚えておいてください。

すいません、一般論なので、特定の個人をいうものではないことをご了承頂きたい。

人間、手遅れになってからでは遅いので、問題が発生しそうなら、できるだけ事前策を考えるものだが、結果的に問題が発生してしまうことはよくある。

ハゲにならないために、若いうちから育毛剤を使っていても、悲しいことに「運命の日」は訪れてしまうことがある。努力が無駄になってしまうことがある。つまり、「ハゲてしまう」こと、は・・・ある。

というのも、最近実家で家族とテレビを見ることが多かった。で、いちいち「あの野球選手はヘルメをとるとピカピカだな」とか、「あのアナウンサーは普通にしてると分からないけど、頭を下げるとツルツルだ」とか「頑張ってサイドを寄せてるけどてっぺんはカバーできてないね」とか、無駄な情報が入ってくるのである。そうすると、こちらとしては「そうなったら、自分は困るなあ」と思うわけで・・・。

個人的には毛が多い方なので、美容院でも「お客さんは将来大丈夫ですね」と言われることが多いんだけど、でも、そんなのあと何年かしたら状況が一変するかもしれない。どこかのウミボーズは「30過ぎたら一気にくるんだよ!」と、切実に切れていたので、三十路を間近に控えた俺としては、何か今のうちから考えておけることはないかと思うのだ。

とりあえず、「ハゲ」を発見することはできるだろう。髪を洗うときに、どの辺がやばいかは分かる。

問題は、発見できた後、どうやってごまかすか、である。もちろん、ごまかさないのも手だけど、もし「若ハゲ」だったら・・・。彼女がもしそのときいたら・・・。もうすぐ結婚式だったら・・・。ハゲたまま、神父さんに愛を誓えというのか?というか、ハゲ全開でプロポーズとかしろというのか?それは・・・割と無理だろう。

それは、以前にもちょっと書いたけど、私のおばが「ハゲは嫌い」と言っていたので・・・。「髪型をセットしないのは気にしなくても、ハゲはさすがに厳しい」という女性も多いことだろう。

で、まあ、それだけじゃなくて、仕事で取引先に挨拶するときも、やっぱり、堂々とハゲを見せるのもちょっと、どうかなと思うし(自然現象なんだからどうしようもないんだけど)、全盲ならあれだけど、視線とか気になるかもしれんし・・・。

脱線してしまったが、どうやってごまかすかは、非常に難しい問題だ。そう、全盲にとっては問題である。

女性の化粧にも言えることかもしれないが、例えば髪型のセットとか、健常者が鏡をみてやるような作業は、全盲にはアウトプットを確認するのが困難な作業なので、ある程度ごまかし方を習ったとしても、ほんとにごまかせてるかどうかは、もうだれかに確認してもらうしかない。その場合、一人暮らしだったらどうしたらええのん?

髪がふさふさのときに、「ワックスつけてセットしても残念な感じ」ということであれば、まぁ、あきらめはつく。でも、ハゲをごまかすのにあれこれ髪をセットしても、あまりごまかせてなかったときや、逆に目立つ感じになってしまっていたとしたら・・・。いや、それを確認する手段は多くないんだが、気づいたときの精神的ショックは計り知れないことだろう。

いっそ、ズラを作ってしまえばいいんだが、あれはあれで維持が結構大変みたいだし、費用もかかる。必ずしもズラが良いとは限らないようだ。

ということなので、自分に降りかかってきたときのために、ハゲないよう努力すると共に、ハゲてしまったときの対処方法については、今後学習することにしたいと思います。

なお、ここからは予断ですが、一応ここでは「ハゲ」とカタカナで表記してきた。他にも「はげ(ひらがな)」とか漢字もあるが、あえてカタカナである。

これは以下の本に習った書き方である。

須長 史生 著: 「ハゲを生きる―外見と男らしさの社会学」

この本、ハゲた人の心理を社会学的に分析した書籍としては結構面白い。昔読了したが内容を忘れてしまったので、もう一度読もうと思う。

で、この本は点訳されているのだが、何故「ハゲ」がカタカナであるかが分かったかというと、以下の本に、上記の著者が「ハゲ」とカタカナで書いた理由について、ある人の解釈が記述されている。

と学会 編: 「トンデモ本 男の世界」
   >> [ファイル05 おっちゃんの世界] → かつらすだれも踏み越えて

本日は以上です。

昔、彼女がいたころ、ときどき料理を作ってもらっていたのだが・・・。まぁ、おいしいことはおいしかったのだが、正直なところ、「なんかひと味足りない」って感じだった(読んでたらごめんなさい)。

で、たまに実家に帰ってご飯を食べると、やっぱりしっくりくる。「あぁ、これがお袋の味か」と思ったことは、無いこともない。

私のこの見解について適当に推論すると、たぶん母親が作る料理の味に舌が慣れているからだと考えられる。っていうか、お袋の味っていうものはだいたいそういうものだろう。料理の味にしても、労働に対する価値観にしても、親の影響は大きいものだから当然のことだ。

ところが、ちょっくらショッキングな事実が判明してしまった。どうもうちの親、調理師免許と栄養士免許を持っているらしい。え?うそでしょ?まさか・・・。学校給食(高校生のときの寮を除く)がすんなりなじんだのはそのせいか?

そうなると、大変困ったことになる。現場から大変遠ざかっていたとはいえ、免許を持っているということは、多少そのときに勉強した知識を元に料理を作っているはずなのだ、うちの親は。「それは違う」という主張を展開される方もおられると思うが、だいたい人間なんて自分の経験以外のことを思いついたり実行したりできないので、私は割と信じている。少なくとも、私の見立ててでは、うちの親は凡人だ。たぶん、突飛ではない。

ということは、多少なりとも知識を持った人手ないと、私は人が作った料理に満足できないのではないか?知識というか経験というか・・・。「ひと味足りない」原因を、私は免許の有無に求めてしまうかもしれない・・・。

まぁ、冷製に考えると、免許を持っているということは、ある程度均質な料理を作れるということであるから、万人受けする、すなわち「まずくない料理」を作れるだけの勉強はしたということであって、それが必ずしもおいしいかというとそうではないと思うのだが・・・。機械で作った冷凍食品も、ずいぶん味が良くなったしね。

そういうわけで、私がお嫁さんを探す場合、まず「調理師免許」の有無を条件に加える必要があるかもしれない。でも、そんな人が嫁さんになったら、やっぱり毎日「給食」なのかしら・・・。「料理は愛情!」というけれど、それはたまに作るからそうなのであって、毎日のルーチンワークに成り下がると「やっつけ仕事」になって、結局は「給食のおばちゃん」的なところに収束していく気がする・・・。ジレンマだ。

ちなみに、今かなり酔っぱらっていて、もう最初の方に何を書いたか覚えてない。北朝鮮は野蛮な国だ。日本が支配してやつらに人権を与えてやらねばならん。ウソピョーン!

でも、まぁ、身内を処刑するのはちょっとね。日本の戦国時代だって、辟易してた人はいっぱいいると思うよ。それが、「民主主義」とかいう文字が入ってるくせに独裁的な国家であるどこかのだれかさんが・・・。あああああああああああああ!Fuck!!

最近いろいろあったのよ。ちょっと、最後ぐらいは頑張らないとなって思うの。私は、「主任のためなら命をかけて戦う覚悟があります」と言いつつも、実際に死ぬか生きるかの場面になったら及び腰になって逃げるタイプの人間です!Yes, Sir!

以上。人妻最高!Yeah! Very good! Not, great! Yeah!

「盲人でもサバゲーをやりたい!」

ということを思っているのは俺だけかもしれないが、全国の戦争大好き盲人のために、いろいろとサバゲーができないかどうか考えてみた。

まず、フィールドで必要とされるアクションとしては、移動・索敵・戦闘・フラグを取る、ぐらいだろうか。いずれにしても、動きとか敵味方識別とか、そもそもオブジェクトをどうやって識別するかが問題になる気がする。

では、はじめに「移動」について考えてみよう。移動において最も重要な二つの項目は、移動方向を認識することと、そして、現在地を認識することである。自分がどちらの方角へ向かっているかということは、敵陣地へ向かっているのか、自分の陣地をうろうろしているだけなのかを知る上で重要である。また、フィールド全体の中で自分がどの位置にいるかを認識できなければ、どのように移動するかを決定することもできない。

これらを解決する方法を考えないといけないが、とりあえず、現在地の認識は難しいかも。少なくとも、GPSのような機器では、本当の戦争ならまだしも、サバゲーには使えない。それほど精度の高い衛星は、軍用にしか使えないと思う。ひょっとしたら、特定の地域において座標を決定できるようなシステムはあるかもしれないけど、どっちにしても、そういう設備をサバゲーのフィールドに増設してもらわないといけない。

ただ、移動方向は把握できるし、障害物を探知することも、たぶんできる。方角は普通にコンパスを使えば良い。音声で読み上げるコンパスもあるし、針を触って確認できる方位磁針もあったはずである。障害物の探知は、パームソナーとか使えば、まぁ、目の前のものぐらいは分かる。足下は、分からないかもしれないから、白杖を突きながら移動しないといけないかもしれないけど・・・。なんか、それはそれでシュールかも。

次に考えないといけないのは「索敵」である。白杖突きながら移動するとしたなら、索敵よりもカモフラージュの方法を真剣に検討すべきだとは思うが、とりあえず、索敵も必要だ。これも、パームソナーが活躍するかもしれないが、オブジェクトが敵なのか、味方なのか、それ以外なのかを識別することはできない。まぁ、IFF的な機能はいらないとしても、人間が植物かぐらいは判別できる方法がないといけないけど・・・。まぁ、それはもう、発砲して確かめるぐらいしか思いつかない。でも、仮にオブジェクトが植物だったら、発砲すると逆に気づかれる可能性があるので、難しいところだ。

最後に「戦闘」。これも難しい。だいたい、索敵できたとしても、どうやって盲人は照準を合わせるんだろうか?いや、なんとなく敵がいそうな方向に銃を向けて発砲することはできる。だが、レーザーサイトとかで照準を確認できるわけではないし、ましてやスコープも見れない。するとどういうことが起きるかというと、腕は敵の方向に向いているけれど、手首の位置がおかしくて銃口は敵と違う方向に向いてしまったりする。そして、それすら認識できない可能性がある。

もちろん、どうやって照準するかという本質的な問題もある。よっぽど敏感な人でない限り、音か何かで知らせてくれる照準機がないと、敵を発見すらできないだろう。これは索敵の問題とも関連する。そして、もっと問題なのは、弾の軌跡が分からないので、弾着修正ができないことだ。敵がいると信じた方向に打つか、あるいは、そこにはいないと疑って感で照準し直すしかない。

他にもいろいろ問題はあるけれど、この辺がクリアできれば、形だけでもなんとかサバゲーができると思う。盲人も。

だれか、やりたい人は一緒に考えましょう。

この前、スーパーで「冷凍食品が解けてたから返金しろ」と言ってる人がいた。店は返金に応じていたんだけれど、冷凍食品が解けてたという文句を俺はぜんぜん理解できないのだが・・・。

基本的に、スーパーの棚に置いてある冷凍食品は、冷凍されているだろう。で、客はその冷凍食品を買い物かごに入れるなどしてレジまで持っていく。このとき、冷凍食品を取ってからレジに直行するかもしれないし、別の商品を見てからレジに向かうかもしれない。そして、レジで支払った後、レジ袋やエコバッグなどに収納して冷凍食品を持ち帰るわけだ。

この過程において、冷凍食品を棚から取った時点で、棚よりも温度の高いところに移動するわけだから、多少解けてしまうことは自明である。もちろん、冷凍食品の棚は冷凍できるだけの低い温度であるという前提の話だ。そして、その時間が長くなれば当然解ける量も増え、夏場などは特に、家に帰るころには、棚に置いてあったときと同じほど冷凍されている状態であることなど皆無である。

これは極めて当たり前のことであって、「家に帰ったら冷凍食品が解けていた!」という文句は言いがかりでしかない。ということは、冒頭の客は、棚にあった冷凍食品が解けていたことに文句を言っているか、もしくはレジで支払った後に解けていると気づいて文句を言ってきたのだと推測される(もちろん、言いがかりである可能性もあるが)。

レジで支払った後のことについても、先ほど述べた通り、返金するようなことではない。店の中が冷凍室と同じ温度ならともかく、人間の過ごしやすい温度である以上、冷凍食品は解ける。

一方、棚にあった冷凍食品が解けていたのなら、その客は何故それを買ったのか?という疑問が浮上する。棚に置いてある時点で解けてたなら、買うなよ。この場合も、解けていたと知りつつ買ったんだから、返金するようなことではない。

以上のことより、「冷凍食品が解けてたから返金しろ」というのは、どういう状況であれ、言いがかりである。でも、言いがかりをつけた方が勝ちのようなこのご時世、スーパーの人も大変だ。

ところで、最近、職場の人の態度が冷たく感じる。いや、たぶん気のせいだが・・・。

弁当箱に、ありったけのホウレンソウを詰め込んだ上にコロッケを載せて、そしてご飯には、白い米を覆い隠すように辛子明太子を大量に載せたものを持っていってからだ。なんか、メインのおかずがホウレンソウで、付け合わせがコロッケみたいになっていたけど・・・。なんか、それから、ちょっと、みんな詰めたい気がするの。ほほほほ。

あと、分かってはいたものの、消費しなきゃと思って入れた「腐りかけのサラダ」を持っていったときも、「食事には気を付けた方がいいよ」とさらっと言われた。色、変わってましたかねえ?

少し前に、JRなどの鉄道各社が、エスカレーターで歩かないよう呼びかけるキャンペーンをやっているというニュースを見た。

JR東日本ら鉄道事業者、エスカレーターの安全利用を呼びかけるキャンペーン | マイナビニュース

ところが、このキャンペーンはどうやら「無駄」だったようである。

エスカレーター歩かないで!JR呼び掛けも「知らなかった」 ― スポニチ Sponichi Annex 社会

エスカレーターで片側を空けることは悪習だと個人的には思うが、「それがマナーである」と認識している人は多いようだ。実際、私も片側に寄ってしまうし、人の流れの関係で両側を占有する状態になってしまうと、「止まってないで歩けよ」的な雰囲気を、周囲からひしひしと感じる。

どんなことでもそうだが、マナーと認識されていることや慣習を変えることは容易でない。エスカレーターで歩かないようにしてもらうのも、ただPRするだけでは、はっきり言って無駄である。唯一、ポスターを作るため印刷業者はうれしいかもしれない。

マナー、慣習を変えるには、ルール(法律)を変えるか、物理的に仕組み(インフラ)を変えてしまうかしかない。

例えば、「エスカレーターで歩いたら罰金千円」という罰則ルールを設ければ、歩く人は激減するはず。これは路上喫煙に罰則を設けた例と比較すれば、そんなにずれていない発想と考えられる。

あるいは、エスカレーターの幅を「一人用」に統一することで、歩こうと思っても歩けなくなる。片側を開ければ反対側を歩けるようになっている今のエスカレーターが悪いのだ。

当然、これらの対処には問題点もある。

前者のように罰則ルールを設けると、監視員を配置する必要があるのでコストがかかる。また、利用者からは苦情の嵐がやってくるだろう。

後者のようにインフラを変えるとなると、工事が必要なのでやっぱりコストがかかる。しかも、一度に運搬できる人数が減る(設置スペースは変えられないため、同じ場所に一人用エスカレーターを2本敷設するのは無理だと思う)ので、仮に実現したとして、エスカレーターの混雑がどうなるか・・・。または階段に流れる客が多くて、今度は階段利用についていろいろと検討が必要になるかもしれない。さらに、具体的には分からないが、一人分の幅では困る人がいるかもしれない。もちろん、利用客から苦情の嵐がやってくるだろう。

あとは、そういう諸々のコストと、エスカレーター事故による運営者側の損失を比較して、投資すべきかどうか、ということになるだろう。

でも、さんざん書いて思ったが、一人用のエスカレーターを2本設置すると、どっちかが歩行用エスカレーターになりそうだから、やっぱりインフラを変えるなら、上り・下りで一人用エスカレーターを1本ずつにすべきだ。そうすると、エスカレーターの存在意義が問われることになるかもしれない・・・。電気代かかるし、少ししか人運べないし・・・。

ただ、外国でもエスカレーターの片側を空ける習慣があるようなので、結局、いろいろ考えても、それこそ無駄かも・・・。あぁ、なんて贅沢。

「いやよ、いやよも好きのうち」とよく言うが・・・。いやなものはいやだと思うのだけれども、どうも、女の子にとっては、結構当てはまるらしい。

とある女子の発言。「相手のことを悪く言うってことは、それだけ相手を観察してるってことだから、なんだかんだで好きなんだよ。」

なるほど、一理ある。何かの記事で「告白は2回目の方が成功率が高い」と書いてあったし、韓国の女性は男に告白されても必ず一度は断るらしいし・・・。男が嫌われているように感じたとしても、意外とそうでもないのかもしれない。

また、こういう話もある。私の叔母のことだが、彼女は「ハゲが大嫌い」だそうである。旦那さんとも、ハゲてきたから離婚したらしい(たぶん冗談だが)。いずれにしても、ハゲは大嫌い、ましてや自分と同じ年代の男なんてみんなハゲてるからいやだ、ということ。

しかし、最近職場で仲良くなった人は、ハゲてるそうである。そして、悲しいことに、叔母は最近ハゲてきた。

以上のことから・・・。普通に考えると、何も導けるはずはないが、俺はマジックが使えるので、一つの公理を見いだすことに成功した。

相手の悪口ばかり言ってる女性も、ハゲてる男は嫌いと言ってる女性も、やっぱり「いやよ、いやよも好きのうち」なのである。

相手の悪口を言うというのは、それこそよく観察してる証拠だ。何故ならば、直接的に被った被害を訴えるのと同時に、その根拠となる相手の行動様式を示すことで説得力を作るために、日頃から相手を観察するからである。そのうち、何も考えずに相手を見ていたときより、確実に深く相手のことを知るようになり、意外な一面を目にして、考えを改める場合もある。

一方、ハゲが嫌いだとはいえ、プライベートはともかく、職場にハゲた男性がいても、その男性と全く共に過ごさないわけにはいかない(業務をやるということ)。ハゲた男性と業務を通じて接することで、「ハゲててもちゃんと仕事はやるんだ」とか「意外とおちゃめだ」と思う瞬間が巡ってくる(叔母の体験談)。すると、たまに職場の飲み会で同席したときに「ハゲだから」という理由で、その男性との会話を排除するようなことはなくなる。むしろ、「ハゲ」以外のところで好印象を持てば、だんだん「ハゲてること」は気にならなくなる(これも体験談)。

すなわち、嫌いなものについては、好きなものと同じぐらいに細かいところを観察し、愛情を持つこともあるということだ。

だから、「いやよ、いやよも好きのうち」ということなのである。俺は、いやなものはいやだが・・・。

このページの上部へ

プロフィール

結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

サイト内検索

最近のピクチャ

Powered by Movable Type 5.2.10