今日の疑問。競泳で、今回のようなオリンピックや世界選手権のときに、女子の選手が生理になっちゃったらどうするんだろう。学校のプールなら「今日入れません」でいいけどさ。生理でもオッケーなやり方があるんだろうか。

ぜんぜん話は違うけれど、俺は障害者の体験を健常者がするという行為には意味がないと思うのだ。

「全盲の人の体験をしましょう」と言って健常者に目隠しをして歩かせたりすることがある。学校の体験学習とかボランティアの時間とか、そういう授業で多いのではないだろうか。

だが、これは真の意味で全盲の体験をしたことにはならない。むしろ間違った感覚を植え付けてしまうかもしれない。

このような体験をした人に話を聞くと、「怖くてぜんぜん歩けなかった」という感想をよく耳にする。そんなの当たり前だ。今まで見て歩いていたのにいきなり目隠しされたら、そりゃだれだって歩けるはずがない。そして、たいていの場合全盲は初め一人で歩けないだろう。従ってここではスタートラインが間違っている。

真の意味で全盲を理解するとしたら、1ヶ月ぐらい目隠しした状態で過ごしながらリハビリ訓練を受けることによって、全盲が生活するための技術を身につけるところまでやらなければならないと思うのだ。いきなり目隠しされた健常者は、全盲をスペシャリストのように誤解してしまう可能性があるが、全盲はむしろいきなり目隠しされた健常者と同じラインからスタートしているのだ。それを、あたかも初めのラインがぜんぜん違うかのように体験させることは無意味である。

そもそも、健常者が障害者の気持ちや状況を理解するなんて不可能だと思う。一般論として、同じ体験をした人のことはよく分かると言うが、それだったらみんな一度障害者にならなきゃならん。今の医学では、片足を失った人に再び元通り片足を取り付けてあげることはできないし(義足はあくまで義足である)、見えなくなってしまった人をもう1回見えるようにすることはできない。すべての病状に対してそのような技術が可能であれば、とっくに俺は手術をしている。

このようなことから、一度障害者になってしまったら、健常者に戻ることはほぼ不可能なので(可能な場合もあるかもしれんが)、健常者が完全に障害者を理解することは不可能である。

だから、俺としては気持ちなんて理解してくれなくてもいいと思う。本当に理解して欲しいのは、できることとできないこと。頑張ればできることは障害者が自力でやるべきである。ただ、頑張ってもできないことは手をさしのべてもらえれば助かる。従って障害者体験なんてしなくていいから、できることとできないことを知識としてきちんと教え、援助方法を実践するような体験学習を今後取り入れていってほしいものだ。