※この記事には一部差別用語が含まれていますが、リアリティを持たせるためにあえて記述しています。それをご了承の上でお読みください。
はじめに、この文章の要旨を述べ、その後、本分に入りたいと思います。
【要旨】
1. 殺人を犯した犯人を許すことはできない。ましてや、無抵抗の障害者を標的とする殺害計画は、障害当事者として許すことはできない。
2. だが、「障害者は社会のゴミ」と思っている人も少なからずいることは事実であって、当事者はそのことと向き合わなければならない。
3. また、この事件の犯人が、どのような理由で殺人を犯してしまったのか、表層的な事実だけを総合するのではなく、施設で働く個人個人の状況にも目を向けなければならない。
4. 今は健常者でも、将来なんらかの事故や病気で障害を負うかもしれないので、「障害者を恨むこと」は「未来の自分を恨むこと」だという意識を、皆さんに持って欲しい。
【本分】
2016年7月26日の未明、神奈川県相模原市の障害者福祉施設で、障害者を標的とした大量殺人事件が起きた。多くの人は、27日現在の死亡者数19人という数に驚愕しただろうし、障害当事者にとっては「障害者を殺害するなんて怖い」という印象を持った方も多くいることだろう。
詳しい犯行計画や動機などは、これから警察やマスコミが、事実やデマを交えて明らかにしていくことだろうが、個人的には、犯人は非常に強い殺意を持って、そして、きわめて冷静にこの殺人事件を起こしたのではないかと思っている。27日時点で様々な報道を見聞きするかぎり、殺害に対する迷いはなさそうだ。というのも、被害者の多くが、首といった、敵を無力化するのにねらうべきポイントを傷つけていることにある。きっと、福祉施設で働く中で、人の致命的な弱点を知り、そこを計画的にねらったんだろうと思う。
さて、ここで考えなければならないのは、この事件の犯人がどんな経緯でこの事件を起こしたかということは言うまでもなく、「原因があるとしたらいったい何だろうか?」ということである。
現時点では、自分の人生がうまくいかなかったことを、責任転嫁しているだけのようにも思えるが、いくつかの複合的な要因があったと考えるべきだろう。
一つ目は、「障害者は社会のゴミ」と思っている人は、少なからずいるということだ。この事件の犯人のように、施設で働いている人間の中にも、何かしらのきっかけで、そう思う人もいるかもしれない。あるいは、日常生活の中で接する障害者、とりわけ「電車に毎朝乗ってくるやつ」とか「街を歩いているやつ」といった、あまり当事者と深い関係になく、且つ、直接的に嫌悪感をいだいている人たちが該当する。障害当事者としては「広い心でお願いしたい」と思うところではあるが、残念ながら100%そうはいかない現実もある。それは、認識しておかなければならない事実だと、私は思っている。もちろん、人権の範囲内で、障害当事者が権利を主張することは有りだと思うが、そのときの態度が好戦的であるのなら、一人の障害者を見て「障害者はむかつく」という印象をいだかれるリスクもあることを承知しておかないといけない、と私は言いたいのだ。悲しいことではあるが。。。
二つ目は、「障害者」と一口に言っても、その区分とか種別は様々であって、仮に何かしらの嫌悪とか憎悪をいだいている人たちが、必ずしも「障害者全体」をターゲットとしているかどうかは分からない、ということである。この事件の犯人は、どうやら施設に入所していた障害者を標的としたようだが、思想的に「納税している障害者」とか、「それなりに自立している障害者」といった概念を提示したとき、犯人はどう思うのかまでは分からない。僕の知人に、オーストラリアで育った全盲の人がいるけれど、よく「税金泥棒」という趣旨の言葉を投げかけられたと聞くし、その昔は「めくらが酒を飲むな」という差別的な表現を使われた人もいるようなので、潜在的な差別主義者は少なからずいると思うけれど、それが母集団に対して思っているのか、ただ目の前に現れた一つの事例に文句を言っているのかは、正直、判断がつかない。なので、この事件を「障害者全体に対する驚異だ」と思うのは早計な気がする。まあ、これを契機に、批判的な意見がゴロゴロとわき出てくることは考えられるが、気分が悪くなるので僕はそれらを自ら入手することはしないだろう。
三つ目は、実際に施設で働く人たちの気持ちが、あまり一般の人々に浸透していないことではないだろうか。「福祉」という言葉に、だれがどういうイメージをいだくかは分からない。ただ、イメージはともかく、現実は辛いことだと思う。
ここで、考えて欲しい。例えば、生まれつき障害を負っていて、20歳になっても、意思表示もできず、他人の言葉も理解できない人間がいたとする。この人間の良心は、まともな人ならば、親として子供の面倒をみるだろう。だが、金をもらって世話をするという立場に立つと、あなたは、どんな風に気持ちをイメージできるだろうか?
このような場面に直面したとき、福祉マインドが高い人であっても、現実を直視して、何か考えが変わるかもしれないのではないか?
本人が意思表示できない以上、自分が行っていることが本人のためかどうかも分からない。だからと言って、何もしないことが本当に良いことなのか? 本人や家族のことを考えて「安楽死」という選択があるとしても、それは本人の意志に基づかないことなのだから、それは正しい結論なのか? そして得た結論を元に、できることをしていくことも、果たして本人のためなのか?
全員ではないかもしれないけれど、障害者施設に限らず、老人ホームでも言えることだと思うが、このような心理的葛藤をかかえている職員はいるのではないか。この事件の犯人も、実は心の優しい人だったんだけれど、こうした葛藤を経て、いつしか「ゆがんだ思想」を持つようになったのではないか・・・?
また、マスコミ報道ではあまり語られていないようだが、障害内容によっては、周囲の人に何らかの危害を加えてしまうこともある。それは障害故にしかたないことなのだが、理解が不十分で「あいつは野蛮だ」などといった誤解をしてしまう人も、当然ながらいるかもしれない。だれだって、いわれのない暴力を振るわれたら、相手がだれであろうと気分がいいものではないはず。そのことを許容できるかどうか、あるいは理解できるかどうか・・・。この辺も重要なポイントなのではないかと思う。
これらは私が想像できるほんの一部のことだけれど、何か一つの原因があって事件が起きたのではなくて、様々な複合的な要因があって事件が起きたという視点が大事だと思うわけである。
最後に、一つだけ書いておきたいことがある。
人間はいずれ老いていく。そのときに何らかの機能障害を負うかもしれない。加齢だけではなく事故や病気で障害を負うリスクも、だれしもが持つものである。だから、一面的な事実や印象だけで、障害を負っている人を、差別したり排除するのではなくて、いつ自分が同じような状態に陥るか分からない・・・、という認識を、皆さんにも持って欲しい。
障害者を差別することは、未来の自分を差別したり否定することになるかもしれないのだから・・・。