先日「マタニティ・ハラスメント」が問題になっているとテレビの報道で知った。電車内で差別的な言動を受けるケースもあるようで、根深い問題と言うことだ。

詳しいことは以下の記事に書かれている。

マタニティハラスメントの恐い実態 電車内でヒジ鉄を受ける例も

私はこういった差別的な言動に対して批判的な立場であるが、事はそう単純な問題ではないのかもしれないと、ふと思ったので、以下にその詳細を書く。

そもそもマタニティマークとは、上記の記事に依ると「妊婦の安全性と快適さの確保を目指し、厚生労働省が2006年から始めた取り組み」とのこと。妊娠初期など、見た目では妊娠していることが分かりにくい場合に付けるようだ。

この取り組み事態の是非はともかくとして、マークを付けるという行為は「シンボライズ(記号化)」である。シンボライズすることで、前述のように安全性確保の必要性を他者に伝えることができたりする一方で、差別的な言動の引き金にもなり得る。これが問題だ。

こういうことに敏感なのは、私が全盲で、外出するときは白杖を持っていることにより、常にシンボライズされた状態にあるからだと思う。白杖というシンボルがあるからこそ、周囲に自分が全盲であることを理解してもらったり、サポートが必要な存在であることを認識してもらえるのである。だが、同時に、それは周囲の人々に「自分とは違う存在である」ということを印象づけていることにも他ならない。だからといってシンボルを除去すれば、サポートが必要なことを分かってもらえない。ジレンマだ。

ところで、私が学生だった10年ぐらい前、とある授業で「プロップステーション」という障害者就労支援施設のドキュメンタリービデオを見たことがある。私はあまり詳しくないけれど、有名だそうなのでプロップステーションをご存じの方も多いかと思う。ちなみにWebサイトもあった。

社会福祉法人プロップ・ステーション

そのビデオの中で代表の人が次のような趣旨の発言をしていた。「障害者はシンボライズされていることで追加のハンディを負っている。そのシンボルを取り払うことで、障害者とか健常者といった区別を無くし、ノーマライゼーションを実現したい。」

申し訳ないが10年ぐらい前のことなので、ひょっとしたらうそを書いているかもしれない。その場合は教えてほしい。

で、私はこの意見について、前半部分には賛同できるが後半部分は少し違った考えである。確かに、先ほど私がシンボライズについて述べたように、シンボルを取り払って区別を無くすことは、障害者と健常者の双方が「同じなんだ」と思う切っ掛けになるかもしれない。でも同時に、本当は必要なサポートがあるのにそれを理解してもらえない危うさもある。私は、障害者と健常者が互いの違いを理解し合い、必要な支援を自然に行えるような社会を作ることが、ノーマライゼーションだと考えている。

そして、その「違いを理解する」ための手段としてシンボライズをするかどうかは、物理的な安全性などを除き、本人が自由に選択できるべきだ。まあ、視覚障害社は安全性の面でシンボライズが必須なので、それは大変残念なのだが・・・。

ただ、ここが難しいところなのだが、先ほどから何度も繰り返しているように、シンボライズには理解を促進するというメリットと、区別を促進するというデメリットがあり、このバランスがとても難しい。そして、そのバランスによっては、シンボライズした方が良さそうな当事者がシンボライズを拒否することによって、本人がいろいろ困ったことになる可能性もある。また、大人は経験的にシンボライズするかどうか判断できるかもしれないが、子供はシンボライズするかどうか判断が難しいと思うので、親が適切な判断をしないといけないという問題もある。

だんだん面倒になってきたのでそろそろ終わりにしようと思うのだが、抽象論として考えただけでも「シンボライズ」と「ノーマライゼーション」を以下にバランスさせるかはすごく難しい問題で、それは障害者についてもマタニティにとっても同じことなのではなかろうか。

あと、最後に一つだけ。

障害者もマタニティもだけど、「シンボライズしなければならないことが問題」と主張するのは簡単なことだが、そんな社会を変えていくのは、正直すごく難しいこと。だからといって何もしないのも問題なんだけど、とりあえず、世の中の皆さんには、是非想像力を磨いて頂いて、差別的な言動を受けたり、「違うもの」として扱われる人の気持ちを考えてみてほしいです。はい。

※結局「ノーマライゼーション」という言葉を題名に入れたけど、あんまり意味なかったかもしれん。