言葉と言うのは表層的なものだという印象があるけれど、実は物事の本質を表すツールともなり得るものだ。

ある言葉が、物事の表層を表したに過ぎないのか、あるいは本質を捕らえたものなのか・・・、それは個別の問題なんだとは思うが、それって結構大事なことなのではないだろうか。

なんでそういうことを考えるかというと、切っ掛けは「イスラム国」なのか「ISIL(またはISIS)」なのか?という最近のメディアの議論を見ていてふと思ったからである。この件については、多くのメディアは(いろいろ記号が付いたりするけど)今のところ「イスラム国」という呼称を使うことが多いようだが、実態は国家でもなければムスリムも少ないので、偏見を助長する名称だという主張がある。一方で、突然呼称を「ISIL」にしても、視聴者は理解できずきちんと伝わらないのではないかという懸念もある。そういう感じで、今中東を中心に活動している過激は組織をどう呼ぶか、議論があるようだ。

で、私の身の回りにも似たようなことはあるなあと思ったのである。

例えば「チャレンジド」っていう呼び方。これ、障害社を表す一種の言葉なのだが、意味としては「神から試練を与えられた者」というニュアンスがあるらしい。欧米で使われる言葉だし、キリスト教的な感触がひしひしと伝わってくる言葉だが、はっきり言って私は大嫌いな言葉だ。いや、キリスト教的観念では試練って身近なのかもしれないが、与えられちゃった方にとってはたまらない。望みもしないチャレンジを強いられた身にもなってほしいなと思う。でも「disabled」と呼ばれるか「challenged」と呼ばれるか、どっちがいいかというと、まあ微妙かもしれない。

あと、日本語の問題では「障害」と書くか「障がい」と書くか・・・という問題もある。前者は全部漢字で書く表記で、後者は「害」を「がい」とひらがなで書く表記である。「害」という漢字から受ける印象が良くないということで、最近「がい」とひらがなで書く「障がい」という表記は広まっているようだけれど、ぶっちゃけ何か変わるのだろうか?細かいことを言う人にとってはこの漢字は気に入らないのかもしれないが、実質的に表記を変えたところで印象が変わることはほとんどないと思う。

これらの例を考えると、個人的には、発音が異なるレベルの言葉の変更は、印象を変える効力があるかもしれないという気がする。善し悪しはともかく、確かに「イスラム国」と「ISIL」じゃ、後者の方がイスラムだという印象は少ない(Isramic Stateの略だとかいうことは置いておいてだ)。

っけっきょく何が言いたかったかというと、特に言いたかったことはありません。

以上。