ツイートもしたけど、最近次の記事がヒットだったので、私なりの見解も残しておくことにする。ちなみにこの記事を評価しているわけではなく、この記事が考えるきっかけになったので、とりとめもなく考えたことを残しておく、という感じである。

「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人について | 熊代亨

私なりの結論は、「自分が決めたことは、少なくともその時点で、自分にとって正しいことと信じるべきだ」。

取り上げた記事にもあるように、時代によって正しさや価値観は変化する。これは揺るがない真実だと思う。問題は、時代にそぐわない価値観を「正しいこと」と信じたまま行動してしまうことだ。

私は子供のころ、親から「公務員になれ、給料も高くて安定してるから」と言われ続け、小学生ぐらいまでは本気でその路に進む気でいた。

ところが、親の価値観は、親が若かったころは正しかったかもしれないが、2013年の今はそうでもない。「無駄を削る」という理由で給料も定員も減らされる一方だ。「安定している」というのも然り、ロボットのように働けば確かに首にはならないだろうが、それで人生楽しいのだろうか?だから、「公務員になる」というのは、今の世の中正しいことかどうか分からない。

別の例として、「障害者は、障害を克服するために努力するものだ」という価値観も、少なからずあるのではないだろうか。これは、障害当事者にも、周囲の健常者にもだ。

昔、障害者は邪魔な存在だった。それが施しを受ける存在になり、今は「共生」するものという価値観に、大きな流れとしては変化している。もちろんそう思ってない人もいるだろうが。その中で、「頑張る障害者」が生まれ、頑張ることを美化するのが大好きな日本人は、それを正しい価値観として受け入れた、ということと、私は思っている。外国でもそうかもしれないが・・・。

ただ、障害者だって「怠けたいとき」もあるし、「小さな親切、大きなお世話」と思うこともある。もちろん、24時間頑張り続けたいと思っている人もいる。けれど、頑張っている人の中には、世の中が押しつけた価値観に縛られている人が少なくないような気がする。自分が頑張りたくなければ、頑張らなくてもいいのに・・・。

ちなみに予断だが、「障害者は施しを受ける存在」というのを痛感したのは、点字図書館で『方法序説』の点字本を借りたときである。その本のはじめに、「不幸にも盲人になってしまったお前らに、国がこの本を恵んでやる」みたいなことが、もっと丁寧な言葉で書いてあった。

さて。

冒頭でリンクを貼った記事では、最後の方でこう書かれている。

案外たくさんの人が、自分自身にインストールされた「正しさ」にそぐわない自分自身に葛藤を抱えている。東京のような、自由度の高い街、思い通りに自己決定できそうな外観を呈した空間では尚更だろう。
少なからぬ個人が「こんなに頑張った私に、正しかったって声をかけてよ」と思っているんじゃないだろうか。なぐさめの言葉を待っているのではないだろうか。ワンルームマンションのベッドの上で。人気の無くなったリビングルームで。
かくあるべし、かくあるべし、かくあるべし、という内なる声に疲れた人達が求めているのは「あなたの正しさは間違っています」ではないようにみえる。「あなたの認知は理不尽です」でもないようにみえる。「あなたはよく頑張った、だからもういいんだよ」ではないか。自分自身の正しさに対する赦しの言葉ではないか。
(※スクリーンリーダーでの読みやすさを考慮して、改行を挿入しています)

これに私は付け加えたい。「自分に形成されている正しさが間違っているかもしれない」と気づいても、周囲を気にして価値観を修正できず苦しんでいる人もいるに違いない。そんな人たちは「思いが変わってもぶれないもの」を探し続けていることだろう。「よく頑張った」と同時に「もう、止めていいんだよ」と言って欲しいのではないか?

だが、社会はそんなに甘くない。なんだかんだ言って人は利己的だ。すべてを他人のためにささげられる人など皆無だろう。当然、周囲の人間が、本人にとって悪いことでなければ、そうした言葉を掛けてくれる可能性はあるが、直接的に利害がなければ掛けないかもしれないし、反対によく考えているからこそ声を掛けないことだってありうる。

ただ、これは別の言い方をすると、周囲の関心はその程度ということ。逆にそう割り切ってしまえば、案外、苦しみの半分ぐらいは捨て去ることができるかもしれない。

まぁ、そう考えられたら理想的なのだが、そうはならないのが世の常。残念だ。

しかし、「無理だ」とあきらめて、ただ流されて生きたり、理不尽を我慢して生きたり、疑問を抱えたまま生きるのも、あまり気分が良くない。

そこで私は冒頭の結論に達したわけである。この結論の前提は、「正しさを自分で獲得したものと自覚する」ことであるが、これを自覚するプロセスは結構楽しい。そして、前へ踏み出すきっかけぐらいにはなると思う。

もし、今の自分に活路を見いだせない人がいたら、「自分の価値観の変更履歴」を列挙してみると良いかもしれない。それらがポジティブに捕らえられれば、まだ勝機はある。