「感動ポルノ」という言葉がなかなか的確だなあと思ったので、自分の意見も書いてみることにした記事

今日ぐらいから、以下の記事を拡散するツイートが結構多い。

障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される-難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは

記事内容は「まあそうだ」と思うわけだが、この記事を読んで、次の本のことを思い出した。

怒りの川田さん―全盲だから見えた日本のリアル (Amazon.co.jp)

久しぶりにこの本を読んでみた。まだ冒頭の数十ページしか読んでいないけれども、これもまた、「まあそうだ」ということが書かれている本である。

著者の川田氏は、一時期視覚障害者コミュニティでたたかれまくっていたことがあって、まあそのころの言動も「しょうがないかな」という感じではあったのだけれども、上記の本に書いてあることは「まぁそうだ」ということなのである。書き方が露骨で皮肉っぽいので、受け入れがたい人もいるかとは思うが、一部を除いて、具体的なエピソードはおおむね現実だと思う。

で、ここにも「感動という形で消費される障害者像」に関する記述があったので、冒頭の拡散記事とは何科関係があるのかなあ?と疑問に思ったのである。川田氏の本はまた続きを読むのだけれど・・・。

ところで、私も以前、「困る話」とか「視覚障碍者を「ひんづかんで」サポートしてくれる人について、もう少し優しくしてくれるように言う方法はないだろうか?」とか「助けてもらうことは有り難いけれど、すべてが万事うまくいくとは限らない」などのエントリーで個別の事象をあげつらってきた。で、ついでにもう一つ。

これは、まあどうでもいい話なのだが・・・。

かれこれ10年ぐらい前、大学進学して初めて一人暮らしを始めたころ、駅からの帰り道におじいさんが声をかけてくれて、途中まで一緒に行ってもらったことがある。歩いているときから「あなた、目が見えなくてよく歩けますねえ」とか「いつから見えないの?」とか、ごくごく一般的な会話をしていたわけであるが・・・。

信号待ちで止まったころから、だんだん話が微妙な方向へ行き始めて・・・。「あなたの親御さんは本当にかわいそうに・・・」とか、「そんなお若いのに目が見えないなんてあなたは不幸だ」とか、だいぶ反応に困る発言がおじいさんの口から解放されてきたとき・・・。

隣で同じく信号待ちしていたおばさんがぶち切れた。

>>おばさん:  (おじいさんに向かって) 「ちょっと、あなた。そういう言い方は失礼じゃないの?彼の気持ちも考えなさいよ!」

その言葉でおじいさんはどこかへ行ってしまったのか無言になったのか、私に話しかけることは無くなってしまったのだが、信号が青になって渡り始めたとき、おばさんが「あなたも大変ね。負けないでね。」と、これまた、どのように解釈したらよいのか微妙な言葉をかけてくださいました。一応「ああ、どうも。まあいつものことですから・・・」と苦笑いしておいたけれども・・・。

で、こういうエピソードも踏まえると、結局、冒頭にリンクを貼った記事にあるように、「障害者は感動ポルノとして消費される」ということは一面で正しいことだなあと感じるわけである。これを見越していろいろなアクションを取っている障害者もいると思いますが・・・。

ただ、一つだけこの記事に不足しているのは、すべての健常者が「感動ポルノ」として障害者を消費しているわけではないだろうということだ。ちょっと、ひょっとしたら記事内で触れられていて私が見落としているのかもしれないけど、世の中の健常者には、「存在否定」という形で障害者を見ている人も、たぶん少なからずいること。悲しいことだけど、受け入れたくはないけれど、改善してほしいとは思うけど、たぶん、それも含めて「社会が障害」なんだと思う。ちなみに、川田さんの本にも書いてあったと思うので、これから確かめてみる。

以上。


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