重い話になるが・・・。

「神様は試練を乗り越えられないひとには試練を与えたりしない。」

このようにおっしゃる方は結構大勢いる。私自身、生活していていろいろサポートしてもらったときに、そう言われることがある。なお、この場合の試練とは「障害を負うこと」である。

まぁ、言いたいことはいろいろあるが、神の存在とかは認めるとして、「何故試練を与えるのか」ということと「乗り越えられる、乗り越えられないはどういう基準なのか」ということがすごく問題だ。

人間、生きていれば多かれ少なかれ、だれだって辛いことを経験する。そして、それは自身が引き起こした必然的な事象もあれば、他人や、もしくは自然のように人間が介在できない要因で引き起こされた事象もある。例えば、不注意で地面の石につまずいて転んで骨折することもあるだろうし、地震で倒壊した建物の下敷きになることもあるかもしれない。上司からパワハラを受けて自殺したくなることもあるかもしれない。

これ以降、しれんを、このように「一般的に辛いこと」として話を進めていく。

で、「神様は試練を乗り越えられない人に試練を与えない」という言葉について。

まず、「何故試練を与えるのか」という疑問。試練とは辛いことなのだから、宗教的な観点では「罰を与える」ということになる。すると、試練を与えられた人間は罪を犯したということか?殺人犯が障害者になるならともかく、生まれながらの先天性の障害者も何か罪を犯したというのか?そんなことはないだろう。だから、「罰を与える」という意味での試練は筋が通らない。

ただ、セクトというかカルト教団なら、「前世で犯した罪が現世に影響しているから清めなければならない」とか、訳のわからない理屈をこねて金をむしり取ろうとするのだろうが・・・。そうやって、金を納めたのに息子が死んでしまったお母さんはどうしたらいいんだろう。自業自得といえばそれまでだが、健常者の息子を持つ親が客観的に思うよりもずっと重く、障害を持つ親は悩み苦しみ助けを請う手いるのだ。「自業自得」の一言を持ちだして「耐えろ」とか「甘えるな」とかいう人がいたら、まずはその人自身が、子供を失ったりしてみたらいい。人の気持ちを想像できない人間に生きる価値はない。

話が反れてしまった。

「罪」が理由でないのなら、試練を与える理由を他に求めなければならないのだが、私が暇にまかせてつらつらと書いている範疇では、理由が思い当たらない。めんどくさくなってきたので次にいこう。

次に「試練を乗り越えられるか否かの基準」について。「試練を乗り越えられない人には試練を与えない」のなら、神様には(きっと)何か基準があるはずだ。気まぐれで割り振られてるとしたら今すぐ神を殺しに行きたいと思うが、神様なので、(きっと)ピッコロ大魔王のように点から地上をのぞき見していろいろ考えて下さっていることであろう。

でも、次のようなことを考えると、本当にそんな基準があるのか、非常に怪しい。

これは、少し冒涜的なことを書くことになるが。例えば人間として生まれてきたのに、先天性の障害を持っていて、身体も動かせず言葉もしゃべれず、人間の尊厳が存在する状態かどうか怪しい子も、世の中にはいる。例えば、津波がきたときに同じ場所で何かにしがみついていても、流されて死ぬ人と流されず生き残る人がいる。これはいったい何の違いによるものなのか。

ただ、思った。もし、先に述べた「罰を受ける」という観念を持ちだすと、あっという間にこの難題は解決する。「重罪犯は生きながら苦しめ」、「それなりの罪を犯したのなら今すぐ死ね」、「罪を犯していないのなら救ってやる」。なんともキリスト様様な観念だ。あれあれ、なんか、もやもやしていたのがすっきりしてしまったぞ。

というわけで、かな~り酔っぱらいながら考えた結論。「試練はやっぱ罰を与えることです」。なんか、すごく残念だなあ。

だったら今すぐ神を殺しにいこう。神を殺せばこっちが法だ。神が決めた法は、神がいなくなれば法で無くなるはず。よし。世界に革命を起こそう。革命の同志たちよ、プロレタリア革命実現のために、今すぐこの赤の布を腕に巻いて決起しようではないか!!

⇒非常に危険な思想。なんか、書き始めたときはぜんぜん予測していなかったのだけれど、意外なところで新左翼の人たちの思考が分かってしまったよ。そういう意味では、俺だけにとって有意義な文章だった。

あぁっと、最後に一応本筋に戻っておきたいのだが・・・。

いろいろ考えて、演繹的?に結論は出したけど、私の感情としては、「こんなもんただの言い訳だ」。「神様は試練を乗り越えられない人に試練を与えたりしない」というのは、どうしようもない状況に合理性を持たせるための呪文に過ぎない。または、相手を励ますための定形的な文言以上の意味はないと考える。

この辺は、障害を持ちながら生きている人や、被災した人などの話を見聞きしていて感じることだ。重要なのは、試練を乗り越えたか、あるいは現状乗り越えたように見える人が露出しているのであって、乗り越えられずに自殺してしまう人も、自殺でなくても亡くなってしまう人も、大勢いるということだ。もちろん、うそかもしれない、私は統計を見て話しているわけではないので。

ただ、実際、乗り越えられた人なんかいるのだろうか。少なくとも、被災したり、中途で障害を負った人が、それらの試練を乗り越えてなどいない気がする。割り切っているか、意図的に忘れているか、どちらかではないのか?先天性の障害を持っている人についても、その障害が壁になることを認識したその日から、乗り越えられない壁の前で立ち止まることになり、う回路を探す必要性を感じることだろう。

なので、やっぱこの文章は特段有意義でもなかったかも。まぁ、時間を浪費できたということで良しとするか。ちなみに、エレン・イエーガーを思い浮かべながら最後の部分は書きました。