「国語の授業は何のため?理解した今、もっと真剣に学べばよかったと後悔!」


国語を勉強する意味が今日ようやく分かりました。これが分かっていればもうちょっと真面目に授業を受けていたものを・・・。




国語を学ぶ意味、それは端的に言って言語を習得することであると思う。国語の教科書に載っている文章を通して日本語の表現や意味を学び、それを利用できるようにする。さらには度々先生によってセッティングされる議論の場(ときにはディベート)で、論理的に考える力を身につける。




後者は一部を数学が補っているけれども、リアルタイムに論理的な議論をする訓練はおそらく国語の役割だと思う。まあ、小学校ぐらいだとどの授業でもやってるけど。




俺は国語は別に好きでも嫌いでもなかったため、ちゃんとした日本語を話せる自信はないけれど、自分より日本語が下手だと思う人はたくさんいる。俺も、そういう人も含めて、もう一度国語の勉強をした方がいいんじゃないかなあ。




っていうか、物語の一場面から作者の心情を読み取るってのは無駄じゃないか。それとも授業でそういう訓練をしないと、実生活で相手を思いやることってできなくなるのか?




少なくとも俺は「相手を思いやったり気持ちを察すること」は国語の教科書から学べなかった。国語のそうした問題にははっきりした答えがないと思っているからである。いくら先生用のマニュアルや参考書の解答欄に答えが書いてあったとしても、それが一位の答えであるという保証がどこにあるのだろう。




人間は心にもないことを平気で言ったり書いたりできる。とある作家がテレビ番組で、自分が書いた物語を娘が学校で勉強しているときに、「作者の人はどんな気持ちでこの文章を書いたのでしょう」という宿題が出たとかで、実際に聞かれたそうだが、その作家は「締め切りに追われてひいひい言って書いた」と答えたそうな。身も蓋もない。




その番組というのがバラエティー番組であることを考慮に入れる必要はあるけれども、その作家はどうだか知らないが、中には本当にそんな感じで物語を書いてる作家もいるんじゃないだろうか。アイディアや表現方法はともかくね。




だから、当てにならない答えを考えるのが俺はばからしいと思っていましたよ。たぶん、だから国語が嫌いだったんだろうな。その点、数学は答えに至る過程がいくつかあるにせよ、結論は1つだからね、証明された事柄については。だから好きだったよ。







ところで、実はそんなことを悠長に書いている場合では本当はないのだけれど・・・。様々な事情から本日行う予定だった卒業研究が全くできていない上、昼に作ったキムチ鍋のせいなのか、猛烈に腹が痛い。おまけに少し横になって睡眠をとったら頭痛までおきてるじゃないか!




ああ、なんたることか。月曜日ゼミなのに。しかも明日の日中は用字があってほとんど難にもできないし。頭いてえ。咽いてえ。腹いてえ。




もう、どこかへ行きたいよ、俺は。いっそのこと使い魔として召還されないかね(笑)。




ああ、それが原因だよ。「俺も使い魔になりてえ!」って思ってたからよくなかったんだ。反省。