主張・思想 一覧

平等なんて所詮は幻想

平等っておかしな概念だと思う。差別はいけないと思うが、平等という概念も、差別と似たようなものではないか。

例えば、以前は女性差別が問題となっていた。どこもかしこも男尊女卑の考え方が強く、女性には男性と同じ権利・立場が与えられていなかった。そうした背景から、近年、男女雇用機会均等法ができ、女性が社会進出できる世の中になった。

女性にも男性と同じ権利が与えられ、男女平等な世の中ができつつあると、フェミニストはいうかもしれないし、逆にまだまだ差別はあるとフェミニストが言うかもしれない。

けれども考えて欲しい。社会進出という大枠でみれば平等になったかもしれないが、もっと局所的にみれば、必ずしも女性と男性の立場は平等でないのだ。

代表的なのが主婦システムである。前から「男が外で働き女が家を守る」というのが考え方として一般的だった。けれども、裏を返せばこの逆はあり得なかったのである。法律ができたので、「女が外で働き、男が家を守る」というシステムも成立すると思うが、世間はそれをあまりいいものと認識していないのではないだろうか。まぁ、主夫業に十時している男性もおられると思うが、どちらかといえば肩身は狭いんじゃないだろうか。

もう1つ。男性・女性といったことではないが、最近いろいろな会社で言われている「ダイバーシティ」という言葉。これなんて、まさに行き過ぎた平等の反動が生んだ言葉ではなかろうか。

ダイバーシティとは、性別・国籍・傷害の有無・家庭の事情など、それぞれの多様性を受け入れて会社生活を送ろうという動きである。これはひとえに「人それぞれに抱えているものは様々」という思想がある。これは平等に相反する考え方である。変な話、差別が問題になってきたころは平等に仕事をさせても支障がなかったのに、平等が定着してくると仕事のさせ方に多様性を考慮しなければならなくなったということになる。

で、結局何が言いたいのかというと、平等なんて幻想はやめた方がいいと思うのだ。そして、区別をする必要があるんじゃなかろうか。差別の場合は偏見があるのでだめだが、区別とは「複数のものの特徴でものを分けること」なので。今社会に必要なのは区別だ。平等に物事を考えていたら、きっと世界は破滅するだろう。

以上。

あの、「いく」っていう単語を漢字変換したときに、一番最初に「イク」って出てくるのはやめてもらいたいんですが。これは漢字じゃなくてカタカナです!

ところで、この前の水曜日にCDが来た。奈々の。それで、予定通りポスターも付いてきたわけだが・・・。今日、要約壁にポスターを貼った。

さて、貼ったのはいいが、向きはどうなっているのか。というか、向き云々の前に、ドアに貼ろうと思っていたのにポスターが大きすぎて貼れないし。しょうがないからベッドの横の壁に貼っておいた。どっちかっていうと、こっちの方がいいかもしれない。すぐそばに奈々が・・・。目が覚めれば奈々がいるし、横になれば奈々がいる・・・。まぁ見えないけど。それどころか、奈々を逆さづりにしている可能性もあるけど・・・。それはそれでシュールかもしれない。

あぁ、ベリー・ベリー・キュートな女はいませんか。かわいいのではなくて、ベリー・ベリー・キュート。そう、 very very cute girl! So, not pretty! cute じゃなきゃだめよ、 pretty girl!

じゃ、 pretty と cute って何がどう違うの?それって、「かわいい女子高生」と「かわいい小学生」みたいな違いですか?それとも、何か哲学的な違い(philosophical difference)があるとでもいうのですか?

ここで cute と pretty の議論をするのは本意ではない。問題は、「世界で一番美しいのは白雪姫です」とぬかした、あの鏡だ。なめている。何の根拠で白雪姫が no.1 なんだ!っていうか、白雪姫って、英語で "princess of white snow" とかいうの?どうなの?

それはどうでもいいが、絵本に書かれている白雪姫は、そう大して美しくもなかったような気がするのだが・・・。っつうか、グリム童話みたく世界的に有名な童話には原画があるんだろうか。原画があるならあれだけど、原画が無いとすると、出版社ごとに絵が違うじゃないのか?そりゃ文字だけで出版してる本もあるかもしれないが、子供向けの本には絵があることが多いだろう。それに、たまに教育テレビとかでもやっていそうになる。じゃぁ、そのときの白雪姫の絵って、だれが書いてるの?結局のところ、白雪姫が一番美しいかどうかは、作画する人の腕前にかかっていることになりそうだ。

ということで、毒林檎製造マシンがいつか販売される日を夢見て。夢見ます。ちなみに用途はゴキブリの殺害。

通勤電車での会話。大学生っぽい人がこんなことを言っていた。

「社内放送で、よく『押し合わずに降りてください』って言ってるじゃん。そんなの無理だよな。だって、押されるもん。だいたい、何でみんなそんなに急ぐのか分からない。急がずゆっくり降りろよ。そりゃ時間がなくて降りれなくなるかもしれんけど、それはそいつが悪い。」

この人は自問自答していることに気づいてないだろう。この人の疑問である「何故急いで降りるのか」という疑問の答えは、間接的には「時間がなくて降りれないこともある」ということなのではなかろうか。降りるべき駅で降りられないのは大変だ、だからみんな急いで降りようとする。結果、電車から降りるとき、みんな人を押すのだ。

最近、そういう細かいことが気になるもので・・・。でも、そいつの連れが言った一言には俺もつい共感してしまった。「最初に押すのってだれなんですかね」。そうだ、誰だ、最初に押すのは?!誰かが押すから連鎖的にみんなが人を押すのだ。だから、だれも押さなきゃ押し合うこともない。けれど、さっき言ったように、満員電車は人が人を押すような心理的効果を内包しているので、結局「最初に押すのってだれ?」という疑問も、方向性がよく分からない疑問なんじゃ?

っていうか、明日もまだ仕事じゃん。うぜえ!酔っぱらっていい気分なんだ、俺は。会社行きたくねえ!マジだりぃ。いろいろ理不尽というか、そんなことばっかりだよ。

この前、運良く資格試験に合格したけれども、だからって会社での状況が変わるわけじゃない。なんだよ、いったい。このままじゃ、俺はスパゲッティーを食べるぞ!無いけど。

ラブソング

楽天の三木谷さんはいい人だと思う。いや、それは分からないが、とりあえず楽天はそこそこやるなぁと思った。

というのも、最近の厚生労働省のネットでの医薬品販売規制の件で届いた楽天からのメールで、三木谷氏のコメントとして「障害者も困っている」という趣旨の内容が盛り込まれていたからだ。まぁ、ネット通販を利用している障害者からそういう意見が楽天にもたくさんきたのであろう。しかも、「ネットで医薬品が販売されることで、視覚障害者も薬を買うことができたんです」という旨の文章があった。おお、直できたよ!

そういうわけで、楽天からのメールを読んで、俺もパブリックコメントを寄せる気になった。

ネットで薬が買えなくなるというのは、三木谷氏が言っているように視覚障害者にとってはつらすぎる。一般的な状況とは裏腹に、視覚障害者はネット上の方が各種製品に関する情報を得やすいのである。それは使い勝手とか効能とかいうことではなくて、製品の成分・用法・禁止事項などに関してである。

それに、何より自力で買い物ができるという点がネット通販の強みだ。だって、考えて見て欲しい。薬局で買い物の手伝いをしてくれたのが、とても若い、かわいいお姉さんだったときに「コンドームが欲しいんですけど」なんて言えると思うか?言えない・・・。例えおばさんだったとしても言えない。

まぁ、コンドームはきっと今回の規制の対象じゃないと思うが、製品選択の機会という観点から、ネットで薬が買えなくなるのは痛すぎる話だ。

そもそも、今回の規制の前提として、ネットでは薬に関する副作用などについて十分な説明無しに、消費者が購入できてしまうことを問題としているようだ。けれども、薬局で買えば十分な説明が受けられるのだろうか。薬局の店員がみんな薬剤師ならともかく、ただの転院に十分なリスクの説明ができるとは思えない。すなわち、店頭で買うこと=薬に関する十分な説明が受けられる、ということではないと思うわけだ。

ちょっと強引だが、説明が必要なぐらいの副作用を伴う薬なら、処方薬にするべきである。注意事項程度なら、薬局で買おうがネットで買おうが正直変わらない。注意事項を守らないやつが悪いのだ。

そういうわけで、今の厚生労働大臣って誰だ?あぁ、あの人か。桝添さんって、昔TVタックルで田島さんとバトルしてたころの印象が強すぎて、インフルエンザとかの発表してるのは「似合わないなあ」と思う今日このごろ。

じゃ、行ってくる。トイレに。

女性専用車両。賛否両論あるが、男としては利用してみたいと思うのは自然なことだろう。だって、女しかいないのである。

ところが、いざ乗ってしまうと平常時の妄想は一気に吹き飛ぶ。何も意図的に乗るというのではない。俺のような全盲は、間違って乗ってしまうことがあるのだ。

というのも、今日、乗ってしまったのだ。しかもフルタイム。弁解しておくがわざとじゃない。乗ったときには気づかなかったが、電車が進むにつれて違和感を感じ、とうとう駅員に注意されてしまったのである。

俺がいつも利用する時間帯、一般車両はそれなりに混雑している。しかし今日乗った車両は妙に空いていた。時間があれば車両を変えるところだが、あいにく駆け込み乗車しちゃったのでそういうわけにもいかない。

違和感を感じたのは2駅ほど進んだころ。聞こえてくる会話に男の声が全くない。靴音はヒールのようなものばかり。そして、さらに数駅進んだところで、頭の悪そうな女子高生が「あいつ、きもい」と言っているのだ。「死ねばいいのに」と思いつつ、その時点でここが女性専用車両であると確信した。

気づいた時点で車両を変えればよかったのかもしれない。ただ、だいぶ前に間違って女性専用車両に乗ったとき、車両を変えようとしたら電車が行ってしまったことがあり、その電車を逃すと会社に遅れそうな状況ではやる気になれなかった。

乗っている間、とてもじゃないが妄想なんてできわけがない。「俺は障害者。一応、男でも利用はできる立場にあるんだ」と必死に自分に言い聞かせ、ものすごく後ろめたい気持ちで電車にゆられること25分。

会社の1つ手前の駅でとうとう駅員に声をかけられた。「そこの男性のお客様!ここは女性専用車両ですから降りてください」と。いや・・・だから、俺はさっきからずっと降りたかったのだ・・・。

とりあえず白杖と障害者手帳を見せたら、その駅員は納得してくれた。けれども、もうこんな後ろめたい気持ちで電車を利用するのはごめんだ。

ということで、「障害者っぽい人でも、女性専用車両に乗りそうになってる男を見つけたら声をかけてくれ」と、鉄道会社に電話しておいた。効果があるのかどうかは分からないが・・・。

さて、今日の体験を踏まえ、女性専用車両に対して日頃から思っていることも含め、少し考察してみよう。

まず、俺は女性専用車両を否定はしない。が、設置場所については言いたいことがある。一番後ろとか、一番前の車両が女性専用ならそう問題はないが、真ん中付近に女性専用車両があると困る。今日ひっかかったのはこのタイプである。「5号車が女性専用です」とか言われても、5号車ってどこやねん?

ただ、当初は末端の車両を女性専用にしようと計画していたが、「階段から遠い」という身勝手な主張が利用者から挙がったおかげで、真ん中付近に女性専用車両を設置したという事情もあるようだ。だが、全駅でそうならともかく、駅によって階段の場所がばらばらなんだから、そういう主張が通るのもおかしな話だ。主要駅だけを基準に考えないでほしい。

次に「お体の不自由な男性の方もご利用いただけます」というスタンス。まぁ、これは逃げ道としては必要であろう。例えば一般車両は混雑していて車いすが乗れないとき、比較的空いている女性専用車両で我慢してもらうということができるからだ。まぁ、車いす利用者にとっては迷惑な話かもしれないが、そこらへんは物理的な制約もあるということで・・・。

ただ、「お体の不自由な方」って、具体的にだれですか?「身体障害者手帳保持者」という定義であれば、鉄道会社としての対応に破綻はないと思う。でも、それって女性専用車両の利用者からするとどうなんだろう。というか、一般的に、目が見えないとか、耳が聞こえないって「体が不自由」なのか?身体機能の一部に傷害があるにはあるが、一般的なイメージと少々違うような気がするのは俺だけだろうか。

そういったことにあまり関心のない女性が、女性専用車で男を見たとしよう。普通「きもい」と思うだろう。そして、「何故周りの乗客は注意しないのだろう」と疑問を持つに違いない。そう、今日俺が見た「頭の悪そうな女子高生」のように。

で、結局どうしたらいいかというと、もっと利用客を限定すればいいと思うのだ。「車いす利用者」とか、その他駅員が必要と認めた人、とか。ちょっと法律っぽいが。ただ、そうした場合、該当しない障害者が間違って女性専用車両に乗らないよう、鉄道会社が対策をしなければならない。俺が要望したように、係員が声をかけるなどして。これは多少面倒なことなので、鉄道会社としては採用しない可能性が高い。

最後に、女性専用車両を利用する女性客にも一言言いたい。お願いです、男の障害者が乗ってきたら「ここは女性専用車両ですけど・・・」と教えてやってください。モラルのある人ならすぐ降ります。車内放送で「女性専用車両にはお体の不自由な男性のお客様もご利用いただけます。お客様のご理解を・・・」みたいなことは無視していいです。ただし、女性の介助者と同伴の場合は注意していただきたい。あくまでも、「単独で乗ってきたやつ」にだけ声をかけてもらえると有り難いです。男の介助者と男の障害者の場合は微妙だけど、うーん、俺はそういう人には乗らないで欲しいと思う。車いすとか、そういう明らかな事情がない限り。

逆にいうと、男の介助者が乗る場合、同伴者が女性だろうが男性だろうが、周りの乗客で一応「すいません」とか声をかけて、事情を理解してもらおうとする姿勢を見せるのが筋だとも思う。それなら大半の女性客は納得してくれるのではないだろうか。

まぁ、乗ってきた男に声をかけるというのは、女性からすると声をかけにくいかもしれない。ましてや鉄道会社は利用を許容している障害者に対しては。けれども、そこらへんは一つ、勇気を持ってお願いしたいところである。そこで逆上するような男は、思いっきり人権を踏みにじってかまわないので。

以上。

久しぶりに更新するのに、こんな重苦しい話題で恐縮ですが。先に言っておくと、これはつまらない主張であるかもしれないし、おそらく長い。コンピュータとか仕事に興味がない人は読まない方がいいと思う。


仕事柄、最近はIT業界の動向についての話題を目にすることが多くなった。その中で際立っているテーマが「クラウドコンピューティング」である。昨年アメリカを発端とする世界的な景気の後退が起こり、今後しばらくはその状態が続くと見込まれている。そんな中で、クラウドコンピューティングが非常に注目を集めている。

クラウドコンピューティングが何かということは、ちょっと検索するだけで様々な情報が出てくるので言及することはしないが、話の見通しを良くするために簡潔に説明しておこう。多少誤っているかもしれないが簡単にいうと、クラウドコンピューティングとは、ITをネットワークを通じて利用する形態のことである。平たくいうと、インターネット上で提供されているサービスとしてのソフトウェア(SaaS)や開発環境(PaaS)をひっくるめた名称である。考え方としては以前からも存在していたが、2006年(だったと思う)に、GoogleのCEOが「クラウド」というキーワードを発したことで再度注目されるようになった。

もう少し技術的にいえば、WWWブラウザだけでデータ管理やシステム開発などを行うことができるようなサービスをイメージすればよいだろう。つまり、今まではPCにソフトウェアをインストールして使っていたものが、事業者と契約するだけでインターネットを介して使えるようになる、とも言える。

さて、俺が考えたいのは、「クラウドコンピューティングは視覚障害者のコンピュータ利用をどう変えていくのか」ということだ。

クラウドコンピューティングは、上述したように不況の今、企業にとっては注目度の高いITの形態である。というのも、書記費用を抑えられたり、運用コストを削減できたりといったメリットがあるからである(ただし、一概にそうは言えない)。すなわち、今後企業でクラウドコンピューティングを導入する傾向が高まっていくことを示唆している。

ネットワーク上をデータが飛び交うため、クラウドコンピューティングはセキュリティ面での課題をかかえているが、それを考慮しても、一般的にはすばらしい概念と考えてよい。ところが、あくまでこれは一般的にということであって、視覚障害者に的をしぼってみると、逆にセキュリティ以前の問題を考えなければならないという問題に変わってしまう。それはクラウドコンピューティングを支える技術に起因するものである。

普通、クラウドで提供されるサービスというのは、ブラウザ上でOSにインストールされたアプリケーションと同様の操作性を実現している。その根底にある技術は、Ajax、Adobe社のフラッシュ、そして、フラッシュと対抗する位置にあるマイクロソフト社のシルバーライトなどである。一般の人は、よくできたサービスであれば、(技術的に長けた人を除いて)そう差異を気にせずにこれらの技術を利用できる。しかし、スクリーンリーダーを用いているユーザーにとってはそうもいかない。端的に言えば、アクセシビリティの問題が非常にやっかいなのである。

ここで、まずは現在広く利用されているWindows上で動くアプリケーションについて考えてみたい。スクリーンリーダーのメーカーは、普及したWindowsで利用できるスクリーンリーダーを努力して開発してきた。その結果、今ではずいぶんとWindowsをスクリーンリーダーで利用しやすくなった。この状況は、Windows標準のAPIを利用して作られたアプリケーションについては、そのAPIをうまく読み上げることのできるフレームワークがあればスクリーンリーダーで読み上げ可能である、ということが要因となっているはずである。Windows標準でないアプリケーションに対しても、昨今の状況を加味して、スクリーンリーダーメーカーと、標準的でないAPIを使ったアプリケーションを製作しているベンダーが協力して、徐々にスクリーンリーダーで使えるアプリケーションを増やしてきたという歴史もある。だが、突き詰めて考えれば、これはあくまでWindowsという限定的なプラットホームで動くスクリーンリーダーを作ってきたということに他ならない。

ところが、クラウドコンピューティングの根底技術にある技術(あるいは、Web2.0の潮流の中現れたリッチクライアントやRIAとも言える)は、必ずしも1つのプラットホームというわけではない。前述のようにAjax、フラッシュ、シルバーライトなど、動的なウェブページを生成できる技術が、それぞれのベンダーの思惑の上で市場シェア競争を展開しているのである。

当然、現在の風潮として、アクセシビリティを確保するためのインターフェースはこれらの技術にも存在している。が、それぞれの技術でカバーできるアクセシビリティも違えば、実装の面でも異なるものだ。MSAAのように、Windowsという1つのプラットホーム上で提供される支援技術とは少し事情が違う。

そして、一番の問題なのは、開発者が、それらアクセシビリティ機能を意図して作らなければ、スクリーンリーダーにとってアクセシブルなコンテンツを作ることが難しい、という点である。ただし、これはWindowsに限っても当てはまることではあるが。

ただ、スクリーンリーダー側からの支店でみると、Windowsの場合、Windowsの標準APIに対応すれば、それに準拠したアプリケーションには基本的に対応できた。しかしながら、Web上で使われているフラッシュやシルバーライトなどについては、それぞれの技術ごとに各API(というよりは技術標準のコントロールといった方が適切かもしれない)に対応する必要がある。つまり、フラッシュに対応したからといって、シルバーライトやAjaxも使えるようになる、ということではないのだ。

結局、存在する技術の間で標準化されたインターフェースがない限り、スクリーンリーダーとしては各技術に対応するしかない。それはWindowsの標準インターフェースに対応することより労力を必要とするであろう。これが、クラウドコンピューティング時代に視覚障害者、とりわけスクリーンリーダーのユーざーが直面する問題の根本的な原因であると、俺は考えている。くどくなってしまうが、見た目には同じようなツリービューだったりダイアログであっても、使われている技術体系が異なる以上、スクリーンリーダーは個々の技術に対応しなければならないのである。それは、各技術がそれぞれにアクセシビリティ機能を持っていたとしてもである。それらのインターフェースが統一されていなければ、結局個々のアクセシビリティ機能にスクリーンリーダーが対応していなければならない。

最も、基本的な部分ではそれが達成されている。Web標準、つまりW3Cのガイドラインに沿った形で情報を提供すれば、たいていのものはスクリーンリーダーでも読み上げることは可能だろう。

そして、上記のような問題を解決するために、最近勧告になった、W3CのWCAG2.0、加えて(まだドラフトだが)WAI-ARIAといったガイドラインに沿って、各技術がアクセシビリティのためのインターフェースを実装してくれれば、表面上の問題は解決すると期待できる(WAI-ARIAについてはスクリーンリーダー側の対応が必須である)。

一通り技術的なことに言及したところで、利用者としての立場を述べたいと思う。正直なところ、技術にそれほど精通していない人にとって、上記の議論はどうでもいいことである。いや、個人的にはそういうことに積極的に関わって欲しいと思うが、スクリーンリーダーのユーざーには決してそんな人は多くないというのが実情だろう。そこで問題となるのが、今のWindowsアプリケーションと同様のレベルで、クラウド上のシステムを利用できる程度に技術水準が向上するまで、テクノロジーに詳しくない人はどうしたらよいのだろうか、ということなのである。

2014年にはクラウドコンピューティングの市場は1,400億円になるとの予測がある。その中で、企業で働くスクリーンリーダーユーざー(ほぼ全盲であろう)がこの問題に直面することは避けられないであろう。だいたい、マイクロソフトのオフィス製品を使うのにも一苦労なスクリーンリーダーユーざーが、果たしてもっと悪い状況のクラウド環境でやっていけるのだろうか。

これは自分の身を考えても不安なことであるが、逆にそれを克服できるソリューションがあれば、(市場はきわめて小さいが)ビジネスとして切り開くことができるということではないか。技術的課題はとっても多いが・・・。

と、取りとめもなくいろいろ書いたが、結局俺は何をいいたかったのだろう。だいぶ酒が回ってきて、だんだん意味が分からなくなってきた。が、要するに俺はそういう分野に関わりたいのである。受託開発を主にやってる会社に入社したものの、ぜんぜん仕事がなくて、最近気分が落ち込み気味で、そういう中でいろいろ考えて出た結論が「やっぱり全全盲は全盲のためにできることを模索することがいいんじゃないのか。逆にそういうフィールドであれば多少は活躍できるんじゃないか。」ということだった、なんていうことが、こう、いろいろ俺に書かせてしまったんだ、きっと。

だからね、俺はいずれそういう路にいくよ。だからもっと勉強します、楽しんで。

いろいろ

明日も会社だけど、ストロング・セブンを2本も飲んでしまったので気分がいい。もう寝ようと思うのだけれど、その前に熱く煮えたぎった俺の思いを書き連ねる。

まず、しょこたんは素晴らしい。奈々に匹敵する。見てくれがどうこうとか、そんなのはどうでもいい話だ。曲がいいんだよ、歌詞がいいんだよ。だいたい奈々はかわいいけどしょこたんはかわいくないって、そんなのかんけ~ね~!引きこもりになってしまった人とか、しょこたん聴いた方がいいよ。仕事し始めたとき俺はしょこたんの歌を聴いて頑張ろうと思ったし。

次にこんにゃくゼリー。こんにゃくゼリーが背負った運命は周知のとおりであるが、何故こんにゃくゼリーが責められて餅が責められないのか。こんにゃくゼリーを咽に詰まらせて亡くなった方はきのどくだけれども、中には「あかちゃんに食べさせないでください」という注意書きがあるにも関わらずあかちゃんに食べさせて亡くなったこともあるようだ。それに、こんにゃくゼリーで死んだ人より餅で死んだ人の方が多いという結果さえある。こんにゃくゼリーを責めるなら餅だって責められてしかるべきだ。こんにゃくゼリーを販売中止にするなら餅も販売中止にしろ。餅を売るならこんにゃくゼリーも売れ!こんにゃくゼリーだけでなく餅の安全性についても調査しろ!

最後に過疎地域の問題。知らなかったが、3月から集落支援員という人たちが活動を始めるらしい。国が雇った人手、集落を支援するための要員だという。過疎地域を活性化させるには人の支援が必要だというスタンスのもとで始まる制度のようだ。俺もそういう仕事したい。最近農業がやりたくてたまらない。無理なのだが・・・。障害者というのは、そういう職業が難しいからほんとやだよな。だって、だれにだってできる仕事は障害者にできないんだもん。悲しい事象だよ。というか、厳密に言うと、集落を支援したいと思っても、障害者である以上それは難しいのが歯がゆいということなのだ。そりゃ、今の仕事よりそっちの方が楽そうだなと思ってないと言われればうそなんだけど・・・。でもね、過疎地域だって困ってるんだよ。支援したいじゃん。でもできないじゃん。障害者はオフィスで働くしか方法がないんだろうか。なんか、訳分からなくなってきたけど、とにかくだな、若者よ頑張れということなのだ。

明日で仕事も終わり。3連休が待っている。髪切りに行こう。

昨日、「インカ帝国の成立」を通して歴史に興味を持ってもらいたいと書いた。

今日はこの作品を読み、読書のすばらしさを実感してほしい。

それは、田山花袋の作品、「少女病」である。青空文庫でも読める。

この作品は、主人公の杉田古城が、電車で巡り会う美しい娘たちに思いを寄せる様子を描いたものである。

杉田はかつて名の知れた文学者であったが、発表する作品が少女に関するものばかりになってきて、世間から笑いものにされ、今では雑誌社で雑誌の構成をやっているしがない中年男性である。見てくれは、簡単に言うとゴッツイ。

そんな杉田は、歳を取った妻や、嫌みな編集長のいる雑誌社での生活にあきれていた。だが、通勤途中で出会う娘たちを見ることが彼を癒していたのだ。しかし、最後には電車に乗っている美しい娘に気を取られ、周りの乗客がよろめいた時にそのまま車外へ投げ出され、反対方面の電車に轢かれてしまうのであった。

現代には杉田のような男はいくらでもいる。私の周りにもいる。作品の一節と題名を借りていうならば、彼らは「少女病患者」である。そして、彼らの環境は確実に良くなっている。それは、田山花袋の生きていた時代と今を比較すれば明かであろう。

女子高生はセーラー服を着ているし、若い子は、特に夏など露出度の高い衣服を着用していることが多い。現代の通学時間帯の電車内は、過ぎたにとって、もう聖域であるに違いない。それは現代の少女病患者にも言えることだろうけれど。

この作品からは、様々な手法を学び取ることができる。

例えば「二」の第二段落の終盤から「二」の最後までを読むことによって、次のことを導ける。

  • 綺麗、あるいはかっこいい人をみつけたら、その人が落とし物をしないかどうか観察する。落とし物をしたら、だれよりも速く真っ先にそれを広い、渡す。

他にも、「四」の第二段落中場から終わりにかけての文章からは、電車の中で娘を観察するための細かな手法が説明されている。

初期の少女病患者にとって、この作品はバイブルとなるであろう。しかし、作品中で杉田自身でそのような手法を自然と身につけたと書かれていることや、私が友人を見ていて感じるように、おそらくこうした様々な観察手法は常に効率的なものが個人によって生み出されているに違いない。しかも、明治時代とは比較にならない現代の環境では、基礎を押さえつつ、いかにして応用していくかが課題となるであろう。つまり、物事には基礎が大事だということだ。

このように、「少女病」という作品は、私たちに大切なことをいくつも教えてくれた。読書することの楽しさ、文章から妄想することの喜び、文章を読み解く力の必要性などである。だから、是非とも高校の教科書にこの作品を・・・。

ところで、私の20年後も、この杉田のようになっているかもしれない。

インカ帝国の成立

「インカ帝国の成立」という曲(動画がYouTubeにあります)。

これはインカ帝国が成立するまでの出来事を歌にしたもので、史実に基づいたアカデミックな内容となっている。ほとんどの日本人はインカ帝国の存在は知っているものの、その成立や滅亡などについての知識は皆無と言って良い。この曲はそんな日本人が少しでもインカ帝国について学ぶ機械を与えるであろう。

作詞、作曲、歌を担当するつボイノリオ氏は、過去に吉田松陰に関する曲も手がけている。しかし、今回の「インカ帝国の成立」は日本の歴史ではなく外国の歴史である。インカ帝国について取り上げたことを、つボイノリオ氏は次のように語っている。

「ペルーは日本と非常に関わりが深い国であるのに、日本人は過去から現在に至るペルーについてほとんど知らない。何故かというと、教育されていないからに他ならない。我々の祖先がベーリング海を渡り北米から南米へ移動したことからも、ペルーと日本の間には強い繋がりがあることが分かる。だから、私が日本の教育の一端を担うような役割をしようと思った。」

これは『「インカ帝国の成立」の成立』という番組でつボイノリオ氏が述べていたことをまとめたものである。

ここではインカ帝国に関してあえて触れず、曲を聴いていただいたり、ウェブでインカ帝国について調べていただくことによって、読者にもインカ帝国に対する知識を深めてほしいと期待する。

だが、教育の中でインカ帝国が軽視されている理由には触れておかねばなるまい。

元来、日本の教育では古代の4大文明として、エジプト文明、シュメール(メソポタミア)文明、インダス文明、中国文明が取り上げられている。これらは考古学者の間でも、古代文明の中心的なものとして深く研究されてきたからである。

一方、これまで考古学者たちは南米のメキシコ・マヤ、アステカ、インカの文明についてはほとんど興味を示していなかった。これらの文明が成立していたころ、ヨーロッパでは都市同士の交流が盛んで、多種多様な文化が混じり合い、大きな文明が気づかれていたのに対し、インカやアステカ、マヤは山脈や海などで他の文明とは孤立しており、その地域だけの部族で文明を構成せざるをえなかったのである。

すなわち、文化の交流があった文明の方が発展を遂げ、孤立していた文明はそうでもなかったという思いこみがあったのであろう。インカやアステカがヨーロッパ人によってあっさり滅ぼされたという経緯もある。

ところが、実際にはその逆で、ヨーロッパの都市に大きな建設物が無かったころに、既にインカやアステカ、マヤには大きな神殿が建設されていたという。

そして、インカ帝国に限っていえば、初代の王であるマンコ・カパックがネックとなっている可能性は高い。王マンコの業績は歴史学者からは評価されているが、育ち盛りの中学生が読む教科書に「マンコ・カパック」とか「王マンコ」などという記述をするのには問題があると、教科書編集委員は考えたに違いない。

つボイノリオ氏は、前述のインタビューの中で、こうしたインパクトの強い人名・地名が教育の中に現れないことにも触れている。バリ地方のキンタマーニという村、オランダのスケベニンゲンというリゾート地、南太平洋のエロマンガ島などである。

これらは、おそらく一度聞いたらぜったいに忘れない地名だ。エロマンガ島には「イロマンゴ島」という呼び方もあるようだが、「エロマンガ島」の方が覚えやすい。

しかも、エロマンガ島には、19世紀半ばから広範にかけて、フランスやイギリスから宣教しが派遣されるも、原住民に殺され、報復として島を軍が占領したという歴史もある。宣教師来島以後、オーストラリア開拓のための奴隷狩りに訪れた商人が原住民に殺され食べられる(原住民には食人の風習があったようである)などの事件が起き、島の統制を取るために軍が島に上陸したが、原住民への報復を正当化するだけの役割しか果たさず、効力を持つ行政機関が設置されたのは20世紀に入ってからだそうだ。

こうした知識は、歴史や地理にぜんぜん興味を示さない子供に、歴史や地理に興味を持つきっかけを与えるのではないかと考えられる。実際、こうして筆者はエロマンガ島の歴史について学び、そこからイギリスやフランスの宣教師派遣について学びたいと思うように至ったのである。

ちょっとしたきっかけで、こうしていろいろなことに興味を持てるはずの子供たちが、大人の勝手な言い分でそうした機械を奪われていることを、私は悲しく思う。一応教員免許を持っている身として(数学の免許だけれども)。

そのようなことで、読者の皆様には、つボイノリオ氏のユーモアを通して歴史や文化に興味を持っていただきたいなあと思う次第で・・・。

私も大好きですよ、王マンコ。尊敬すべき王である。指でつつかれても、敵になめられても、激しく、ときには後ろから攻められても、矢で貫かれて少し血が出ても、兄弟姉妹との結婚が禁じられている中、王自ら妹と結婚しても、私はマンコ・カパックを尊敬する。

■(参考)

陰謀

きっと、陰謀論者は今頃こう言っているであろう。サブプライムローン問題に端を発し、アメリカの証券会社破綻、それをきっかけとした世界同時株安など、金融危機が世界経済を襲っている。

たぶん、陰謀論者は、こうした機器は、陰で世界を牛耳っているユダヤによって引き起こされたことであると主張するだろう。というか、ネガティブな出来事は全て陰謀なのである、彼らにとっては。

しかも、たいていユダヤとかイルミナティが潜んでいるらしい。最近も、アメリカのブッシュ大統領はイルミナティの秘密結社である、という主張を読んだ。その人の主張によれば、イルミナティの秘密結社であるブッシュは、いずれ起こるであろうニューヨーク市場の大暴落に何ら手を打たず、それどころか政府の金を着服した罪で逮捕されるというのである。ちなみに2006年に出版された本であった。もともと「宇宙人がそろそろ地球にやってきます」という本だったのだが・・・。

陰謀論者の論理では、我々一般人がそうした陰謀組織を否定するのは、陰謀論者がそのように人の意識を操作しているからなのだ。そして、世界で起こっている大事件のほとんどが、そうした陰謀組織を背景にしているという。

今回の金融危機も、その陰謀の一環なんだろう。何故そんなことを陰謀組織がするかといえば、もちろん、世界支配が目的である。

先ほど挙げた「宇宙人ともうすぐ会えます」みたいな本によれば、世界は金融経済をさっさとやめ、金(gold)を資本とした貨幣制度にすぐさま移行すべきだと書かれていた。今の世界の経済システムは、銀河連邦では否定されているらしいのだ。

だいたい、今の金融経済そのものがユダヤやイルミナティによって作られたもので、我々はそれに速く気づく必要があるっていうんだから困ってしまう。そう言われても・・・。

で、何が言いたいかというと、俺はそんなことが言いたいんじゃない。

要するに、「もうすぐ宇宙人に会えます」というタイトルでありながら、「ブッシュ大統領はイルミナティでもうすぐ逮捕されます。ブッシュが逮捕されたことが明るみにでたらニューヨーク市場は暴落し、世界経済は一気に破綻します。そしてゴールドを主体とした経済システムへ移行しなければなりません。また、地球そのものが機器に貧している今、私たちは次元を上げていかなければなりません。」という主張をする本を書いている占い師の著者は、本当に的中率90%なのか?ということなのだ。

ただ、「今こそ物欲から離れ、人間の心にとって本当に大切なことは何か、よく考えてみなければいけないのです」という主張はそのとおりだと思う。いやぁ、耳が痛い・・・。物欲は我慢せんといかんとです![禁欲] is very very important!そうお~もいませんか~?

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結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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