主張・思想 一覧

困る話

今朝、通勤中の駅で、親切なお方が「どこまで行きますか、一緒に行きますよ」と声をかけてくれたので、お言葉に甘えて途中までつれていってもらったわけであるが・・・。とりあえず、人混みが落ち着いた辺りで「ここからは分かりますので大丈夫です」と言って会社へ向かおうとしたのだが、さらに親切なことに「出口のところまで行きますよ」と言って下さって・・・。

ところが、こういう場面、このようにお気遣い頂くのは、盲人としては有り難いし感謝しなければならないのだが、素直に感謝できない場合もある。例えば、「出口」と言っても、だれもが知っているような大きい出口から、特定のビルに行く人しか使わないような小さい出口まで様々である。そして、小さい出口に行きたいとき、どう説明したら良いか分からないし、説明できたところで援助してくれてる人が分からなくて、あちこち聞き回ってくれてしまうことも、ときどきある。

まさに今日がその場面。私は毎日自分が使う出口だから、道順は分かる。でも、人に説明しようと思っても、出口の名前も分からないし、例えば近くのランドマークを説明しようと思っても分からないし、困ったことになってしまった。声をかけて下さった方も、道順を説明したところで、はっきりとは分からない様子。

このような場合、親切を受け入れて、とりあえず援助者が知ってるところにつれていってもらったりすると、よく分からない出口につれていかれてその後困ってしまうことが多々あるので、最近は慣れた道なら適当なところまで案内をお願いすることにしているわけなのである。しかし、今日のように「いや、行きますよ」とか「暇なので一緒に行きます」と言われることもあるわけで・・・。

まぁ、本音をいうと、正直困る。こちらが「大丈夫です」と言ってるんだから、素直に放置して欲しい。いや、援助してくれようとする気持ちは受け取りたいと思うが、こっちの意志も尊重して欲しいな、と思うわけである。

で、今日はどうしたかというと、親切は受け入れるが私の分かる道を歩いてもらうようお願いをすることとした。でもだめだった。「その道はちょっと込んでますから、別の道で行きましょう」と言われ・・・。結果的には、ぜんぜん知らない出口につれてかれてしまった。まぁ、なんとなく位置関係は予想できる程度の場所だったんだけど・・・。本当に困ってしまった。

結局、会社を目前に「ここはどこ?」状態になって、「ちょっと途方に暮れてみようかな」と思いかけたときに、また別の人に声かけてもらってなんとかなったのであるが・・・。

さて。こういう問題は悩みどころ。むげに断るのも悪いし、だからといって必要以上のヘルプはいらない。せっかく声をかけてくれた人の心を傷つけずに、必要なだけヘルプしてもらうには、どのような言葉が適切なんだろうか・・・。

まぁ、これはもう、どうしようもないから、場面場面で臨機応変に対応していくことしか手はないんだろうが・・・。でも、微妙。

ところで、ぜんぜん別件、というわけでもないが、間違った方向の親切というのも困るものだ。

例えば、駅を歩いていて「どこへ行きますか?」と声をかけられたので私が「どこどこです」と答えたら、「あぁ、そうですか。私は別の方向なので、ちょっと待ってて下さい」と言って、少し離れた場所で「あの方、どこどこまで行くみたいなんですが案内してあげて下さい」と頼む人がいる。あの・・・。すいません。自分でヘルプできないなら声をかけるのは控えて頂けると有り難いのですが・・・。

あと、電車の中で「この方のために席を譲ってあげて下さい」と座っている人に頼んでくれる人もいる。これは、善し悪しは人それぞれかもしれないが、私としては、やらないで欲しい親切の一つである。人に席を譲るよう頼むなら、あなたが捕まっているつり革をお譲り頂きたく・・・。

誤解しないで欲しいのは、親切な行為やお気持ちには感謝していることだ。その親切を適切にぶつけて欲しいのである。従って、ここで私が言いたいのは次の2点。

  • ヘルプされる側の意志や気持ちも尊重して下さい。「援助不要」の意思表示があれば放置してかまいません。まぁ、それでホームから転落して電車に惹かれたりしたら自責の念を抱くかもしれませんが、まぁ、抱かなくてOKです。
  • 自発的、かつ責任取れる範囲の親切を希望します。担当を他社に移転させたり、他人に親切を誘発させる行為はおやめ下さい。

以上。でも、感謝してますよ。昨日の帰りに改札口までつれていってくれた、かわいいOLさん。あれはたぶん13Fの受付の人か、12Fの人だな。あぁ、良い香りだった、でへでへ♪

【追伸】 そういえば、朝駅で声かけてくれたおじいさんが、電車を待ってる間に身の上話をし始めて「あなたはこんなに頑張っているのに、私はぜんぜん頑張ってないんだ・・・」みたいな趣旨のことを言いながら大泣きし始めちゃったことがあったのを思い出した。電車が来たので、泣いてるじいさんを放置して乗車しちゃったけど、あの人今はどうしてるんだろう。たしか、2008年の11月ごろの記事に書いたような気がするが・・・。

視覚障害者の就労については、行政機関をトップとして、NPOや任意団体などの努力により、ずいぶん進んできた印象がある。本当は統計データを示せば説得力のある説明ができるとは思うが、それはめんどくさいので、「昔に比べてずいぶん一般企業に就職する視覚障害者は増えた」と、感覚論で言うことにするが。

一般企業に就職するといった場合、一般的な総合職・事務職と、視覚障害者の場合はヘルスキーパーという職種での採用もある。現状、鍼灸免許を持ってる盲人が多いので、就労といった場合も、ヘルスキーパーとしての採用は多い。

さて、いずれにしても、まずは「雇用を促進する」という観点において、視覚障害者が働く上での環境整備、法整備といった点では、かなり整ってきているものと思われる。ただ、昨今の雇用情勢を鑑みると、「だから良くなっている」とは言い難い。

とりわけ、支援機器の導入に関する補助金があったり、あるいはそうした支援機器を活用した職業訓練が成果を上げている一方、実際に起業に就職できた視覚障害者が突き当たる多くの問題についての対策については、認識されているかどうかも怪しい状況である。いや、就職後の問題について認識されてはいるが、まずは門戸を開くことが優先でそっちまで手が回っていない、というのが現状なのかもしれない。

視覚障害者、特に全盲が、一般の企業・団体で就労してから困る問題として、コミュニケーションが挙げられる。会話はできるから特に問題ないと思われがちなコミュニケーション、じつは結構困る。

例えば、用事があって同僚のAさんに声をかけようと思って声を出すも、Aさんは席にいないということがある。だれもいないのに話しかけるのは、恥ずかしいものだ。当然、周囲は「そうした行為はしかたがない」と認識しつつも、逆に本人からすると恥ずかしいと思ってしまう場合があるのだ。

これはかなり軽度な問題であるが、重度化してしまうとやっかいなコミュニケーション問題もある。それは、「私には周囲の助けが必要なんだから、不必要に同僚との関係を悪くしてはならない」と思ってしまい、視覚障害者が同僚に対して必要以上に遠慮してしまうことである。軽いことでいうと「飲み会を断れない」とか、致命的になると「本当はその意見に反対だけど、反対すると関係が悪くなってしまうかもしれないから、しかたなく賛成する」といった考えになってしまう人もいる。また、受け手はどうであれ、相手が善意で行ったと思われる行為に対して、善意として受け止めるために、常に笑顔で振る舞ってしまうなどということもある。

以上は私が体験したり見聞きしたことをいい加減に記述しているものだが、「就労による視覚障害者の精神状態の変化」については、もっと光を当てて、ケアの対象とすべきである。確かに就労においては機器や周辺環境の整備も大事だが、それ以上に、職場で視覚障害者と健常者がどうやってコミュニケーションしたら良いかということ、そして、重要なこととして、視覚障害者自身がどのような心の持ち方で仕事や同僚に向き合うべきか。こういった点のケアやカウンセリングをもっと重視すべきである。

繰り返すが、基礎的な業務の能力を育てることは大切である。私の持論として、視覚障害者には中級以上のITリテラシが必要だ、というのもある。が、個人が努力する部分は努力してもらうとして、経験しなければ分からないメンタル面や対人コミュニケーションのケアは、「就労」と同じかそれ以上に取り組んでいかねばならない問題である。ので、宜しくお願いします。JAWSの使い方も大事だけど、働き始めてからどうやって人とコミュニケーションを取るか、とか・・・。「無理に笑顔を作る必要はないんですよ」みたいなこともちゃんと教えてね。

TPP(環太平洋経済連携協定)の交渉に日本が本格的に参加してから2回目の会合が、先日行われた。テレビ・新聞を含め大手メディアでは、農業・医療・自動車等の産業に対していろいろと議論されている。だが、ほとんど、いや、全くと言って良いほどに取り上げられないのが「IT業界」である。まぁ、農業や自動車産業に比べると、ITは「日本のお家芸」とは言い難いけれども、本当に議論しなくて大丈夫なのだろうか?米等の関税を死守することも大切だが、ITはどうなの?

いきなり余談だが、軍事の話題をメディアが取り上げるときも、サイバーセキュリティのことはほとんど語られず、従来型の陸・海・空の防衛についてばかりだ。エドワード・スノーデンの件でちょっとは関心を持たれたかもしれないが、日本のマスコミが防衛を議論のテーマにするときは、だいたい離島の話が多い。もちろん、サイバーセキュリティについて全く取り上げられていないわけではないが・・・。

さて話題を戻してTPPのこと。

インターネットで世界が繋がっている今、ITに自由貿易も何もなさそうに見えるが、実際のところ、TPPとIT業界は関係ないのだろうか。疑問に思ったので考えてみることにした。

まず、同じように考えている人たちのブログに目を通してみた。

次に、ニュースサイトも取り上げてみる。ピンポイントでIT業界について書かれたニュース記事は発見できなかったが、関係しそうなものを挙げてみる。

最後に、FAQのサイトで質問している人もいるようで・・・。IT業界の方の回答が乗っています(回答というより期待感みたいな感じだがが)。

これらのWebページは適当にググって出てきた記事なので、きちんと探せばもっとたくさんあるかもしれない。また、日本のTPP交渉参加前に書かれたものが多いので、実は状況が変わっていることもあるかもしれない。

では、取り上げた記事の要点をまとめつつ、私の意見も残しておこう。まぁ私は素人だし、ほとんど思いつきだが・・・。

全体的な私の印象として、「やはりIT業界には影響がない」と感じた。それはネガティブな意味でもポジティブな意味でもだ。

IT業界と言っても、パッケージ製品を販売する会社からSI(システム・インテグレーション)業界、クラウド、ソーシャルサービス、そしてITインフラと多岐に渡る。

このうち、ほとんどの分野はアメリカの企業が大きな市場を占有している。

例えば、ITになじみがない人でも、FacebookやTwitterはご存じだと思うが、アメリカの企業である。Mixiは日本で流行した初のSNSだったと思うが、世界ではぜんぜん流行らなかった(Mixiの場合は世界に出ていく気はあったのか知らないが・・・)。そういう意味では、LINEにもっと頑張って欲しいところである。

また、Windowsといった基本ソフトもアメリカ企業(Microsoft)が作ったものが大変広く使われている。言わずもながら、Google先生も、リンゴちゃん(Apple)も、アメリカの企業だ。インフラ系だと、CiscoとかVMWareとか、多くの企業のITインフラを支える技術はアメリカ企業の技術だ。ちなみに予断だが、私はVMWareを「インフラ」と考えている。まぁ、コンシューマ向けのコンピュータ周辺機器は、国内メーカー(BUffaloとかIO-Dataとか、その他伝統的な日本メーカー)が(きっと)広く使われていることは悪いことではない。

これらの分野で日本国内の企業が世界進出するには、かなり先進的化斬新的な製品・サービスを作る必要がある。そして、これまでの経験から言って、一定程度、政治が後押しして脅威を取り除く必要がある。国産OSのTronがアメリカにつぶされたのはあまりにも有名な話だ。

アイデアに関してはTPPに参加するか否かに関わらず、一般的に言われていることである。故に、TPPに参加したところで状況は対して変化しないだろう。もちろん、今の時点でこんな状態なので、外国から新しいものがどんどん入ってきて日本の業界が脅かされる、といったこともない。それはとっくの昔に起こっている。

だが、一つ。SI(システム・インテグレーション)だけは、国内市場で日本企業の需要が高い。

日本のSI企業は顧客の業務内容に沿って、顧客毎に個別にシステムを作ることが多いし、そういうやり方に顧客である企業も慣れている。一方、アメリカではパッケージ製品に業務を合わせる方式がほとんどだそうである(他の国は知らない)。そのため日本企業は海外製のシステムをぜんぜん使いたがらないし、おかしなことに、優秀な海外製パッケージを日本風にカスタマイズして売ったりもしている(ERPとかね)。

で、SIの業界がTPPでどう変わるかというと、参考にしたブログ記事にあったように、雇用の流動化によって外国人を雇うケースが増えるかもしれない。今でもプログラミング等の製造工程はオフショアすることが多いが、もっと直接的に外国人を雇ったり、逆に日本から外国へ社員を移すこともあるかもしれない。

でも、ぶっちゃけ、それぐらいしか変わりそうなところがない。先ほど述べたように、システムに対するスタンスというか文化が日本と外国で違うので、例えば富士通がフォードの業務システムを作ることはまずないだろう。

仮に日本のSI企業がTPPで変われる、または何かを変えることができるとすれば、それは「公共分野の解放」かもしれない。かなり厳しいようだが、日本政府は、アメリカの公共事業に外国企業も入札できるように緩和を求めているとのこと。すると、アメリカの公共システムを日本企業が受注できる可能性も、0ではなくなるかもしれない。となると、市場が頭打ちになっているSI企業の多くは延命できるかも。

まぁ、望みは薄いが・・・。これに肯定的な要素があるとすれば、アジャイルが流行の昨今でもウォータフォールの優越性を信じてシステムを作る大企業が、日本には多いことだろうか?(どこの企業とは言わないけれど・・・)。ちなみに、アメリカはXPプログラミングとかアジャイルが普通だと思っていたのだが、5割ぐらいの案件は信頼性が求められるので、ウォータフォールも根強く使われているらしい。本当はソースを示したいのだが、どこで読んだ記事だったか、すっかり忘れてしまった。見つけたら載せます。

(でも、日本のSI企業が延命したら、SI企業のだめな体質も延命するということか・・・。困る。)

話が脱線してしまった。

ここで、ようやくアクセシビリティの話。望みは薄いとしても、日本企業がアメリカの公共システムを作れるようになったとすると、アクセシビリティについて真面目に取り組む必要がある。

私は素人なので間違っているかもしれないのだが・・・。アメリカにはリハビリテーション法508条というのがある。この法律により、連邦政府はアクセシビリティ・スタンダードに準拠した電子・情報技術を調達しなければならない(詳細は「米国リハビリテーション法508条―内容と影響―」を参照)。すなわち、連邦政府のシステムを作る企業は、アクセシビリティもやらないといけないわけだ。

日本企業がアメリカ連邦政府のシステムに噛むことはまずないと思うが、TPPで強く要求することで、州政府のシステムに参入できる可能性は0ではない。そして、州政府も、アクセシビリティ・スタンダードに準拠したシステムを調達するのが原則のようだ。これは「米国における情報アクセシビリティ関連の法制度についての調査中間報告」の3-2-2に以下の記述があることからも分かる。

第508条は、直接には連邦政府にのみ適用されるが、アシスティブ・テクノロジー法によって、州政府にも適用範囲が広がっている。アシスティブ・テクノロジー法では、各州はアシスティブ・テクノロジーを普及するために連邦政府の補助金を受けることができるが、主管官庁の連邦教育省は、1999年6月に補助金交付の条件として第508条の順守を必要とする指針を明らかにしている。現在、全ての州がアシスティブ・テクノロジー法に基づく助成を受けているので、州政府もアクセシビリティ基準に従うことになる。

引用元は古い報告書なので、現在の状況はよく分からないが、アクセシビリティの法律・制度は、アメリカにおいて、後退することは考えにくいから、現状と大きく食い違ってはいないはずである。

となると、日本のSIerにチャンスが到来したとき、アクセシビリティ対応のノウハウを持っているかどうかが分かれ目になってしまうかもしれない。

まぁ、実態としては、大手のSIerはアクセシビリティに関するノウハウは持っているだろうから、あとはアメリカの法律に合わせられるかどうか、という話になってくるとは思うけれど。現在でも、日本国内の自治体はシステムの調達要件にアクセシビリティを盛り込んでいるので、そうした仕事でアクセシブルなシステムを作った経験は、多かれ少なかれどの企業もあると考えられる。それを、業務システムに拡大適用するだけだ。

とはいっても、それがなかなか難しい。私はユーザーとして毎日スクリーンリーダーで業務システムを使っているが、「アクセシビリティに対応するには途方もない時間とコストがかかるのではないか?」と思ってしまう。

技術はあれど予算や需要の問題で、今の日本の業務システムは、たいていノン・アクセシブルである。アメリカのように規制する法律はない。日本工業規格の「JIS X 8341」というのがあるけれど、法的規制ではない。

もっとも、アクセシビリティの壁より、システム開発そのもののメソドロジーというか思想の方が、大きい壁かもしれないが・・・。

まぁまぁ、そういうわけで・・・。そろそろ終わりにしようと思いますが。

  • TPPに日本が参加しても、やはりIT業界には大きな影響はなさそうだ。
  • TPPによって外国の公共分野が解放されたら、アクセシビリティの技術は必須となる。
  • ということなので、早めにアクセシビリティの技術と法律を勉強しておくと有利でしょう。アメリカがだめでも、アクセシビリティについてアメリカナイズされるのは時間の問題だと思うので。

あぁ、長かった。お付き合い頂き有難うございました。

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【追伸】
リンク張ったくせにぜんぜん触れなかった、知的財産権や著作権の関連でTPPの影響を受けそうな分野は、結構痛いと個人的には思う。逆手にとってもっともっとサブカルチャーを輸出できないものだろうか・・・。
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FuckしてやるぜBaby!

あぁくそっ!!ったく世の中にはなんて非常識なやつらがいるのだろう。kまったく腹立たしい。一遍死んでみればいいのだ、そんなやつら。

要するにだ、電車の中でゲロを吐くなということなのだ。大迷惑である。ほんと、そんなやつ Fuck yourself!!

何年か前、新宿駅を歩いているときにエスカレーターの降り口にぶちまけられていたトラップにはまって、スッテンコロリンしたことがあった。そのときの方がむかついて、且つ惨めだったとは思うが、それにしても、あんなおぞましいものを踏んでしまうというのは気分が悪すぎる。せっかく有人と会って楽しく飲んだ帰り、かわいいお姉さんと出会って乗り換えを手伝ってもらい、ルンルン気分で帰路に着いたというのに。最後の最後で全てをぶちこわす卑劣なトラップが仕掛けられていたとは思わなかった。平和なこの日本じゃ、電車にぶちまけられたゲロは、戦場の対人地雷やIEDのような破壊力を持つのである。そう、精神的ダメージにおいて。

そりゃね、俺だって学制のときは無茶して、まぁ、公共の場所にトラップを仕掛ける側だったときもあったさ。反省してるよ。でもね、できるだけ被害が少ないところを選ぶだけの理性を持ってトラップを仕掛けた。そう例えば、講演の隅っことか、人通りの少ない道路脇とか、駅の便所とか・・・。電車の中はいくらなんでもねえよ。そりゃね、GW中ですしね、利用客も多い。まぁ土曜日の朝の電車にはそれらしい痕跡が残っていることだって通常でも多い。しかしだね、普通だからって容認していいもんじゃないだろう。いやまぁ、だいたい吐くほど飲む時点でもうだめなんだが、吐くにしても最低限のマナーをだね・・・。

あぁやってられん。まったく、糞だ、屑だ、かすだ!!FKKだ痕畜生!

最近ゲームネタばっかりなので違うことでも。

ちょっと前に「かわいい女って何?」っていう議論を酒の場でした。これは非常に奥深い話だ。

普通「かわいい」ってのは見た目のことを言う。が、全盲の場合は「声」のことを言う。「かわいい」の定義はさておいて、一般的に外見の要素である見た目と声がかわいいならば、その女はかわいいに違いない。

ところが、「性格」い対してかわいいを主張する人もなかにはいる。これも個人の主幹が入るところなので今はかわいいという定義はしないでおくが、私としては「性格がかわいい」ってのは「おちゃめだ」とか、そういう観念のことだろうとして議論を進める。ちなみに「見た目がかわいい」ってのは、「鼻筋がいい」とか「目がぱっちりしてる」とか、声がかわいいってのは「声が高い」とかっていう要素がいろいろあって「かわいい」と判断されるってことでここでは議論する。

で、「かわいい女って何?」と。全部とは言わないが、本当にかわいい条件は、上記の三つ「見た目」「声」「性格」の3側面が全て満たされるときではないかと考えられる。と有人に言ったら「てめぇ理屈っぽすぎる」と怒られたけれども、じゃあお前えらかわいいって何?と聞いたところ。

「やっぱり貌がいい女だよ。」
「俺は全盲だから声がいい女がかわいいと思うな。」
「声は確かに全盲にとって重要な要素だけれども、実際に接してみて性格がかわいいなぁって思ったら、声はあんまり関係ないよ。」

ということらしい。最後の意見は、貌に対しても当てはまるだろう。いっちゃなんだがブスの女でも、中身がよければ問題ないってことだ。「美人は三日で飽きる。ブスは三日で慣れる。」ということもあるし・・・。

けれども、実際全部がそろってると感じる人なんてそうそういない。典型的なのが「貌は綺麗なのに声がドスの効いた低い声」って場合もあれば、「声は高くていいけれども貌が・・・」ってことがよくある。まぁ、声優の貌をみるとそう感じることが時々あるようなのだが・・・。

ここで、俺の個人的な感想なのだが、「貌が良くて声はだめな女の方が多い」という印象がある。俺が「この個はだめだなぁ」と思っている子に限って友達からは「あれはやばい」と止められたことが何度もある。しかし「声がかわいい子にはそれなりに貌もかわいい子が多い」というパターンは比較的多い。俺がいいなぁと感じた女の子は、有人も「あの子ならいいんじゃねえの」と言っていたことが8割ぐらいはある。まぁそれでも、やっぱり声は良く立って貌がだめな子はいるのだが。

結構この仮説には自信があったのだが、AVになると自体は急変する。大学時代、キャンパスを歩いているときに「あの子かわいいよ!!」といいながら、上記のように俺の好みを客観的に判断してくれていた友人とAVを見たときの話。

俺が気に入っていたAV(全ては女優の声とタイトルだけから判断したもの)を見せたところ「お前の趣味が分からなくなったよ」と言われた。そりゃまぁ、AVって、貌とか体つきにしか興味いかなくて総合的に判断できないメディアだてのは承知の上だが、結局「声がかわいい」のも当てにならんのだなと、思った次第でありました。

さて冒頭の「かわいい女」とはどういうことかに戻ろう。で、「見た目」と「声」がそろっていたとして、後は性格だ。性格は実際に対象と接触してみないと判断できないことなのだが、一般的に「人は見た目によらない」というように、外見がかわいいからって性格がかわいい(良い)とは限らない。外見は良くても「ブリッ子」なやつ、外見はかわいくても「チョーむかつくんだけど!!あいつ死ねばいいわ~!」とか言うやつ、人間ってのは多種多様である。少なくとも、俺の感覚では前述の2パターンは糞だ。

で、書いてここまで書いたのはいいけれども、別に言いたいことがあったわけでもないし、眠くなってきたからもう書くのをやめようと思う。のだが、結局、全部がそろった女なんてそうそういない。なぁ。ほんとに。

前にも書いたが、最近時間に余裕があるためゲームを作ることにした。プログラミングも最近やってなくて何かやりたいなぁと思っていたし、もっと大きな理由としては、日本人の視覚障害者(とりわけ全盲)が遊べるゲームが多くないことがある。海外ではオーディオゲームというカテゴリで製品まで出ているが、日本ではなかなかそういうことまでいかない(セガサターンの「リアルサウンド~風のリグレット」とか、PC用の「インベーダー」とか、無くはないが)。日本製のゲームの少なさには他の人もいろいろ考えているようで、近年は全盲でも遊べるPCゲームを作る日本人も増えており、だんだんと状況は改善されてきているようにはみえるが、やはり一般のゲームの多様性に比べるとまだまだである。

で、まぁ日本での事情はともかく、プログラミングが好きな私としても、こうしたものを作ってみたいとは前から思っていたのだがなかなか時間が取れず、今まで過ぎ去ってしまった。けれども、過去を振り返るとそういうことは他のことでもたくさんあった。なので、せっっかくだから「作ろうと思ったから作るか」という気になったわけである。

現在はRubyでゲームを書いている。「最初はシューティングゲームが簡単」とネット上のあちこちで書かれていたので、俺もそれに習ってシューティングゲームを作っている。

初めはHSPという言語を使って書いていた。ゲームプログラミングに向いていることと初心者でも扱いやすい言語という評価が多かったからだ。

確かにHSPは簡単である。ぶっちゃけ、何も考えないでプログラムを作ることができる。私も、最初は何も考えずに簡単なシューティングゲームを作製できた。

ところが、いろいろと機能を盛り込んでいこうとすればするほど、言語使用レベルでの技術的困難を感じるようになった。一番の原因は、HSPは手続き型であるのに対し、俺がイメージする設計がオブジェクト指向になっていることである。もう一つ、HSPでもオブジェクト指向風にプログラムを書けるが、完全なオブジェクト指向ではないのでいろいろと気に入らない点我あったのだ。

例えば、プレイヤーに関してプログラミングすることを考える。プレイヤーには「名前」や「HP」、「位置」などの属性があって、「動く」とか「弾を撃つ」などの動作がある。これらの属性・動作というものをプログラミングするだけならば、手続き型言語でも大した事はない。属性は構造体、動作は関数として作ればいいだけの話だ。

ところが、HSPにはまず構造体のような抽象データ型がない。入門サイトを読んでいると、名前やHPを表す配列を作って、配列の要素番号でどのプレイヤーか判別しているような設計をよくみた。まぁ、入門者にはこの方が分かり安いだろうなと思いつつ、現実的なゲームを作るには問題が多い。そこでモジュールという機能がある。モジュールを使えば、HSPでも構造体っぽいものは作れなくはないので、属性に関してはとりあえずOKとする。

次に動作について。手続き的に作るのなら、「動く」や「弾を撃つ」などの関数を作って、引数にプレイヤーのデータを渡してやれば、処理を実装することが可能である。HSPのモジュールを使えば、そのモジュール内で使える関数を定義できるので、これでOKかと思いきや・・・。実際に作ってみると、モジュール内で定義した関数であってもパブリックな関数になってしまう。これは言語仕様らしくどうにもならない。俺の概念では、モジュールなどは名前空間を定義してデータやメソッドをカプセル化できるのが当然だと思っていたので、まずこの仕様がきにいらなかった。プレイヤーだけならまだしも、敵とかアイテムなんていう要素を導入したら、それぞれに対して関数を作らねばならないじゃないか。いやまぁ、オブジェクト指向だってそうなのだが、スーパークラスを作っておけば、振る舞いの違うメソッドだけオーバーロードすればいいじゃん。

このようにHSPの言語仕様に不満を持ってしまったため、使用2日にしてHSPを使うことはやめたのであった。ついでにいうと、goto命令がさも便利な命令として各所で取り上げられていることも気に入らなかった。当然goto命令を使わないでプログラミングすることもできるが、HSP公式のチュートリアルでgoto を使ったサンプルが普通に提示されていたことで、個人的に「やめろ!そんなもんコードが読みにくくなるだけだ!」と嫌悪感を抱いてしまったので、どっちにしてもHSPを使わなくなる運命だっただろう。

そういうわけでRubyなのだ。オブジェクト指向であるのが最大の理由だが、もう一つ、Rubyでゲームを作っている人がいたので、「じゃぁRubyにするか」と思った次第である。

Ruby自体、ゲームを作ろうと思って初めて勉強した。けれども、以前Pythonをやっていたおかげで、文法や式の書き方はあまりちゃんと入門書を読まなくても理解できた。細かいことを知りたくなったら言語リファレンスを見ればいいやという感じだ。余談だが、Rubyは日本人が作ったプログラミング言語なので、日本語の情報が多くて助かる。Pythonをやっていたころは、チュートリアルと言語リファレンスぐらいは日本語訳があったけれども、バージョンが古かったりして結局英語で読むはめになって苦労したものだ。まぁ、技術英語を読む訓練にはなったが。

というわけで、キャラクターの設計も楽だし、dxrubyっていうライブラリでDirectXも使えるし、最近Rubyがお気に入りである。まぁ、実際のゲームを作る過程ではいろいろ悩むことはまだまだ多いけれども。

現象学

最近の俺の疑問は、どうやら現象学というものを学ぶ過程で解決しそうだ。あまり良く分かっていないのだが、「客観性をどう証明するか」という哲学的な問題に対して答えを与える考え方らしい。が、現象学の基礎としてカントまでの考え方をあれこれ総合することで、極端な解釈では「社会は相対的である」という結論に達するらしい。ただ、実社会は必ずしもそのような構造にはなっておらず、例えば「死ぬ」という概念は全人類に共通である。このように、共有された概念や事実をどううまく説明するか、という問題に対してある種の答えを与えるのが現象学ということのようなのだが・・・。

そして、入門部分で、上記の「客観性の証明」において、「主幹と客観」という観念を捨て去らない限り、論理的に客観性を証明することは不可能である、との記述があった。これは直感的に理解しやすかったので、個人的に共感を覚えたというのもある。良い例がコンピュータのプログラムで、あるプログラムが正しいことをそのプログラム自身が証明することはできない。プログラムが正しいことを証明するプログラムがあったとしても、その証明プログラムの正しさを証明するプログラムが別に必要である、という具合に、「正しさの証明」は永遠に続く。ゲーデルの不完全性定理でこれは周知の通り。

そういうわけで、現象学をかじってみようと思う次第。その前にデカルトやカントを勉強した方がいいかもしれないが。ただ、哲学って抽象的で、有名な文献は日本語訳された時代が古くて読みにくいし、だからと言ってヨーロッパの言語を勉強してまで本を読む気にはなれないし・・・。

相対的だね~

物事は相対的だと、俺は思うのだ。絶対的なものなんて、この世に存在しないのではないか。

直感的に分かるものとして、人間のあり方ってのは非常に相対的だ。例えば、「どんな人間になるかは環境の影響が大きい」と言われることが多い。これは分かり安い例だ。環境なんてものは両親の性格や居住地域、周辺住民との繋がりなど人によってばらばらだし、変化しうる。従って、他人の環境と自分の環境とか、過去の自分の環境と今の自分の環境、といった意味で相対的である。

で、突き詰めていくと、抽象的な概念っていうのも結局は相対的なのではないか。分かり安いのは「価値」だろう。商品の価値、お金の価値などいろいろな場面で「価値」という概念が用いられるが、何かと比べるから価値が決まるのであって、価値が絶対的に決まることがあるとすれば、むりやりな論理に過ぎるだろう。。例えば商品でいうならば発売されて時間が経つと市場価値は低いと見なされるし、、流通量が多いのに需要が少なくても価値は下がる。金だって一国の中では絶対的な価値概念だとしても、多国間ではその価値は相対的で、常に為替レートは変化しているのだ。金本位制が崩壊し、ドルと円だって教科書に載るほど昔に変動相場制となったのである。

他に「関係」という概念も相対的である。「関係」という概念自体が、二つ以上の物事を対象とする概念だから、定義からして相対的なのだ。

これらの概念を持つ人間という生き物は、価値や関係、その他の諸概念を以て社会を形成し生きている。シンプルに考えれば、相対的な物事で構成されているものも、また相対的であろう。

もう一つ。自然も実は相対的であると思う。ちょっとかじっただけなので間違っているかもしれないのだが、例えば物理現象。電車に乗っている人と、その電車を外から見ている人のことを考えて見ると、電車は動いているから、外の人からは中の人は動いているように見えるが、電車の中の人は自分が止まっているように思えるだろう。常識の範囲で、窓の景色を見て動いていることを自覚することはあるが、純粋な物理の世界としては、前述のようになる。これは慣性系という考え方に基づくものだと、確か思ったけれども、とにかく「電車に乗ってる人」と「電車を外から見ている人」の二つの系では、運動の様子が違った形で観察されるのである。これは日常生活に近い例だったが、アインシュタインの相対性理論で説明されるように、宇宙の世界もまた相対的なのだ。

ただ、自然に関していえば、数学的な論理や物理の諸法則は、今のところ絶対的かもしれない。良い例が各種の自然定数である。自然対数の底(e)、プランク定数、ハッブル定数、光速度など、世界を決めていると言っていい定数は普遍である(だから定数なんだけど・・・)。また、様々な物理現象は数式として表すことができ、それらは自然を説明するのに不可欠な要素である。表現の仕方という意味では人間の都合のいいようにされているけれども、その本質は変わらない。まぁ、仮にパラレルワールドで別の宇宙が存在しているとすれば、全部相対的っていうことになるんだろうけど。

そういうことをだらだらと考えていた結果、この世は次のようなモデルで考えることができるのではないかと思った。「この世は、絶対的な自然的諸法則を土台として、相対的な事物で構成される」。

ここ2,3日、そういうことばっかり考えていたのだが、俺が2,3日考えて思いつくことなんだから、とっくにそういう考え方があるんじゃないかと思って検索してみたら、「文化相対主義」という考え方があるそうな。そりゃそうだよな。というか、みんな、きっと「社会は相対的だ」ってことに気づいてるはず。だからこそ社会を構成する経済活動も相対的な概念を土台としているし、いろいろな制度も広くみれば相対的である。そんな社会で「社会は相対的だ」って俺が思っても、別にぜんぜん新鮮な発想じゃなかったのかもしれない。

それでだ、研究者でもないのにこんなこと考えて無駄だとは思ったのだが、つい考え込んでしまい自分的には結果も出たので、どうにかして実生活に応用できないものか。まぁ、大枠のモデルだけ考えたから、実生活に応用にはもっときちんとしたサブモデルを検討する必要があるとは思うけど。

ちなみに何故こんなことを考えたかというと、「屍鬼」という小説を読んだからなのだ。もともとアニメで見ていたのだが、面白くなってきて途中が気になり、結局途中から小説を読んだという次第。相対主義がテーマじゃないとは思うのだが、「いろいろな意味で人間は一人では生きていけない」という性質を表現していると思った。

久しぶり。最近、「けいおん」と「Angel Beats!」がマイブーム。聴く曲が「ガルデモ」とかになってきてるし・・・。いや、「VERSAILLES」という人たちも、日本人としては案外イケテルと思った次第で・・・。

ところで、これも最近の話だが、たぶん俺は「をた化」が進んでいく模様である。つい、プリメインアンプを買ってしまった。

もともと夏のボーナスで「Black Cube Stamp」を買う予定だったのだ。BCLを持っているから、セットでスピーカーを鳴らせるシステムとして、BCL+BCSが現状での最適解かと思い・・・。ところが、BCSは本国で現在生産が中断されていて日本に入荷するのも全くの未定だそうで、ぶっちゃけ「とほほ」なわけ。

それで昨日、友人がイヤホンを取りに行くのにつきあったとき、その友人がショップの店員に余計なことを吹き込んだらしく、何故だか知らないが自宅へプリメインアンプを発送する手続きをしてしまっていたのである。っていうか、BCLをプリアンプとして使うのにプリメインアンプを買うのもどうなのかと思いつつ、普通にセパレートでやるんだったら予算オーバーになるので、「パワーアンプへダイレクトで出力すりゃ別にプリメインでもいいのでは?」的発想が生まれ、結果こういうことになっているのだが・・・。

で、今俺の目の前に鎮座しているのは、PMA-2000SEというデノンのプリメインアンプ。現在の構成は下記の通り。

  • 基本音楽はPCで再生(当然ロスレス)
  • PCとBCLをUSB接続
  • BCLとPMA-2000SEを接続し、パワーアンプダイレクトで使用
  • スピーカーはB&Wの705、スピーカーケーブルはキンバーのやつ
  • 電源ケーブルは、BCLにPSAudioのXPD1.8、PMA-2000SEにオヤイデのケーブル。

とりあえず、以前はアイコンをプリメインで使っていたのだが、それに比べるとボーカルの輪郭がはっきりした。そして、全体的に音に厚みが出た。しかしながら若干高域が曇った感じになり、さらに繊細さに欠ける音になった気がする。やはりデノンだ。ポップスとかジャズを聴くならまだしも、これでクラシックは聴いてはいけない。・・・というほどでもないが、まぁ、クラシック向きじゃないアンプだろうと予測してPMA-2000SEを買っただけあり、それは証明されてしまった。

当初は電源ケーブルをBCLと2000SEで逆に繋いでいた。しかし、オヤイデのケーブルは音が柔らかくなる分低音がぼけるというデメリットがあるため、プリアンプに堅めの音が出るXPD1.8を付けることにより、とりあえずは安っぽい低音が出ないようにはなった。

そういうわけなのだが、ひょっとしたら今の俺の機器構成ってあんまり良くないのかもしれない、とか思いつつ・・・。2000SEにはIkonというスピーカーが非常に愛唱良いらしいのだが・・・。いやいや・・・。

ちなみに酔ってる。なんか、物を書く気になる酔っぱらい方だ。さっき、Angel Beats!を見て号泣してしまったからなのか、いや・・・ちょっと、ハロウィンって感じだ。そう、カボチャを切断したときの切断面みたいな顔してる女がいたらすごいな、と、ちょっとだけ、ちょっとだけ想像しただけなんだ。

さらに余談だが、何故ゆりっぺはM92Fを使っているのか?レビのまねか?「ハンドガンならとりあえずベレッタかグロックにしとけばいいんじゃね?」的発想が Angel Beats! からは読み取れちゃう俺。どうせなら、M4とかAK47とかMP5とか使えよ!そもそも狙撃手がいないってどういうことだ?全員ポイントマンか?っていうか、銃を使った戦闘って時点で現実感あふれまくり。もっと、魔法とか使えばいいのに。まぁいいや。

それでは、トイレに行ってくる。

目的と手段

だいぶ堅い話になるが。

会社でよく「目的を考えろ!手段にこだわるな!目的のためなら手段を選ばず、という言葉もあるだろう」みたいなことを言われる。でも、なんか、俺は納得できない。何故だろうと考えてみた。

結論をいうと、以下の3点の理由により、俺は納得できない。

  1. 定量的に、目的よりも手段の方が圧倒的に多数であるから。
  2. 手段が目的化する場合が少なくないから。
  3. 目的を達成するための「正答な」手段が存在すると思うから。
  4. それぞれについて説明する。

    まず、「定量的に、目的よりも手段の方が圧倒的に多数であるから」という理由。例えば「アニメを見る」という目的に対して、その手段は何通りも存在し、それは「テレビで見る」「DVDで見る」「ネット動画配信で見る」などである。そして、さらに例えば、「テレビで見る」に対しては、それを「テレビの電波を受信する」に置き換えれば、「テレビ(家電)で受信する」「PCにテレビキャプチャを付けて受信する」など複数の手段が存在する。このように、元の目的に対して、それを実現する手段は複数あるため、目に見えるものとして「手段」が顕在化しやすいということだ。つまり、顕在化しやすい=意識しやすい、ということであって、目的よりも手段が優先されてしまう一要因である。

    次に「手段が目的化する場合が少なくないから」という理由。上記の例でいうならば、「アニメを見る」という目的に対して「テレビで見る」という手段を選んだ場合、次に考えるのは「テレビを見る」という目的に対して「家電で見る」か「PCで見るか」の手段を選ぶ。これは手段が目的化する一例である。

    また、別の例を挙げると、「アニメの得点を見たい」という目的に対して、最近では「ブルーレイでないと得点が付いてこない」という場合がある。これはつまり、手段として「DVD」や「ブルーレイ」などのメディアを選択できるにも関わらず、「ブルーレイ」でないと目的が満たせない、という状況が起こる訳で、すなわちそれは「手段の目的化」である。「アニメの得点を見たい」という目的が「ブルーレイで見る」という目的にすり替わっているからだ。

    最後に「目的を達成するための「正答な」手段が存在すると思うから」について。極端なことをいうと、「石油を手に入れたいという目的に対して、他国と戦争するという手段を取る」のは正答だろうか?「お金が欲しいという目的に対して、他人から金を盗む」というのは正当な手段だろうか。それぞれ、「他国から石油を輸入する」、「働いてお金をもらう」など、社会通念上「目的に対する正答な手段」があるはずだ。

    これまでの説明では、「仕事(業務)」において些か拡大的視点が含まれていることは否定しないが、「仕事(業務)」も社会の一つの営みであるのだから、現実を踏まえて考える必要はある。だから、それを体系的に整理したのが規則や法律なのではないだろうか。

    もう一つ、ここでは政治的・社会的な「思惑」が介在した結果については考慮していないことを断っておく。具体的には、ブルーレイの例なんかは、たぶんメーカや関係団体の市場占有や売り上げ拡大などの思惑が多々あるものと思うが、それは抜いて、個人としてどうか、ということについて述べている。

    と、「興味本位でBlu-Rayドライブを買って、得点に釣られてアニメのブルーレイ・ディスクを買いあさっている俺」を客観的に見たとき、ちょっと思ったので書いた。説明はともかくとして、結論は基本的にその通りだと、俺は自負しているのだが・・・。

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結論の出ない駄文を残すことが趣味です。ついでに頭でっかち。
視覚障害(全盲)です。誤字脱字は、どうぞご勘弁ください。

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