これに対する答えはシンプルだ。「やつらは何を考えているのか凡人には理解できない。」

10年ぐらい前までは、哲学の学会はフランス語が一般的だったという。そのころ、やっと英語でも発表して良いという雰囲気になってきたとか・・・。大学の哲学の教授が言っていたんだから間違いないだろう。

まあ、考えてみれば、フランスとかドイツの哲学者がいだいだったもので、そんな知的な人々に、わざわざドイツ語の方言とも言える英語を話させるのは、はなはだプライドを傷つけられるものだったんだろうと、なんとなく思ったりするわけだが・・・。でも、デカルトにせよ何にせよ、フランス人なんだから、哲学をフランス語で勉強するのは理にかなってる。

で、俺から言わせると、哲学と数学はほぼ同義語というか、数学者は哲学者であり、哲学者は数学者であったわけなので、形式的な操作においては哲学者もなかなかだと思うのだけれど。その哲学が日本語として訳されたとたん、訳の分からん言葉の羅列になってしまうことが不思議でならない。

まあ、プリンキピアですら、その原著に数式は出てこず、文章で説明してあったというのだから、形式論を重んじる文化は、17世紀ごろにはきっと無かったんだろうなあという憶測は成り立つわけであるが・・・。それにしても、どこのどいつだ、 ma=F なんて数式を書いたのは?

確か、学生時代の友達が、ハーディにすごく興味を持っていて、・・・いやいや彼は整数論をやっていたわけでもないのだが・・・。ハーディの一番の欠点というか最悪なところは、「なんでそう思いついたのかを残さなかったことだ」と聞いて、つくづく数学者ってのは変わったもんだと思ったものだ。ハーディではなかったと思うような気がするけど、とにかく、起きている間は自室にこもって、ひたすら数学の何かの問題を考え続けていた数学者なんぞ、ざらにいるもんだから、昔は世の中良い時代だったんだなあとは思う。

ポスドクですらちゃんとした職につけず、研究もままならない今、きっと行き過ぎた至上主義経済がアカデミックな分野に悪い影響を及ぼし、本来、基礎的・あるいは応用的科学技術が発展してもいいところを、無意識的に国が押さえ込んでいる。これは大変ゆゆしき問題でアル。だから優秀な人は海外へ行っちゃうのよ。別に日本を保護したいわけじゃないけど、でも、結局僕は日本で生きるしかない気がするので、日本には健全な発展をしてもらいたいと、説に願うものである。